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溺愛道の教え、その3 想い人を猫っ可愛がりにせよ

溺愛道の教え、その3 想い人を猫っ可愛がりにせよ②

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 なのでハルトは黙殺した。ところがジリアンは漕ぎ去るどころか岩場に飛び移る。

「ぽつねんとウキとにらめっことは淋しい光景だねえ。時に敬してやまない従兄殿はどこだい? でも取りに行っているのかな」
 
 ことさら訝るふうにそう言うと、目庇まびさしをしてあたりを見回した。

「本土のほうの領主館に行ってる。隣の国の王族だかを招いての晩餐会で、今夜はあっちに泊まるってさ」

「やれやれ、どうやら箱にしまって飾っておきたいらしいハルちゃんに独り寝のわびしさを味わわせるとは、無粋で薄情きわまりないね、態度も図体もデカい御方は」

「おれ寝相が悪くて、にいちゃんを蹴飛ばすたんびに布団でくるまれてたから、ここだと大きな寝台で寝返り打ち放題なのがうれしい。許婚ごっこにつき合わされて唯一、得したと思うこと」
 
 小刻みに上下するウキを見つめながら答えて一瞬後、笑い声が炸裂した。

「いやはや正真正銘、清い仲だとはね。剣の試合では電光石火の一撃を得意とするくせに、従兄殿ときたら夜這いをかけるくらいのことに、何をもたもたしてるんだか」

「夜伽……って、どういう意味?」

 画帳に鉛筆を走らせるふりではぐらかされたうえ、餌を食い逃げされた。ケチがついた気分で竿をあげると釣り針が袖に引っかかる。
 ハルトはぷうっと、ほっぺたを膨らませた。〝籠の鳥〟さながらの生活に不満はつのる一方で、なかでも私室の掃除さえ召使に任せるよう強いられるのは、うんざりなのだ。かてて加えて着せかえ人形ではあるまいし、ちゃらちゃらした恰好をさせられるのが嫌だ。今朝にしても、

「後生ですから小間使いの役目を果たせと、おっしゃってくださいませ」

 パミラに拝み倒されて、しぶしぶお召し替えとやらを手伝ってもらった。貝ボタンが縦一列に細かく並ぶ後ろあきのチュニックが本日の〝お召し物〟。すなわち、ひとりでは脱ぎ着しづらい意匠で、イスキアが手ずから脱がせる場面を想定しての、仕立て屋の傑作だ。
 ともあれイスキアは不機嫌の塊といった、すさまじく苦々しげな顔つきで朝食のに現れた。理由は簡単。自分が領主館(本館)で社交上のあれやこれやに追われている間に、ジリアンがハルトにあることないこと吹き込みかねない。いわば純白の布のそばにインク壺を置いて出かけるようなもので、何かの拍子に壺が倒れたら推して知るべし。と、いった不安材料以上に重要な問題があった。
 
 ──そなたを残して館を留守にするのは心臓をくり貫かれるように、つらい。
 
 そう、熱っぽく囁いてのけるほどの芸当ができる性質たちなら苦労はしない。溺愛道の教本を頭の中でおさらいしようが、搾りたてのキュウリジュースで喉の調子を整えようが、駄目だ。珠玉の想いは言葉に置き換えて紡ごうとするはしから、口中で泡雪のごとく消え去った。
 それでも片恋こじらせ童貞三十路男なりに精一杯がんばったのだ。いんにこもった声で帰りは明日になる旨をハルトに告げると、キュウリの冷製ポタージュの皿へと伸びる手に、自身の手をかぶせていった。ヒナを翼でくるむように、そっと握った。
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