忘却の聖女と記憶の書記官

希羽

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第5話:はじまりの言葉

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 王都に、夜明けが訪れようとしていた。

 東の空が白み始める頃、エラーラは神殿の中央広場、その中心に静かに立っていた。彼女は儀式のために用意された純白の衣をまとい、その表情は嵐の前の海のように、穏やかで、そして厳かだった。

 広場を遠巻きに見守る人々も、祈るように息を殺している。その中で、ただ一人リアムだけが、彼女の最も近くに立つことを許されていた。彼の顔に血の気はなく、その手は固く、最後の役目を果たそうとする記録簿を握りしめていた。

 やがて、エラーラはゆっくりと両腕を天に掲げた。

 呪文の詠唱はない。ただ、彼女の存在そのものが祈りだった。すると、彼女の体から眩いばかりの光が放たれ始めた。それは、もはや陽だまりなどという生易しいものではない。世界から全ての穢れを洗い流そうとする、浄化の奔流。

 光が強まるにつれて、エラーラの輪郭が淡く透けていく。彼女の亜麻色の髪が、青い瞳が、リアムの名を呼んだ唇が、その一つ一つが光の粒子へとほどけ、世界に溶けていく。彼女の記憶が、人格が、魂が、この国を救うための礎となっていく。

 リアムは、愛した女性が目の前で消えていく光景を、ただ目に焼き付けることしかできなかった。

 光は、日の出の光線のように王都を駆け抜け、やがて国中を隅々まで照らし出した。呪われた大地は清められ、病に蝕まれた者たちの体から灰色の影が霧散していく。窓辺で死を待っていた老婆が、健やかな呼吸を取り戻す。王城では、王女がぱちりとその目を開いた。

 街のあちこちから、最初は小さな嗚咽が、やがては驚きと歓喜の叫びが上がり始める。

 そして、全てを照らし尽くした光がふっと消えた時。

 広場の中心で、エラーラは糸が切れた人形のように、音もなく崩れ落ちた。

 リアムは一目散に彼女のもとへ駆け寄った。傷一つないその体を抱き起こすと、彼女はゆっくりと瞼を開ける。

 その瞳は、雨上がりの空のように澄み切ってはいるが、そこには何の物語も映っていなかった。ただ、生まれたての赤子のように、目の前にいるリアムを不思議そうに見つめるだけ。

 聖女エラーラは、その瞬間、この世界から完全に消え去った。

 数日後。

 すっかり元気を取り戻した王は、リアムを玉座の間に呼び出した。

「書記官リアムよ。国を救った聖女を最後まで支えたその功績、まことに見事であった。望むものを申せ。公爵位でも、望むだけの富でも、何でも与えよう」

 だが、リアムは静かに首を横に振った。

「もったいなきお言葉。ですが、私の役目は、ただ彼女のそばにいることだけです。それ以上の栄誉は望みません」

 彼は深く頭を下げると、それきり玉座の間を後にした。

 リアムが向かったのは、王城の奥にある静かな庭園だった。

 噴水の縁に、一人の少女が座っていた。純白の衣をまとった彼女は、指先に止まった蝶を、ただ無心に見つめている。その表情は穏やかで、何の苦悩も、使命も、悲しみも浮かんでいない。

 リアムは、その姿をしばらく黙って見つめていた。そして、これまで須臾しゅゆも手放さなかった、分厚い記録簿に目を落とす。

 そこには、エラーラという女性が生きた、短くも気高い人生の全てが詰まっていた。彼女の笑顔が、涙が、言葉が、その一頁一頁に刻まれている。

 リアムは愛おしむように、その古びた革の表紙を撫でた。そして、小さな、しかしはっきりとした音を立てて、その書物を閉じた。

 彼は少女に歩み寄り、その前にそっとひざまずく。

 驚いたように顔を上げた彼女の瞳は、どこまでも透き通った、美しい空の色をしていた。

 リアムは、堪えきれなかった一筋の涙を頬に伝わせながら、精一杯、優しく微笑んだ。

 それは、記録簿にも記された、彼が彼女に初めて会った日と同じ、始まりの言葉。

「はじめまして」

 少女は、こてん、と不思議そうに首を傾げた。

「私の名前はリアム。……あなたの名前を、教えてくれませんか?」

 彼女がこれから紡いでいく、新しい物語。その最初の頁を、世界で一番優しいインクで記すために。

 リアムは、ただ静かに、彼女の言葉を待っていた。
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