忘却の聖女と記憶の書記官

希羽

文字の大きさ
4 / 5

第4話:最後の夜の選択

しおりを挟む
 王都に、弔いの鐘が鳴り響いていた。

 灰死病の魔の手はついに王城の最奥にまで及び、この国の希望の象徴であった幼い王女が病に倒れたのだ。神殿に満ちていた僅かな希望は絶望に塗り替えられ、人々は為すすべもなく天を仰いだ。

 その報は、療養していたエラーラの耳にも届いた。連日の無理がたたり、彼女自身も高熱に浮かされ、今はただ浅い眠りを繰り返すばかり。施療女たちは、聖女の光ももはや尽きようとしているのだと、唇を噛んだ。

 リアムは、その知らせをエラーラの枕元で聞いた。彼の心臓を、冷たい万力が締め上げる。彼は知っている。この国を救う、禁断の方法を。しかし、それは愛する人の魂を消し去るという、到底受け入れられぬ選択肢だった。彼の葛藤をあざ笑うかのように、弔いの鐘は重く、重く響き続ける。
.
 深い意識の海の中で、エラーラは夢を見ていた。

 そこは、果てしなく続く図書館だった。書架に並ぶのは、彼女が失った全ての記憶。手に取った一冊を開けば、忘れてしまった故郷の風景が広がり、別の本には、忘れたはずの両親の笑い声が記されている。だが、それらは全て、彼女にとってひどく遠い物語のようだった。

 その図書館の最も奥に、一冊だけ、黒革の書物が静かに置かれていた。彼女がそれに手を伸ばした瞬間、文字ではない、奔流のような「真実」が彼女の魂に直接流れ込んできた。

 ふと、エラーラは目を覚ました。

 あれほど体を苛んでいた熱は嘘のように引き、消耗しきっていたはずの体には不思議な力がみなぎっていた。何よりも違うのは、その瞳だった。今はもう、迷いも恐れも映っていない。ただ、夜明け前の空のように、静かで、深く、澄み切っていた。

 彼女はゆっくりと身を起こすと、付き添っていた施療女に凛とした声で告げた。

「リアムを呼んできてください。話があります」

 リアムが部屋に駆けつけると、そこにいたのは彼の知るエラーラではなかった。彼女は窓辺に立ち、静かに月を見上げている。その背中からは、神聖ささえ感じられた。

「リアム、あなたは知っていたのですね。この国を救う、本当の方法を」

 振り向いた彼女の瞳が、まっすぐに彼を射抜く。その言葉には、咎める響きはなかった。ただ、悲しいほどの確信だけが宿っていた。

 リアムの喉が、ひゅっと鳴る。

「……何を、言って……」
「隠さないで。私には、わかります」

 彼の嘘を、穏やかに、しかし決して揺らがぬ声で遮る。リアムは観念したように、かぶりを振った。

「駄目だ! あれは救いなどではない! 君という存在を消し去るだけの、ただの破壊だ! 君を犠牲にして得られる未来に、何の意味がある!?」

 初めて、彼は感情を爆発させた。しかし、エラーラの表情は変わらない。彼女は静かに彼に歩み寄ると、その頬にそっと手を添えた。

「ありがとう、リアム。あなたは私のことを想って、一人で苦しんでいてくれたのですね」
「……っ」
「でも、聞いて。今の私を『私』たらしめているものは何? 故郷の記憶? 両親の顔? いいえ、違うわ。それは全部、あなたの記録簿の中にある、あなたがくれた物語。私自身のものではないの」

 彼女の声は、祈りのように静かだった。

「でも、この心だけ……『誰かを助けたい』と願うこの想いだけは、誰に教わったわけでもない、私自身のもの。私の、全てなの。だから、全てを失っても、この想いで皆を救えるなら……それこそが、本当の私になるということじゃないかしら」

 それは、犠牲ではない。彼女にとって、それは魂の完成だった。

 リアムは、彼女のあまりに気高い覚悟を前に、なすすべもなく膝から崩れ落ちた。彼の瞳から、こらえきれなかった涙が次々と溢れ出す。

 もう、彼女を止める言葉はどこにもなかった。だから、彼は最後の、そして唯一の真実を口にする。

「……私は、あなたを愛している」

 それは、書記官としてではなく、ただ一人の男としての、悲痛な告白だった。

 エラーラは一瞬だけ驚いたように目を見開いたが、すぐに、泣き出しそうに美しい顔で微笑んだ。

「……あなたのその言葉、私は明日には忘れてしまうでしょう。でも、今この瞬間に聞けて、本当に嬉しい」

 彼女は崩れ落ちた彼の前にしゃがみ込むと、涙に濡れたその手を取った。

「だから、約束して。儀式の後も、私のそばにいてくれると。そして、私がどんな人間だったのか、時々でいいから教えてくれる? あなたが愛した女が、どんなふうに笑う人だったのかを」

 リアムは、嗚咽をこらえながら、震える声でただ一言だけを絞り出した。

「……必ず」

 それは、彼が彼女と交わした、最後の約束となった。

 窓の外では、夜の闇が最も深くなる刻を迎えようとしていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

【完結】シロツメ草の花冠

彩華(あやはな)
恋愛
夏休みを開けにあったミリアは別人となって「聖女」の隣に立っていた・・・。  彼女の身に何があったのか・・・。  *ミリア視点は最初のみ、主に聖女サシャ、婚約者アルト視点侍女マヤ視点で書かれています。  後半・・・切ない・・・。タオルまたはティッシュをご用意ください。

記憶喪失の婚約者は私を侍女だと思ってる

きまま
恋愛
王家に仕える名門ラングフォード家の令嬢セレナは王太子サフィルと婚約を結んだばかりだった。 穏やかで優しい彼との未来を疑いもしなかった。 ——あの日までは。 突如として王都を揺るがした 「王太子サフィル、重傷」の報せ。 駆けつけた医務室でセレナを待っていたのは、彼女を“知らない”婚約者の姿だった。

魅了魔法に対抗する方法

碧井 汐桜香
恋愛
ある王国の第一王子は、素晴らしい婚約者に恵まれている。彼女は魔法のマッドサイエンティスト……いや、天才だ。 最近流行りの魅了魔法。隣国でも騒ぎになり、心配した婚約者が第一王子に防御魔法をかけたネックレスをプレゼントした。 次々と現れる魅了魔法の使い手。 天才が防御魔法をかけたネックレスは強大な力で……。

王家の血を引いていないと判明した私は、何故か変わらず愛されています。

木山楽斗
恋愛
第二王女であるスレリアは、自身が王家の血筋ではないことを知った。 それによって彼女は、家族との関係が終わると思っていた。父や母、兄弟の面々に事実をどう受け止められるのか、彼女は不安だったのだ。 しかしそれは、杞憂に終わった。 スレリアの家族は、彼女を家族として愛しており、排斥するつもりなどはなかったのだ。 ただその愛し方は、それぞれであった。 今まで通りの距離を保つ者、溺愛してくる者、さらには求婚してくる者、そんな家族の様々な対応に、スレリアは少々困惑するのだった。

やり直し令嬢は何もしない

黒姫
恋愛
逆行転生した令嬢が何もしない事で自分と妹を死の運命から救う話

行き場を失った恋の終わらせ方

当麻月菜
恋愛
「君との婚約を白紙に戻してほしい」  自分の全てだったアイザックから別れを切り出されたエステルは、どうしてもこの恋を終わらすことができなかった。  避け続ける彼を求めて、復縁を願って、あの日聞けなかった答えを得るために、エステルは王城の夜会に出席する。    しかしやっと再会できた、そこには見たくない現実が待っていて……  恋の終わりを見届ける貴族青年と、行き場を失った恋の中をさ迷う令嬢の終わりと始まりの物語。 ※他のサイトにも重複投稿しています。

私の願いは貴方の幸せです

mahiro
恋愛
「君、すごくいいね」 滅多に私のことを褒めることがないその人が初めて会った女の子を褒めている姿に、彼の興味が私から彼女に移ったのだと感じた。 私は2人の邪魔にならないよう出来るだけ早く去ることにしたのだが。

【完結】泣き虫だったあなたへ

彩華(あやはな)
恋愛
小さい頃あなたは泣き虫だった。 わたしはあなたをよく泣かした。 綺麗だと思った。溶けるんじゃないかと思った。 あなたが泣かなくなったのはいつの頃だった・・・。

処理中です...