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第1話:忘れられた感謝
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乾いた土の匂いと、微かな薬草の香りが満ちる、名もなき村の小さな家だった。
苦しげな息遣いが、部屋の静寂を細く震わせている。寝台に横たわる小さな少年、その額に浮かぶ汗を、母親らしき女性が祈るように拭っていた。
「聖女様……どうか、どうかこの子を……」
すすり泣きに似た懇願を受け、エラーラと呼ばれた少女は静かに頷いた。亜麻色の髪を質素な紐で束ねただけの彼女は、聖女というにはあまりに飾り気がない。だが、その澄んだ青い瞳には、深い慈愛の色が宿っていた。
彼女は少年の枕元に膝をつくと、そっとその額に手をかざす。すると、どこからともなく柔らかな光が彼女の掌に集まり始めた。それはまるで、春の陽だまりを掬い取ってきたかのような、温かく穏やかな光だった。
「大丈夫。もう、苦しくはありませんよ」
囁くような声とともに光が少年の体を包み込むと、荒かった呼吸は次第に落ち着きを取り戻し、苦痛に歪んでいた顔には安らかな寝息が立ち始めた。
その奇跡の一部始終を、部屋の隅で一人の青年が静かに見つめていた。仕立ての良い、しかし旅慣れた衣服をまとった彼は、リアムと名乗る書記官。膝に置いた分厚い革張りの書物へ、彼はカリ、カリと硬質なペンを走らせる。
『——陽の月、十三日。西の村にて。熱病に冒された少年ルカを治癒。その光、夕暮れ時の空の如し』
.
リアムの眼差しは、慈愛と、諦念と、そして微かな痛みを混ぜ合わせたような、不思議な色をしていた。
翌朝、村の中央広場は快晴の空に包まれていた。旅支度を終えたエラーラとリアムが村人たちに別れを告げていると、一人の少年が元気よく駆け寄ってきた。昨日、エラーラが癒したルカだ。
「聖女様、ありがとう! もうすっかり元気になったよ!」
屈託のない笑顔に、エラーラもまた穏やかに微笑み返す。その表情に嘘はない。だが、次の瞬間、彼女は少し困ったように首を傾げた。
「ええ、それは何よりです。……ええと、お名前は?」
その言葉に、ルカの笑顔がぴしりと固まる。周りの村人たちも、戸惑ったように顔を見合わせた。そんな空気を察し、リアムが静かに一歩前に出た。彼は手にした記録簿を滑らかに開くと、落ち着いた、揺らぐことのない声で告げる。
「エラーラ様、こちらは昨日あなたが癒したルカ君です。ご両親は村でパン屋を営んでおいでです」
「……そうでしたか」
エラーラはこくりと頷くと、改めてルカに向き直った。「ごめんなさい、ルカ君。あなたの元気な顔を見られて、本当に嬉しいわ」。そう言って微笑む彼女に、少年は戸惑いながらも、こくこくと頷き返した。
村を出て、次の街へと続く乾いた道を二人で歩く。しばらく続いた沈黙を破ったのはエラーラだった。
「リアム」
「はい」
「私、昨日はちゃんと笑えていましたか? あの子を、不安にさせませんでしたか?」
それは、彼女が時折口にする問いだった。リアムは歩みを止めることなく記録簿のページをめくる。
「問題ありません。記録によれば、あなたはルカ君を安心させるように、何度も優しく微笑みかけていました。『あなたの勇気が病気を追い払ったのですよ』と。その言葉に、彼の母親は涙を流して感謝を」
「そう……良かった」
エラーラは、まるで初めて聞く物語のように相槌を打ち、ほっと胸を撫で下ろした。彼女は、自分が救った人々のことも、交わした言葉も、そこで生まれた感謝さえも、一夜明ければ忘れてしまう。彼女の記憶は、まるで砂の上に描いた絵のように、癒しの光を放つたびに波に攫われて消えていくのだ。
リアムの持つその記録簿だけが、彼女が生きてきた証そのものだった。
「あなたが覚えていてくれるなら、安心です」
エラーラは心からの信頼を込めて言った。リアムは何も答えず、ただ黙って前を見つめていた。
数日後、たどり着いた宿場町は妙な活気に満ちていた。王都から逃れてきたという人々が、不安げな顔で行き交っている。宿の主人に事情を尋ねると、彼は声を潜めて答えた。
「灰死病ですよ。なんでも、王都で恐ろしい病が流行っているそうで……どんな高名な癒し手の力も通じず、病にかかった者はまるで灰になって朽ちるように、為すすべなく死んでいくとか」
その言葉に、エラーラは青い瞳をわずかに見開いた。
