5 / 5
第5話:はじまりの言葉
しおりを挟む
王都に、夜明けが訪れようとしていた。
東の空が白み始める頃、エラーラは神殿の中央広場、その中心に静かに立っていた。彼女は儀式のために用意された純白の衣をまとい、その表情は嵐の前の海のように、穏やかで、そして厳かだった。
広場を遠巻きに見守る人々も、祈るように息を殺している。その中で、ただ一人リアムだけが、彼女の最も近くに立つことを許されていた。彼の顔に血の気はなく、その手は固く、最後の役目を果たそうとする記録簿を握りしめていた。
やがて、エラーラはゆっくりと両腕を天に掲げた。
呪文の詠唱はない。ただ、彼女の存在そのものが祈りだった。すると、彼女の体から眩いばかりの光が放たれ始めた。それは、もはや陽だまりなどという生易しいものではない。世界から全ての穢れを洗い流そうとする、浄化の奔流。
光が強まるにつれて、エラーラの輪郭が淡く透けていく。彼女の亜麻色の髪が、青い瞳が、リアムの名を呼んだ唇が、その一つ一つが光の粒子へとほどけ、世界に溶けていく。彼女の記憶が、人格が、魂が、この国を救うための礎となっていく。
リアムは、愛した女性が目の前で消えていく光景を、ただ目に焼き付けることしかできなかった。
光は、日の出の光線のように王都を駆け抜け、やがて国中を隅々まで照らし出した。呪われた大地は清められ、病に蝕まれた者たちの体から灰色の影が霧散していく。窓辺で死を待っていた老婆が、健やかな呼吸を取り戻す。王城では、王女がぱちりとその目を開いた。
街のあちこちから、最初は小さな嗚咽が、やがては驚きと歓喜の叫びが上がり始める。
そして、全てを照らし尽くした光がふっと消えた時。
広場の中心で、エラーラは糸が切れた人形のように、音もなく崩れ落ちた。
リアムは一目散に彼女のもとへ駆け寄った。傷一つないその体を抱き起こすと、彼女はゆっくりと瞼を開ける。
その瞳は、雨上がりの空のように澄み切ってはいるが、そこには何の物語も映っていなかった。ただ、生まれたての赤子のように、目の前にいるリアムを不思議そうに見つめるだけ。
聖女エラーラは、その瞬間、この世界から完全に消え去った。
数日後。
すっかり元気を取り戻した王は、リアムを玉座の間に呼び出した。
「書記官リアムよ。国を救った聖女を最後まで支えたその功績、まことに見事であった。望むものを申せ。公爵位でも、望むだけの富でも、何でも与えよう」
だが、リアムは静かに首を横に振った。
「もったいなきお言葉。ですが、私の役目は、ただ彼女のそばにいることだけです。それ以上の栄誉は望みません」
彼は深く頭を下げると、それきり玉座の間を後にした。
リアムが向かったのは、王城の奥にある静かな庭園だった。
噴水の縁に、一人の少女が座っていた。純白の衣をまとった彼女は、指先に止まった蝶を、ただ無心に見つめている。その表情は穏やかで、何の苦悩も、使命も、悲しみも浮かんでいない。
リアムは、その姿をしばらく黙って見つめていた。そして、これまで須臾も手放さなかった、分厚い記録簿に目を落とす。
そこには、エラーラという女性が生きた、短くも気高い人生の全てが詰まっていた。彼女の笑顔が、涙が、言葉が、その一頁一頁に刻まれている。
リアムは愛おしむように、その古びた革の表紙を撫でた。そして、小さな、しかしはっきりとした音を立てて、その書物を閉じた。
彼は少女に歩み寄り、その前にそっと跪く。
驚いたように顔を上げた彼女の瞳は、どこまでも透き通った、美しい空の色をしていた。
リアムは、堪えきれなかった一筋の涙を頬に伝わせながら、精一杯、優しく微笑んだ。
それは、記録簿にも記された、彼が彼女に初めて会った日と同じ、始まりの言葉。
「はじめまして」
少女は、こてん、と不思議そうに首を傾げた。
「私の名前はリアム。……あなたの名前を、教えてくれませんか?」
彼女がこれから紡いでいく、新しい物語。その最初の頁を、世界で一番優しいインクで記すために。
リアムは、ただ静かに、彼女の言葉を待っていた。
東の空が白み始める頃、エラーラは神殿の中央広場、その中心に静かに立っていた。彼女は儀式のために用意された純白の衣をまとい、その表情は嵐の前の海のように、穏やかで、そして厳かだった。
