忘却の聖女と記憶の書記官

希羽

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第3話:記録された絆と禁忌の古文書

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 エラーラが眠りについた後も、リアムはその場を動けずにいた。

 蝋燭の灯りに照らされた彼女の寝顔は、ひどく儚い。握りしめたままの彼女の手は、聖女などではない、ただの年若い少女のそれだった。「あなたまで忘れてしまったら……」。その言葉が、とげのようにリアムの胸に突き刺さる。

 彼女の記憶を繋ぎとめることが、自分の役目だった。だが、今の自分は、彼女が失っていく記憶の速さに追いつくことさえできていない。記録簿に記される文字だけが、空しく増えていく。

(……別の方法が必ずあるはずだ)

 リアムは静かに立ち上がると、眠るエラーラの額にかかった髪をそっと払った。そして、付きっきりの看病で疲労していた施療女に後を託すと、彼は決意を固めて部屋を出た。

 向かった先は、王宮の地下に広がる王立古文書館。

 埃と、古い羊皮紙の匂いが鼻をつく。迷宮のように入り組んだ書架には、この国の始まりから今に至るまでの、あらゆる知が眠っていた。リアムは王家から与えられた全権限を使い、この知の迷宮へと挑んだ。

 過去の疫病に関する記録、古代の呪術に関する文献、地方に残る民間伝承。彼は寝食も忘れ、インクの染みと格闘した。しかし、灰死病に関する記述はどこにも見当たらない。まるで、歴史上、忽然と現れた災いのように。

「くそ……何もないのか……!」

 焦燥だけが募り、時間だけが過ぎていく。無力感に苛まれ、リアムが書架に手をついた、その時だった。指先に、不自然な凹凸が触れた。それは、書架の奥、巧妙に隠された小さな引き出しだった。

 中に入っていたのは、一冊の古びた書物。黒い革で装丁されたそれには、表題さえ記されていない。そっとページを開くと、そこには虫が這ったような古代文字がびっしりと並んでいた。

 リアムは古代言語学にも精通していた。彼は震える手で、その書物を解読していく。

 そこに記されていたのは、数百年前、この国を襲ったという「もう一つの灰死病」の記録だった。それは、当時の王位継承争いに敗れた王族が、国そのものを道連れにしようと放った、魂を蝕む大呪術。

(呪い……やはり、ただの病ではなかったのか!)

 呪いであるならば、解呪の方法もあるはずだ。リアムは渇いた喉で唾を飲み込み、さらにページを読み進める。そして、彼は見つけてしまった。

 『魂浄の儀』と名付けられた、唯一の解呪法を。

 だが、そこに記された儀式の内容に、リアムの血の気が引いた。

「……なんだ、これは……」

 声が、掠れる。

 儀式には、触媒が必要だった。それは聖なる遺物でも、稀少な鉱石でもない。

 ——術者の、「魂」そのもの。

『……術者の魂そのものを触媒とし、自己を形成する全ての記憶、人格、他者との絆……その一切を世界に溶解させ、純粋な生命力へと還元する。これにより、大地に刻まれた呪いは浄化される……』

 書物の記述は淡々と、しかし残酷に続く。

『……儀式を終えた術者は、人としての形は保つも、その魂は空白となる。それはもはや個人ではなく、ただ命を持つだけの抜け殻。生まれたての赤子と同じ、無垢なる器……』

「あ……」

 息が、できない。

 これが、灰死病を癒す唯一の方法。この国を救うための、たった一つの答え。

 しかし、それはエラーラという一人の人間を、この世から完全に消し去ることと同義だった。彼女の優しい声も、穏やかな微笑みも、そして彼女が何よりも恐れていた「リアムとの記憶」さえも、すべて。

 昨夜の彼女の問いが、脳内で木霊する。『私は、どうなってしまうのでしょう?』

 その答えが、これだ。

 パタン、と乾いた音を立てて書物が手から滑り落ちた。リアムはその場に崩れ落ち、頭を抱えた。これは救いなどではない。あまりにもむごい、絶望そのものではないか。

 しばらくして、リアムは亡霊のように立ち上がった。彼は床に落ちた禁断の古文書を拾い上げると、よろめく足で書架の最も暗い、最も深い場所へと向かう。そして、二度と誰にも見つけられぬよう、その奥深くに書物を押し込んだ。

(この書は、誰の目にも触れさせてはならない)

 震える唇で、彼は誓う。

(特に……彼女には)

 エラーラを救うためなら、自分がどんな罪でも背負う。彼女をあんな無惨な「器」にはさせない。

 古文書館の重い扉を開け、リアムは再び地上へと戻った。差し込む月光が、彼の顔に決意と苦悩の深い影を落としていた。

 彼がたった一人で、恐ろしい真実を抱え込むことを決意した瞬間だった。
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