忘却の聖女と記憶の書記官

希羽

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第2話:王都の絶望と聖女の摩耗

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 王都は、噂に聞いた以上の静寂に包まれていた。

 本来であれば、行き交う人々の活気と馬車の立てる賑やかな音に満ちているはずの石畳の道は閑散とし、まるで街の活気という名の心臓が止まってしまったかのようだ。開いている店はまばらで、家々の窓は固く閉ざされている。時折すれ違う王都の衛兵たちは一様に口元を布で覆い、その目には深い疲労の色が浮かんでいた。何よりも空気を重く支配しているのは、建物の隙間から、固く閉ざされた扉の向こうから、絶え間なく聞こえてくる乾いた咳の音だった。

「……ひどい」

 エラーラが思わず漏らした声は、誰に届くでもなく空気に溶けた。彼女の横で、リアムは眉間に深い皺を寄せ、この街を覆う絶望の正体を肌で感じていた。これからエラーラが払うことになるであろう「記憶」という名の代償が、あまりにも大きいことを予感していたからだ。

 二人は王家の使者に導かれ、治療院として開放されている大神殿へと足を踏み入れた。そこは、地獄を現した絵画さながらの光景だった。

 かつては神への祈りが捧げられたであろう荘厳な広間は、端から端まで寝台で埋め尽くされている。呻き声、咳き込む音、そして家族の名を呼ぶ掠れた声。献身的に働く神官や施療女たちも、誰もが憔悴しきっていた。

「聖女様! お待ちしておりました!」

 神官長に案内され、エラーラはすぐに治療を始めた。

 だが、この灰死病はこれまでの病とは明らかに違った。癒しの光を注ぎ続けても、病の影はしぶとくまとわりついてくる。まるで底なしの沼に水を注ぐかのように、彼女の力はみるみるうちに吸い取られていった。一人を癒すのに、今までの何倍もの時間と精神を要した。

 それでもエラーラは手を止めなかった。一人、また一人と、彼女は光を灯し続ける。リアムはその後ろ姿を追いながら、記録簿にペンを走らせる。その速度は、日に日に増していった。

 王都に到着してから、五日が過ぎた。

 エラーラの摩耗は、誰の目にも明らかだった。陽だまりのようだった彼女の光は、今はまるで蝋燭ろうそくの最後の輝きのように、儚く揺らめいている。肌の血の気は失せ、青い瞳の下には濃い隈が刻まれていた。

 記憶の混濁こんだくは、さらに深刻になっていた。

 つい先ほど話したはずの神官の名前を忘れる。割り当てられた自室の場所が分からなくなる。リアムがそばにいなければ、彼女は食事をとることさえ忘れてしまいそうだった。

「エラーラ様、少しお休みください。このままではあなたが倒れてしまう」

 リアムが何度諫めても、彼女は緩く首を振るだけだった。

「まだ、苦しんでいる人がいますから」

 その瞳に宿る使命感だけが、かろうじて彼女を支えていた。リアムは彼女の腕を取り、半ば無理やり寝台へ連れて行く。その足元は、おぼつかなかった。

 その夜。

 リアムが運んだ簡素な食事に、エラーラはほとんど手を付けずにいた。彼女はただ、ぼんやりと自分の両手を見つめている。まるで、それが自分のものではないかのように。

 長い沈黙の後、彼女はか細い声で尋ねた。

「リアム……私は、いつからここに?」
「今日で五日目です」

 事実だけを告げるリアムの声に、エラーラは「そうですか」と力なく呟いた。そして、瞳を伏せ、絞り出すように言葉を続けた。

「……怖いのです」

 その声は、聖女ではなく、ただの一人の少女のものだった。

「自分が何をしたのか、日に日に分からなくなっていきます。あなたが記録してくれたことを聞いても、まるで他人の物語のようにしか聞こえない。……もし、いつか、あなたのことまで忘れてしまったら……私は、どうなってしまうのでしょう?」

 リアムは息を呑んだ。その問いは、彼がずっと恐れていたものであり、そして、既に何度も現実になったことだった。彼は表情を変えぬよう必死に努め、震えそうになる声を抑え込む。

「その時は、また私が自己紹介をします。何度でも。あなたの記憶がどれだけ失われようと、私の記録が、あなたという人間のすべてを証明しますから」

 彼はエラーラの、小さく冷たい手を取った。その手は、微かに震えていた。

「ですから、今はどうか、お休みください」

 リアムの言葉に、エラーラはこくりと頷き、ようやく重い瞼を閉じた。その寝顔は、ひどく幼く見えた。

 リアムは彼女の手を握りしめたまま、静かに誓う。必ず、彼女を守り抜ける別の方法を見つけ出す、と。

 その誓いを嘲笑うかのように、神殿の向こうから、また新たな患者の到着を告げる鐘の音が、夜の闇に重く響き渡った。
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