「……王都へ、行かなくては」
誰に言うでもなく、しかし強い意志を込めて彼女は呟いた。
苦しげな息遣いが、部屋の静寂を細く震わせている。寝台に横たわる小さな少年、その額に浮かぶ汗を、母親らしき女性が祈るように拭っていた。
「聖女様……どうか、どうかこの子を……」
すすり泣きに似た懇願を受け、エラーラと呼ばれた少女は静かに頷いた。亜麻色の髪を質素な紐で束ねただけの彼女は、聖女というにはあまりに飾り気がない。だが、その澄んだ青い瞳には、深い慈愛の色が宿っていた。
彼女は少年の枕元に膝をつくと、そっとその額に手をかざす。すると、どこからともなく柔らかな光が彼女の掌に集まり始めた。それはまるで、春の陽だまりを掬い取ってきたかのような、温かく穏やかな光だった。
「大丈夫。もう、苦しくはありませんよ」
囁くような声とともに光が少年の体を包み込むと、荒かった呼吸は次第に落ち着きを取り戻し、苦痛に歪んでいた顔には安らかな寝息が立ち始めた。
その奇跡の一部始終を、部屋の隅で一人の青年が静かに見つめていた。仕立ての良い、しかし旅慣れた衣服をまとった彼は、リアムと名乗る書記官。膝に置いた分厚い革張りの書物へ、彼はカリ、カリと硬質なペンを走らせる。
『——陽の月、十三日。西の村にて。熱病に冒された少年ルカを治癒。その光、夕暮れ時の空の如し』
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リアムの眼差しは、慈愛と、諦念と、そして微かな痛みを混ぜ合わせたような、不思議な色をしていた。
翌朝、村の中央広場は快晴の空に包まれていた。旅支度を終えたエラーラとリアムが村人たちに別れを告げていると、一人の少年が元気よく駆け寄ってきた。昨日、エラーラが癒したルカだ。
「聖女様、ありがとう! もうすっかり元気になったよ!」
屈託のない笑顔に、エラーラもまた穏やかに微笑み返す。その表情に嘘はない。だが、次の瞬間、彼女は少し困ったように首を傾げた。
「ええ、それは何よりです。……ええと、お名前は?」
その言葉に、ルカの笑顔がぴしりと固まる。周りの村人たちも、戸惑ったように顔を見合わせた。そんな空気を察し、リアムが静かに一歩前に出た。彼は手にした記録簿を滑らかに開くと、落ち着いた、揺らぐことのない声で告げる。
「エラーラ様、こちらは昨日あなたが癒したルカ君です。ご両親は村でパン屋を営んでおいでです」
「……そうでしたか」
エラーラはこくりと頷くと、改めてルカに向き直った。「ごめんなさい、ルカ君。あなたの元気な顔を見られて、本当に嬉しいわ」。そう言って微笑む彼女に、少年は戸惑いながらも、こくこくと頷き返した。
村を出て、次の街へと続く乾いた道を二人で歩く。しばらく続いた沈黙を破ったのはエラーラだった。
「リアム」
「はい」
「私、昨日はちゃんと笑えていましたか? あの子を、不安にさせませんでしたか?」
それは、彼女が時折口にする問いだった。リアムは歩みを止めることなく記録簿のページをめくる。
「問題ありません。記録によれば、あなたはルカ君を安心させるように、何度も優しく微笑みかけていました。『あなたの勇気が病気を追い払ったのですよ』と。その言葉に、彼の母親は涙を流して感謝を」
「そう……良かった」
エラーラは、まるで初めて聞く物語のように相槌を打ち、ほっと胸を撫で下ろした。彼女は、自分が救った人々のことも、交わした言葉も、そこで生まれた感謝さえも、一夜明ければ忘れてしまう。彼女の記憶は、まるで砂の上に描いた絵のように、癒しの光を放つたびに波に攫われて消えていくのだ。
リアムの持つその記録簿だけが、彼女が生きてきた証そのものだった。
「あなたが覚えていてくれるなら、安心です」
エラーラは心からの信頼を込めて言った。リアムは何も答えず、ただ黙って前を見つめていた。
数日後、たどり着いた宿場町は妙な活気に満ちていた。王都から逃れてきたという人々が、不安げな顔で行き交っている。宿の主人に事情を尋ねると、彼は声を潜めて答えた。
「灰死病ですよ。なんでも、王都で恐ろしい病が流行っているそうで……どんな高名な癒し手の力も通じず、病にかかった者はまるで灰になって朽ちるように、為すすべなく死んでいくとか」
その言葉に、エラーラは青い瞳をわずかに見開いた。
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