広場を遠巻きに見守る人々も、祈るように息を殺している。その中で、ただ一人リアムだけが、彼女の最も近くに立つことを許されていた。彼の顔に血の気はなく、その手は固く、最後の役目を果たそうとする記録簿を握りしめていた。
やがて、エラーラはゆっくりと両腕を天に掲げた。
呪文の詠唱はない。ただ、彼女の存在そのものが祈りだった。すると、彼女の体から眩いばかりの光が放たれ始めた。それは、もはや陽だまりなどという生易しいものではない。世界から全ての穢れを洗い流そうとする、浄化の奔流。
光が強まるにつれて、エラーラの輪郭が淡く透けていく。彼女の亜麻色の髪が、青い瞳が、リアムの名を呼んだ唇が、その一つ一つが光の粒子へとほどけ、世界に溶けていく。彼女の記憶が、人格が、魂が、この国を救うための礎となっていく。
リアムは、愛した女性が目の前で消えていく光景を、ただ目に焼き付けることしかできなかった。
光は、日の出の光線のように王都を駆け抜け、やがて国中を隅々まで照らし出した。呪われた大地は清められ、病に蝕まれた者たちの体から灰色の影が霧散していく。窓辺で死を待っていた老婆が、健やかな呼吸を取り戻す。王城では、王女がぱちりとその目を開いた。
街のあちこちから、最初は小さな嗚咽が、やがては驚きと歓喜の叫びが上がり始める。
そして、全てを照らし尽くした光がふっと消えた時。
広場の中心で、エラーラは糸が切れた人形のように、音もなく崩れ落ちた。
リアムは一目散に彼女のもとへ駆け寄った。傷一つないその体を抱き起こすと、彼女はゆっくりと瞼を開ける。
その瞳は、雨上がりの空のように澄み切ってはいるが、そこには何の物語も映っていなかった。ただ、生まれたての赤子のように、目の前にいるリアムを不思議そうに見つめるだけ。
聖女エラーラは、その瞬間、この世界から完全に消え去った。
数日後。
すっかり元気を取り戻した王は、リアムを玉座の間に呼び出した。
「書記官リアムよ。国を救った聖女を最後まで支えたその功績、まことに見事であった。望むものを申せ。公爵位でも、望むだけの富でも、何でも与えよう」
だが、リアムは静かに首を横に振った。
「もったいなきお言葉。ですが、私の役目は、ただ彼女のそばにいることだけです。それ以上の栄誉は望みません」
彼は深く頭を下げると、それきり玉座の間を後にした。
リアムが向かったのは、王城の奥にある静かな庭園だった。
噴水の縁に、一人の少女が座っていた。純白の衣をまとった彼女は、指先に止まった蝶を、ただ無心に見つめている。その表情は穏やかで、何の苦悩も、使命も、悲しみも浮かんでいない。
リアムは、その姿をしばらく黙って見つめていた。そして、これまで須臾も手放さなかった、分厚い記録簿に目を落とす。
そこには、エラーラという女性が生きた、短くも気高い人生の全てが詰まっていた。彼女の笑顔が、涙が、言葉が、その一頁一頁に刻まれている。
リアムは愛おしむように、その古びた革の表紙を撫でた。そして、小さな、しかしはっきりとした音を立てて、その書物を閉じた。
彼は少女に歩み寄り、その前にそっと跪く。
驚いたように顔を上げた彼女の瞳は、どこまでも透き通った、美しい空の色をしていた。
リアムは、堪えきれなかった一筋の涙を頬に伝わせながら、精一杯、優しく微笑んだ。
それは、記録簿にも記された、彼が彼女に初めて会った日と同じ、始まりの言葉。
「はじめまして」
少女は、こてん、と不思議そうに首を傾げた。
「私の名前はリアム。……あなたの名前を、教えてくれませんか?」
彼女がこれから紡いでいく、新しい物語。その最初の頁を、世界で一番優しいインクで記すために。
リアムは、ただ静かに、彼女の言葉を待っていた。
40
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
女避けの為の婚約なので卒業したら穏やかに婚約破棄される予定です
くじら
恋愛
「俺の…婚約者のフリをしてくれないか」
身分や肩書きだけで何人もの男性に声を掛ける留学生から逃れる為、彼は私に恋人のふりをしてほしいと言う。
期間は卒業まで。
