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溺愛道の教え、その6 想い人の危機に命を賭けよ

溺愛道の教え、その6 想い人の危機に命を賭けよ①

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 雷神が連鼓れんつづみを打ち鳴らすたび轟音が天地あめつちを揺るがす。横殴りの雨が農園を水浸しにして、キュウリというキュウリがうなだれる。
 洞窟に視線を移すと、生き死にに直結する〝皿〟をしてでも、という場面が繰り広げられようとしていた。

「ううぬ、ヒトが二、化け物が八のなりそこないの分際で大切な許婚に触れるとは羨ましい……もとい赦しがたい。命が惜しければ即刻ぬるがよい」

 銛が一閃してくうを薙ぐ。エメラルドグリーンの瞳は瞋恚しんいほむらに燃えて、イスキアは長衣をからげて池と化した砂地を跳び越えた。
 だが水妖は、しれっとしたものだ。あまつさえ、摑んで離さない足を頬張る真似で挑発してのける。

「わたしを本気で怒らせるとは、しゃらくさい。万死に値すると覚悟せよ」

「ん……いばりんぼ……の声、する。そら、みみぃ?」

 ハルトは霞みがかかっているような目をしばたたき、視線をさまよわせた。ぼやけがちな光景の中で唯一、鮮明な像を結んだものを捉えた瞬間、心臓が甘やかに跳ねた。ヒカリゴケのあえかな明かりが水たまりに反射して、イスキアが水妖に躍りかかっていくさまを、より素晴らしく、より神々しく演出するのだ。

「本当に、駆けつけてくれた……?」

 両手が出っ張りにしがみつくのでふさがっている代わりに、頭をぶんぶん振って、しゃきっとするよう努める。魔の声には幻覚を見せる成分も含まれているのかもしれない、と思う。
 だって嵐が小島を蹂躙しているさなかにもかかわらず、絶体絶命の局面に立たされているところに颯爽と登場するなんて、カッコよすぎて反則だ。
 ときめき、それ以上になぜだか反感をかき立てられて、痺れてまともに動かせない状態の足に力を与える。ブランコで遊ぶように、ぶら下がったきりの水妖をなるたけそっと振り落とした。
 ヒトさながらの上半身と尾びれが、くの字に弾んで雫をまき散らし、そこをめがけて銛が繰り出された。水妖は躰の構造上、陸上では這い進むのみ。不利な条件を補って余りある敏捷さで必殺の一撃をかわした。

「せめてもの慈悲で心臓を貫いてつかわす。神妙にいたせ」

 イスキアが、ずいと踏み出した。銛が唸るや否や、水妖はトビウオさながら全身のバネをきかせて後方に跳ねた。フォーク状の切っ先が一瞬早く突いて、ただし狙いが逸れて尾びれの一部を削いだせつな、悲鳴らしきものが響き渡った。

「──、──……!」

 水妖がのたうつにしたがって鱗が弾け飛び、水たまりが濁っていく。イスキアは背中を踏みつけて抵抗を封じると、銛を大きく振りかぶった。

「待った、ちょっと待った! 殺しちゃダメ、可哀想だろ、ダメ!」

 ハルトはからすべり降りるのももどかしく、イスキアに駆け寄った。反動をつけるため後ろへ引かれた腕を、爪先立ちになって握りしめる。

「こやつは、そなたに無礼を働くという大罪を犯した。命乞いなど無用、八つ裂きにしても飽き足らぬ」

「ひどいことしちゃ、ダメだってば!」

 鮮血──といっても青黒いそれが水たまりにマーブル模様を描くさまに、胸がつきりと痛む。ハルトはしゃにむに銛をもぎ取ろうとして、ところが魔の声による後遺症だ。よろけて、ぱふんとイスキアに抱きつく形になり、キュウリ系の爽やかな香りに包まれると、うれしさとホッとしたのをない交ぜに、こうせずにはいられない。
 淋しがり屋の猫のように長衣に頬をすりつけて、それでも語勢を強めた。

「羊飼いは無駄な殺生はしない。説教して、もう誰も襲わないと約束させて解放するのが恨みっこなしでいいと思う」

「甘い! わたしには領国の民が安心して暮らせるよう危険分子を排除する責任があり、水妖を根絶やしにするのもその一環……」
 
 と、滔々とまくしたてていたのがウッと詰まった。イスキアは〝皿〟が焼け焦げるように感じて、濡れそぼった長衣の袖を急いで押し当てた。怒り狂っているあまり気づくのが遅れた。下穿きを着けているきりのほぼ全裸という姿でしがみついてくるとは嵐を衝いて助けにきたことへの褒美、いや、はしたない。
 だいたい下穿きじたい薄絹を仕立てたもの。瞳を凝らさずとも性器の輪郭を独りでにたどってしまい、かぶりつきで見たい、鎮まれと、せめぎ合う。咳払いと深呼吸を交互にしたうえで鹿爪らしげに言葉を継いだ。

「ここで下手に情けをかけたばかりに、こやつらが狩りに励んだとする。つぎつぎと犠牲者が出た場合、とがを受けるのは水妖のみか? 綺麗事を並べた者は知らんぷりが許されるのか」
 
 反対の手に銛を持ち替えるそばから、イスキアはてめえでてめえをボコボコにしてやりたくなった。一歩間違えば、食い荒らされた肢体を発見する羽目に陥っていた、という悲惨な結末を迎えていたかもしれないのだ。
 ハルトの無事を祝う意味でも、溺愛道の教えからいっても、ありったけの情熱を込めて抱きしめるのが正解のはず。せっかくの見せ場だというのに正論をぶって雰囲気を台無しにするとは、片恋こじらせ三十路童貞男を呪縛するものは、かくも強力なのか。
 ともあれ長衣を脱ぐと、うっかり柔肌に触れてしまわぬよう慎重に(やせ我慢を張るとも言うが)、裸身に着せかけた。

「う~、おれたちも羊を護るために狼をるときはあるけど……」
 
 ハルトは髪の毛を搔きむしった。水妖を野放しにしておいたツケが、ヒト食いが跋扈ばっこする形で回ってこないともかぎらない、と言われたらの音も出ない。だが甘っちょろいと鼻であしらわれても、共存する道を模索するほうが建設的に思えるのだ。
 くくく、ひひひ、と嗤笑ししょうが突然、足下でくぐもった。ハルトは嗤っていない、イスキアは無言だ。戸惑うのをよそに、

「〝皿〟を戴く種族のおさよ。帽子でうわべを飾ってヒトがましくふるまってみせても所詮、われらは同じ穴のむじな

 錆びついた滑車を無理やり動かしたように、しゃがれた声が発せられた。のっぺりした顔の、その口許から。

「わっ、しゃべった!」
 
 ハルトは、ぴょんと飛びのいた。長衣がずり落ちるに任せて縦横ともにひと回り大きな躰にすがりつく。そして仁王立ちに楯になってくれる陰から、ひょこっと顔を覗かせた。
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