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第一話:氷の公爵とささやかな事故
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王宮の夜会は、人の熱気と甘い花の香り、そして煌びやかなシャンデリアの光で満ちていた。
壁際に並ぶ長テーブルには見たこともないような美食が並び、楽団の奏でる優雅なワルツに合わせて、着飾った紳士淑女たちが語らい、踊っている。
そんなきらびやかな輪から少しだけ離れ、私はテラスに面したガラス扉のそばで息を吐いた。
私の名前はエメリア・フォン・ラプレース。伯爵家の長女ではあるけれど、特に目立つ美貌も、人を惹きつける話術も持ち合わせていない、ごく平凡な令嬢だ。人いきれに少し疲れてしまい、涼しい夜風に当たっていたところだった。
「ねえ、ご覧になって? アイゼンブルグ公爵様がいらしたわ」
「まあ…! 相変わらず、氷の彫刻のようなお方…」
令嬢たちのひそひそとした声に、私は思わず視線をホールへと走らせた。
人々の輪がわずかに割れ、そこには一人の男性が立っていた。
カイル・フォン・アイゼンブルグ公爵。
銀糸のような髪に、冬の湖を思わせる冷たいアイスブルーの瞳。神が精魂込めて作り上げたかのような完璧な美貌を持ちながら、その表情筋は凍りついているのではないかと思うほどに動かない。
若くして宰相補佐の重責を担い、その手腕は国王陛下も絶賛するほどだという。けれど、彼が向けられる感情の大半は、尊敬よりも畏怖。
人は彼をこう呼ぶ。『氷の公爵』、あるいは『鉄仮面』と。
「一度でいいから、あの方に微笑みかけられてみたいものね」
「無理よ。先ほども侯爵令嬢が勇気を出してお声をかけていたけれど、氷のような一瞥で凍りついていたわ」
令嬢たちの言葉に、私は小さく頷く。
私も、公爵様が笑ったところなど一度も見たことがない。彼は、常に一人。自らも人を寄せ付けないし、周りも恐れて誰も近づけない。まさに、孤高の存在だった。
(私とは、住む世界が違いすぎる方…)
そう思いながら、少し乾いた喉を潤そうと、私は飲み物が置かれたテーブルへ向かって歩き出した。その時だった。
「きゃっ!」
誰かがこぼしたのだろうか。床に濡れた染みがあることに気づかず、私は見事に足を滑らせてしまった。
視界がぐらりと傾き、体が床に向かって落ちていく。受け身も取れず、このまま強く打ち付けてしまう――そう覚悟した、瞬間。
ふわりと、しかし驚くほど力強い腕が、私の体を支えていた。
「…大丈夫か、ご令嬢」
耳に届いたのは、低く、落ち着いた声。
恐る恐る顔を上げると、そこには、先ほどまで遠くから眺めていたアイスブルーの瞳があった。
間近で見るカイル公爵は、人形かと思うほどに整っていて、私は心臓が跳ね上がるのを感じた。
「は、はい…! も、申し訳ございません!」
慌てて身を起こすと、公爵は何も言わずにすっと手を離し、私との間に距離を取る。その仕草すら、どこか冷ややかに感じられた。
彼の手が触れていた腕が、微かに熱い。
「足元には気をつけるように」
それだけを氷のような声で告げると、彼は私に背を向け、雑踏の中へと姿を消してしまった。
残された私は、ただただ高鳴る胸を押さえることしかできなかった。
その後、少し気分が落ち着かなくなり、私は喧騒から逃れるように、再びホールの隅にある長椅子のひとつに腰を下ろしていた。
先ほどの転倒で少し頭を打ったのか、こめかみが微かに痛む。そして、それ以上に奇妙なことが起きていた。
(…なんだろう、この感じ…)
周りの人々の声が、まるで頭の中に直接響いてくるような、奇妙な感覚。ざわざわとした耳鳴りのような雑音に、私は軽く眉をひそめた。
きっと、転んだせいだろう。少し休めば治るはずだ。
そう思っていた時、ふと視線の先に、壁に寄りかかって一人で立つカイル公爵の姿が目に入った。
相変わらずの無表情。何を考えているのか、誰にも窺い知ることはできない。
その、瞬間だった。
(……ああ、先ほどのご令嬢…)
頭の中の雑音が、すうっと静かになる。
そして、まるで隣にいるかのように、クリアな声が一つだけ、私の頭の中に響き渡った。
(…無事だったか。よかった。それにしても、驚くほど可憐な人だったな)
「――え?」
思わず、声が漏れた。
私は驚いて辺りを見回す。けれど、私の隣には誰もいない。
声の主は…まさか。
恐る恐る、もう一度カイル公爵を見る。
彼は相変わらず氷の仮面を貼り付けたまま、静かにホールを眺めているだけだ。
けれど、私の頭の中には、はっきりと聞こえ続けていた。
(気分が優れないのだろうか。顔色が少し白い。誰か、声をかけて差し上げればいいものを…いや、私が行っては、かえって彼女を怖がらせるだけか…)
その声は、心配と優しさに満ちていて、私が知る『氷の公爵』のイメージとは、あまりにもかけ離れていた。
壁際に並ぶ長テーブルには見たこともないような美食が並び、楽団の奏でる優雅なワルツに合わせて、着飾った紳士淑女たちが語らい、踊っている。
そんなきらびやかな輪から少しだけ離れ、私はテラスに面したガラス扉のそばで息を吐いた。
私の名前はエメリア・フォン・ラプレース。伯爵家の長女ではあるけれど、特に目立つ美貌も、人を惹きつける話術も持ち合わせていない、ごく平凡な令嬢だ。人いきれに少し疲れてしまい、涼しい夜風に当たっていたところだった。
「ねえ、ご覧になって? アイゼンブルグ公爵様がいらしたわ」
「まあ…! 相変わらず、氷の彫刻のようなお方…」
令嬢たちのひそひそとした声に、私は思わず視線をホールへと走らせた。
人々の輪がわずかに割れ、そこには一人の男性が立っていた。
カイル・フォン・アイゼンブルグ公爵。
銀糸のような髪に、冬の湖を思わせる冷たいアイスブルーの瞳。神が精魂込めて作り上げたかのような完璧な美貌を持ちながら、その表情筋は凍りついているのではないかと思うほどに動かない。
若くして宰相補佐の重責を担い、その手腕は国王陛下も絶賛するほどだという。けれど、彼が向けられる感情の大半は、尊敬よりも畏怖。
人は彼をこう呼ぶ。『氷の公爵』、あるいは『鉄仮面』と。
「一度でいいから、あの方に微笑みかけられてみたいものね」
「無理よ。先ほども侯爵令嬢が勇気を出してお声をかけていたけれど、氷のような一瞥で凍りついていたわ」
令嬢たちの言葉に、私は小さく頷く。
私も、公爵様が笑ったところなど一度も見たことがない。彼は、常に一人。自らも人を寄せ付けないし、周りも恐れて誰も近づけない。まさに、孤高の存在だった。
(私とは、住む世界が違いすぎる方…)
そう思いながら、少し乾いた喉を潤そうと、私は飲み物が置かれたテーブルへ向かって歩き出した。その時だった。
「きゃっ!」
誰かがこぼしたのだろうか。床に濡れた染みがあることに気づかず、私は見事に足を滑らせてしまった。
視界がぐらりと傾き、体が床に向かって落ちていく。受け身も取れず、このまま強く打ち付けてしまう――そう覚悟した、瞬間。
ふわりと、しかし驚くほど力強い腕が、私の体を支えていた。
「…大丈夫か、ご令嬢」
耳に届いたのは、低く、落ち着いた声。
恐る恐る顔を上げると、そこには、先ほどまで遠くから眺めていたアイスブルーの瞳があった。
間近で見るカイル公爵は、人形かと思うほどに整っていて、私は心臓が跳ね上がるのを感じた。
「は、はい…! も、申し訳ございません!」
慌てて身を起こすと、公爵は何も言わずにすっと手を離し、私との間に距離を取る。その仕草すら、どこか冷ややかに感じられた。
彼の手が触れていた腕が、微かに熱い。
「足元には気をつけるように」
それだけを氷のような声で告げると、彼は私に背を向け、雑踏の中へと姿を消してしまった。
残された私は、ただただ高鳴る胸を押さえることしかできなかった。
その後、少し気分が落ち着かなくなり、私は喧騒から逃れるように、再びホールの隅にある長椅子のひとつに腰を下ろしていた。
先ほどの転倒で少し頭を打ったのか、こめかみが微かに痛む。そして、それ以上に奇妙なことが起きていた。
(…なんだろう、この感じ…)
周りの人々の声が、まるで頭の中に直接響いてくるような、奇妙な感覚。ざわざわとした耳鳴りのような雑音に、私は軽く眉をひそめた。
きっと、転んだせいだろう。少し休めば治るはずだ。
そう思っていた時、ふと視線の先に、壁に寄りかかって一人で立つカイル公爵の姿が目に入った。
相変わらずの無表情。何を考えているのか、誰にも窺い知ることはできない。
その、瞬間だった。
(……ああ、先ほどのご令嬢…)
頭の中の雑音が、すうっと静かになる。
そして、まるで隣にいるかのように、クリアな声が一つだけ、私の頭の中に響き渡った。
(…無事だったか。よかった。それにしても、驚くほど可憐な人だったな)
「――え?」
思わず、声が漏れた。
私は驚いて辺りを見回す。けれど、私の隣には誰もいない。
声の主は…まさか。
恐る恐る、もう一度カイル公爵を見る。
彼は相変わらず氷の仮面を貼り付けたまま、静かにホールを眺めているだけだ。
けれど、私の頭の中には、はっきりと聞こえ続けていた。
(気分が優れないのだろうか。顔色が少し白い。誰か、声をかけて差し上げればいいものを…いや、私が行っては、かえって彼女を怖がらせるだけか…)
その声は、心配と優しさに満ちていて、私が知る『氷の公爵』のイメージとは、あまりにもかけ離れていた。
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