彼のことが気になっていたので快諾したものの、別れの時は近づいて…。
世界の現実は、理不尽で残酷だ――平等など存在しない
鷹 綾
恋愛
「学園内は、身分に関係なく平等であるべきです」
その“正義”が、王国を崩しかけた。
王太子ルイスは、貴族学院で平民出身の聖女マリアがいじめられたと信じ、
婚約者である公爵令嬢アリエノール・ダキテーヌを断罪し、婚約破棄を宣言する。
だが――
たとえそれが事実であったとしても、
それは婚約破棄の正当な理由にはならなかった。
貴族社会において、婚約とは恋愛ではない。
それは契約であり、権力であり、国家の均衡そのものだ。
「世界は、残酷で不平等なのです」
その現実を理解しないまま振るわれた“善意の正義”は、
王太子の廃嫡、聖女の幽閉、王家と公爵家の決定的な断絶を招く。
婚約破棄は恋愛劇では終わらない。
それは、国家が牙を剥く瞬間だ。
本作は、
「いじめられたという事実があっても、それは免罪符にはならない」
「平等を信じた者が、最も残酷な結末に辿り着く」
そんな現実を、徹底して描く。
――これは、ざまぁではない。
誰も救われない、残酷な現実の物語である。
※本作は中世ヨーロッパをモデルにしたフィクションです。
学園制度・男女共学などは史実とは異なりますが、
権力構造と政治的判断の冷酷さを重視して描いています。
---
そんな世界なら滅んでしまえ
キマイラ
恋愛
魔王を倒す勇者パーティーの聖女に選ばれた私は前世の記憶を取り戻した。貞操観念の厳しいこの世界でパーティーの全員と交合せよだなんてありえないことを言われてしまったが絶対お断りである。私が役目をほうきしたくらいで滅ぶ世界なら滅んでしまえばよいのでは?
そんなわけで私は魔王に庇護を求めるべく魔界へと旅立った。
短編)どうぞ、勝手に滅んでください。
黑野羊
恋愛
二度も捨てられた聖女です。真実の愛を見つけたので、国は救いません。
あらすじ)
大陸中央にあるルオーゴ王国で、国を守る結界を維持してきた聖女ロザリア。
政略のため王太子と婚約していた彼女は、突如『真の聖女』が現れたとして婚約を破棄され、聖女の座を追われてしまう。さらに、代わりに婚姻しろと命じられた聖騎士からも拒絶され、実家にも見捨てられたロザリアは、『最果ての修道院』へと追放された。
けれど彼女はそこで、地位や栄光、贅沢などとはほど遠い、無条件に寄り添ってくれる『真実の愛』と穏やかな日々を手にいれる。
やがて聖女を失った王国は、崩壊へ向かっていき――。
ーーー
※カクヨム、なろうにも掲載しています
魅了魔法に対抗する方法
碧井 汐桜香
恋愛
ある王国の第一王子は、素晴らしい婚約者に恵まれている。彼女は魔法のマッドサイエンティスト……いや、天才だ。
最近流行りの魅了魔法。隣国でも騒ぎになり、心配した婚約者が第一王子に防御魔法をかけたネックレスをプレゼントした。
次々と現れる魅了魔法の使い手。
天才が防御魔法をかけたネックレスは強大な力で……。
氷の王弟殿下から婚約破棄を突き付けられました。理由は聖女と結婚するからだそうです。
吉川一巳
恋愛
ビビは婚約者である氷の王弟イライアスが大嫌いだった。なぜなら彼は会う度にビビの化粧や服装にケチをつけてくるからだ。しかし、こんな婚約耐えられないと思っていたところ、国を揺るがす大事件が起こり、イライアスから神の国から召喚される聖女と結婚しなくてはいけなくなったから破談にしたいという申し出を受ける。内心大喜びでその話を受け入れ、そのままの勢いでビビは神官となるのだが、招かれた聖女には問題があって……。小説家になろう、カクヨムにも投稿しています。
婚約破棄されたので、もうあなたを想うのはやめます
藤原遊
恋愛
王城の舞踏会で、公爵令息から一方的に婚約破棄を告げられた令嬢。
彼の仕事を支えるため領地運営を担ってきたが、婚約者でなくなった以上、その役目を続ける理由はない。
去った先で彼女の能力を正当に評価したのは、軍事を握る王弟辺境伯だった。
想うことをやめた先で、彼女は“対等に必要とされる場所”を手に入れる。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる