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溺愛道の教え、その9 想い人に秘密を持った報いを受けよ
溺愛道の教え、その9 想い人に秘密を持った報いを受けよ③
しおりを挟むハルトは奈落の底から這いあがったような凄みを漂わせて、ゆらりと立った。髪飾り風の帽子が、ランプとランプの間に転がっている。拾い、精緻な金細工がひしゃげたさまに切なさを味わった。
調査がすんだ場所を白地図に書き込んでいくように、ふたりの距離が少しずつ縮まっていった時期を経て、自分とイスキアの間で濃やかに育ってきたものにも疵がついてしまった……。
髪飾り風の帽子がぼやけ、睫毛を濡らす涙をチュニックのの袖でぬぐった。どん! と床を踏み鳴らして感傷的な気分を振り払う。燃え盛る炎さながら黒髪が逆立ち、エレノアですら気圧されたふうに口をつぐんだ。
月光が射し込み、四つのシルエットがカラクリ人形ように揺らめくなかで、ふたつ、重なった。ハルトがイスキアにむしゃぶりついた瞬間に。
「河童なら河童で、いいじゃないか。おれに知られたくらいで、おたおたして、みっともない。いつもみたく、どっしり構えていろよ」
ひと回り大きな躰を揺さぶるたびに、くやし涙がこぼれる。隠し事があったということは、本当の意味では信用してもらえていなかったということで、それが言葉では言い表せないほど、くやしい。
「好きになりかけてたのに……だいぶ好きになってたのに」
十八歳になったこの年まで誰にも恋心を抱いたことはなくて、だから、これがそうだと合点がいくまで無駄に時間を費やした。イスキアがいつの間にか心の中に住み着いて、彼のことを想うと、くすぐったいような幸福感に包まれる理由が、やっとはっきりわかったのだ。
ユキマサを含めて男友だちと手をつなぐのはともかくチュウをしたら、きっとジンマシンが出る。単なる好意と恋情の境界線は密やかに且つ、くっきりと引かれていたのだ。
ただし裏切られた感が強い現在は、恋の魔法にかかったもへったくれもない。イスキアが、わたしは河童の子孫と言い出しあぐねていた気持ちを理解したいと思っても、駄目だ。〝皿〟が灯りを弾いて妖しいぬめりを帯びると、たちまち総毛立つありさまでは、とてもじゃないが一緒にいられない。
「おれ、村に帰る。帰るったら、帰る」
地団太を踏むのにともなって、エメラルドグリーンの瞳がやるせなげに翳っていく。一拍おいて、イスキアは胸倉を摑んで離さない手をやんわりとほどいた。
玻璃でできた小鳥をベルベットのクッションに載せるような手つきで。
それから懺悔するかのごとくハルトの足下にひざまずくと、魂そのものを担保に差し出すように、冀う響きを宿して紡ぐ。
「そなたが、ただただ愛しい。後生だ、婚約は破棄してもかまわぬ。せめて、わたしのそばに留まってはくれまいか」
「いやだ、イチ抜けた、する!」
する、ともういちど叫んで〝鳥かご〟を蹴りつけた。足首をひねっても、繰り返しそうした。
「まあまあ、従兄殿。帰りたいって言うんだから本人の意志を尊重して郷里に帰しておやりよ。野性の薔薇を鉢に植え替えてごらん、枯れるのが関の山。もともと草原育ちの子を都につれてくることじたい無理があったのさ」
打倒・イスキアを旗印に掲げること苦節二十年。ジリアンが親切ごかしに妥協案を持ち出すと、
「賛同いたしますわ。では、さっそく遠乗り用の馬車と馭者を用意しませんと」
エレノアがあ・うんの呼吸で呼び鈴の紐を引っぱる。
ハルトは、ひざまずいたまま微動だにしないイスキアと扉を交互に見た。ふたりの仲を引き裂く気満々のジリアン・エレノア組に対抗してイチャイチャしてみせるくらいのことをしなければ、あっという間に馬車に放り込まれて別れ別れだ。鶴のひと声で、
「決して、ハルトはどこへもやらない」
こそこそ画策しても無駄だ、と知らしめないかぎり思う壺にはまるのは必至の場面だということはイスキアだって重々承知のはず。なのに沈黙を守る。憑き物が落ちたみたいに、おれのことなんか急にどうでもよくなっちゃった……?
片恋こじらせ童貞三十路男の呪いが急性の失語症に陥らせたわけでも、ましてや心変わりなどするわけがない。イスキアは急激に衰弱しつつあった。
その原因はいわば燃料切れ。時として生き死にに直結する〝皿〟。ハルトを奪還するのが最重要課題と位置づけて、水分補給をおろそかにしたツケが正念場を迎えた今この瞬間に回ってきたのだ。ただでさえ怒り狂った影響で蒸発量が日ごろの数倍。
水、と呻き声が洩れたのを耳ざとく聞きつけて、
「おやおやあ、とってもお困りのご様子だよねえ。落書きの件を謝ってくれたら溜飲が下がるってもんさ。仲よし従兄弟のよしみで清らかな水をかけてあげたくなるかもよ」
ジリアンが空っぽの水差しで〝皿〟をつついてくる。
「おのれ~、しゃらくさい真似を……」
「『その節は〝皿〟に悪戯して恥をかかせて悪うございました』──さあ、額ずいて復唱してもらおうか。うひひ、積年の恨みの深さをとくと思い知りたまえよ」
「大昔のことをねちねちと、さもしい根性ですこと。イスキアさま、お待ちになってて。あたくしが、花嫁修業に励むエレノアが、水をお持ちいたしますわ」
「弱みにつけ込んで、増長しおって……」
イスキアは、よろよろと立ちあがるそばから貧血ならぬ貧水を起こして頽れた。その、わずかな振動が響いて〝皿〟のぐるりがささくれる。
「水だね、おれ、汲んでくる!」
ハルトは扉に突進した。ところがジリアンが先回りして立ちはだかる。腋窩をくぐって強行突破を図ると、それは罠で、抱きすくめられてウゲッとなった。
「どうだい、このさい従兄殿はエレノア嬢に譲って、ハルちゃんは僕と乳繰り合うというのは」
「離せ、離さないと〝皿〟? をかち割って踏み砕いてキュウリの肥料にしてやる!」
むしり取りにいく、喉をこちょこちょして阻止する。というぐあいに小型版のベレー帽を巡って攻防戦を繰り広げているさなか、手回しオルガンの陽気な音色が近づいてきた。つづいて廊下側から扉が開いた。
てっきり召使が呼び鈴に応えてやって来たのだと思えば、あにはからんやユキマサだ。ただ、これはなんの趣向なのだろう。かぶりものと、もっこもこの衣装で羊に扮していて、ハルトは目をぱちくりさせながら訊いた。
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