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第4話:最後の夜の選択
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王都に、弔いの鐘が鳴り響いていた。
灰死病の魔の手はついに王城の最奥にまで及び、この国の希望の象徴であった幼い王女が病に倒れたのだ。神殿に満ちていた僅かな希望は絶望に塗り替えられ、人々は為すすべもなく天を仰いだ。
その報は、療養していたエラーラの耳にも届いた。連日の無理がたたり、彼女自身も高熱に浮かされ、今はただ浅い眠りを繰り返すばかり。施療女たちは、聖女の光ももはや尽きようとしているのだと、唇を噛んだ。
リアムは、その知らせをエラーラの枕元で聞いた。彼の心臓を、冷たい万力が締め上げる。彼は知っている。この国を救う、禁断の方法を。しかし、それは愛する人の魂を消し去るという、到底受け入れられぬ選択肢だった。彼の葛藤をあざ笑うかのように、弔いの鐘は重く、重く響き続ける。
.
深い意識の海の中で、エラーラは夢を見ていた。
そこは、果てしなく続く図書館だった。書架に並ぶのは、彼女が失った全ての記憶。手に取った一冊を開けば、忘れてしまった故郷の風景が広がり、別の本には、忘れたはずの両親の笑い声が記されている。だが、それらは全て、彼女にとってひどく遠い物語のようだった。
その図書館の最も奥に、一冊だけ、黒革の書物が静かに置かれていた。彼女がそれに手を伸ばした瞬間、文字ではない、奔流のような「真実」が彼女の魂に直接流れ込んできた。
ふと、エラーラは目を覚ました。
あれほど体を苛んでいた熱は嘘のように引き、消耗しきっていたはずの体には不思議な力がみなぎっていた。何よりも違うのは、その瞳だった。今はもう、迷いも恐れも映っていない。ただ、夜明け前の空のように、静かで、深く、澄み切っていた。
彼女はゆっくりと身を起こすと、付き添っていた施療女に凛とした声で告げた。
「リアムを呼んできてください。話があります」
リアムが部屋に駆けつけると、そこにいたのは彼の知るエラーラではなかった。彼女は窓辺に立ち、静かに月を見上げている。その背中からは、神聖ささえ感じられた。
「リアム、あなたは知っていたのですね。この国を救う、本当の方法を」
振り向いた彼女の瞳が、まっすぐに彼を射抜く。その言葉には、咎める響きはなかった。ただ、悲しいほどの確信だけが宿っていた。
リアムの喉が、ひゅっと鳴る。
「……何を、言って……」
「隠さないで。私には、わかります」
彼の嘘を、穏やかに、しかし決して揺らがぬ声で遮る。リアムは観念したように、かぶりを振った。
「駄目だ! あれは救いなどではない! 君という存在を消し去るだけの、ただの破壊だ! 君を犠牲にして得られる未来に、何の意味がある!?」
初めて、彼は感情を爆発させた。しかし、エラーラの表情は変わらない。彼女は静かに彼に歩み寄ると、その頬にそっと手を添えた。
「ありがとう、リアム。あなたは私のことを想って、一人で苦しんでいてくれたのですね」
「……っ」
「でも、聞いて。今の私を『私』たらしめているものは何? 故郷の記憶? 両親の顔? いいえ、違うわ。それは全部、あなたの記録簿の中にある、あなたがくれた物語。私自身のものではないの」
彼女の声は、祈りのように静かだった。
「でも、この心だけ……『誰かを助けたい』と願うこの想いだけは、誰に教わったわけでもない、私自身のもの。私の、全てなの。だから、全てを失っても、この想いで皆を救えるなら……それこそが、本当の私になるということじゃないかしら」
それは、犠牲ではない。彼女にとって、それは魂の完成だった。
リアムは、彼女のあまりに気高い覚悟を前に、なすすべもなく膝から崩れ落ちた。彼の瞳から、こらえきれなかった涙が次々と溢れ出す。
もう、彼女を止める言葉はどこにもなかった。だから、彼は最後の、そして唯一の真実を口にする。
「……私は、あなたを愛している」
それは、書記官としてではなく、ただ一人の男としての、悲痛な告白だった。
エラーラは一瞬だけ驚いたように目を見開いたが、すぐに、泣き出しそうに美しい顔で微笑んだ。
「……あなたのその言葉、私は明日には忘れてしまうでしょう。でも、今この瞬間に聞けて、本当に嬉しい」
彼女は崩れ落ちた彼の前にしゃがみ込むと、涙に濡れたその手を取った。
「だから、約束して。儀式の後も、私のそばにいてくれると。そして、私がどんな人間だったのか、時々でいいから教えてくれる? あなたが愛した女が、どんなふうに笑う人だったのかを」
リアムは、嗚咽をこらえながら、震える声でただ一言だけを絞り出した。
「……必ず」
それは、彼が彼女と交わした、最後の約束となった。
窓の外では、夜の闇が最も深くなる刻を迎えようとしていた。
灰死病の魔の手はついに王城の最奥にまで及び、この国の希望の象徴であった幼い王女が病に倒れたのだ。神殿に満ちていた僅かな希望は絶望に塗り替えられ、人々は為すすべもなく天を仰いだ。
その報は、療養していたエラーラの耳にも届いた。連日の無理がたたり、彼女自身も高熱に浮かされ、今はただ浅い眠りを繰り返すばかり。施療女たちは、聖女の光ももはや尽きようとしているのだと、唇を噛んだ。
リアムは、その知らせをエラーラの枕元で聞いた。彼の心臓を、冷たい万力が締め上げる。彼は知っている。この国を救う、禁断の方法を。しかし、それは愛する人の魂を消し去るという、到底受け入れられぬ選択肢だった。彼の葛藤をあざ笑うかのように、弔いの鐘は重く、重く響き続ける。
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深い意識の海の中で、エラーラは夢を見ていた。
そこは、果てしなく続く図書館だった。書架に並ぶのは、彼女が失った全ての記憶。手に取った一冊を開けば、忘れてしまった故郷の風景が広がり、別の本には、忘れたはずの両親の笑い声が記されている。だが、それらは全て、彼女にとってひどく遠い物語のようだった。
その図書館の最も奥に、一冊だけ、黒革の書物が静かに置かれていた。彼女がそれに手を伸ばした瞬間、文字ではない、奔流のような「真実」が彼女の魂に直接流れ込んできた。
ふと、エラーラは目を覚ました。
あれほど体を苛んでいた熱は嘘のように引き、消耗しきっていたはずの体には不思議な力がみなぎっていた。何よりも違うのは、その瞳だった。今はもう、迷いも恐れも映っていない。ただ、夜明け前の空のように、静かで、深く、澄み切っていた。
彼女はゆっくりと身を起こすと、付き添っていた施療女に凛とした声で告げた。
「リアムを呼んできてください。話があります」
リアムが部屋に駆けつけると、そこにいたのは彼の知るエラーラではなかった。彼女は窓辺に立ち、静かに月を見上げている。その背中からは、神聖ささえ感じられた。
「リアム、あなたは知っていたのですね。この国を救う、本当の方法を」
振り向いた彼女の瞳が、まっすぐに彼を射抜く。その言葉には、咎める響きはなかった。ただ、悲しいほどの確信だけが宿っていた。
リアムの喉が、ひゅっと鳴る。
「……何を、言って……」
「隠さないで。私には、わかります」
彼の嘘を、穏やかに、しかし決して揺らがぬ声で遮る。リアムは観念したように、かぶりを振った。
「駄目だ! あれは救いなどではない! 君という存在を消し去るだけの、ただの破壊だ! 君を犠牲にして得られる未来に、何の意味がある!?」
初めて、彼は感情を爆発させた。しかし、エラーラの表情は変わらない。彼女は静かに彼に歩み寄ると、その頬にそっと手を添えた。
「ありがとう、リアム。あなたは私のことを想って、一人で苦しんでいてくれたのですね」
「……っ」
「でも、聞いて。今の私を『私』たらしめているものは何? 故郷の記憶? 両親の顔? いいえ、違うわ。それは全部、あなたの記録簿の中にある、あなたがくれた物語。私自身のものではないの」
彼女の声は、祈りのように静かだった。
「でも、この心だけ……『誰かを助けたい』と願うこの想いだけは、誰に教わったわけでもない、私自身のもの。私の、全てなの。だから、全てを失っても、この想いで皆を救えるなら……それこそが、本当の私になるということじゃないかしら」
それは、犠牲ではない。彼女にとって、それは魂の完成だった。
リアムは、彼女のあまりに気高い覚悟を前に、なすすべもなく膝から崩れ落ちた。彼の瞳から、こらえきれなかった涙が次々と溢れ出す。
もう、彼女を止める言葉はどこにもなかった。だから、彼は最後の、そして唯一の真実を口にする。
「……私は、あなたを愛している」
それは、書記官としてではなく、ただ一人の男としての、悲痛な告白だった。
エラーラは一瞬だけ驚いたように目を見開いたが、すぐに、泣き出しそうに美しい顔で微笑んだ。
「……あなたのその言葉、私は明日には忘れてしまうでしょう。でも、今この瞬間に聞けて、本当に嬉しい」
彼女は崩れ落ちた彼の前にしゃがみ込むと、涙に濡れたその手を取った。
「だから、約束して。儀式の後も、私のそばにいてくれると。そして、私がどんな人間だったのか、時々でいいから教えてくれる? あなたが愛した女が、どんなふうに笑う人だったのかを」
リアムは、嗚咽をこらえながら、震える声でただ一言だけを絞り出した。
「……必ず」
それは、彼が彼女と交わした、最後の約束となった。
窓の外では、夜の闇が最も深くなる刻を迎えようとしていた。
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