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第七話:嵐の前の静けさ
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皇帝・叡明が静蘭宮を訪れたという事実は、一陣の風となって後宮を駆け巡り、あらゆる潮目を変えてしまった。
私の宮の前には、これまで見向きもしなかった高位の妃からの使いが、列をなすようになった。誰もが丁重な言葉遣いで、私の機嫌を伺い、そして口を揃えてこう言うのだ。
「つきましては、我が宮にも『玉肌香』を卸してはいただけないでしょうか」と。
「雪蘭様、すごいことになりましたわ!」
趙秀英は、山と積まれた注文の文を見ながら、興奮に頬を上気させている。
「これは好機よ、秀英。顧客リストを階層別に分け、新たな販売戦略を立てるわ」
私は浮かれることなく、これをビジネス拡大の絶好の機会と捉えた。私たちは、これまでの紹介制から一歩進め、月ごとに定額で新製品や人気商品を届け、肌診断も行う会員制サービス『月花の会』を立ち上げた。これにより、安定した収益と、顧客との強固な関係を築くことが可能になる。
皇帝の気まぐれという名の追い風を受け、私たちの小さな商会は、本格的な事業へと飛躍を遂げようとしていた。
だが、光が強まれば、影もまた濃くなる。
その頃、張貴妃の宮では、毒のように甘い香が焚き込められる中、密やかな計画が練られていた。
「……漆の木の汁を、ほんの数滴混ぜればよい」
腹心の侍女が、張貴妃に囁く。
「死にはせぬが、触れた者の肌は見るも無惨に腫れ上がり、爛れる。名医でも、完治には数ヶ月を要しましょう」
張貴妃は、満足げに唇の端を吊り上げた。
「実行させるのは、静蘭宮から品を運ぶあの小間使い。田舎にいる病の母親の薬代を援助してやれば、喜んで尻尾を振るわ」
「被害者役は、麗嬪に。事の後には、陛下のお渡りを約束すれば、あの女なら泣いて喜ぶでしょうな」
全ての手筈は整えられていた。緻密に、そして冷酷に。
張貴妃の瞳には、もはや嫉妬の色はなかった。そこにあるのは、邪魔な駒を盤上から排除するための、冷たい計算だけだった。
「……最近、張貴妃の周りが妙に静かすぎるのよ」
月華宮で茶を飲みながら、林淑妃が眉をひそめた。彼女の情報網が、何か不穏な空気を察知しているのだ。
「嵐の前の静けさ、というやつやもしれぬわ。用心するに越したことはない。特に、製品の管理は徹底なさい」
「はい、肝に銘じます」
その懸念が現実味を帯びたのは、数日後だった。
皇太后陛下の誕生を祝う、大規模な夜宴が十日後に開催されるという布告が出されたのだ。
後宮中が、にわかに活気づく。妃たちは、その晴れの舞台で誰よりも美しく輝くため、こぞって『玉肌香』に特別な注文を寄越してきた。
中でも人気が集中したのは、新作の「真珠光の白粉」だった。微粉末にした真珠を配合し、肌にのせると蝋燭の光を柔らかく反射して、内側から発光するような気品のある艶を与える、私の自信作だ。
「これだわ」
その知らせを聞いた張貴妃は、ほくそ笑んだ。
「宴こそ、最高の舞台。皆の目の前で、麗嬪の顔が醜く崩れ落ちれば、『玉肌香』は呪いの化粧品として、後宮から永遠に消え去る……」
これ以上ない、完璧な筋書きだった。
宴の前日。静蘭宮は、出荷作業に追われていた。
注文を受けた数十個の白粉の壺が、美しい絹の布に一つ一つ丁寧に包まれていく。
「雪蘭様、麗嬪様へお届けする品はこちらに」
秀英が、ひときわ立派な螺鈿の箱を示した。私は最終確認のため、その壺の蓋を開け、中身の質感を指先で確かめる。絹のように滑らかな感触、ほのかに甘い香り。問題はない。
「……よし。届けてちょうだい」
女官たちが、完成した品々を次々と運び出していく。その光景を見送りながら、私はなぜか胸騒ぎを覚えていた。
林淑妃の警告が、頭の片隅で警鐘を鳴らす。
(何かを見落としている気がする……)
計画は完璧なはずだった。生産管理も、品質管理も。だが、ビジネスにおける最大のリスクは、いつだって計算の外からやってくる。
その夜。
一人の小間使いが、麗嬪の宮へ届けられる螺鈿の箱を手に、薄暗い回廊を急いでいた。
角を曲がったところで、彼女は待ち構えていた張貴妃の侍女に腕を掴まれる。
「……例のものは、持っているな」
「は、はい……」
小間使いは震える手で、小さな油紙の包みを侍女に渡した。侍女は素早く箱を開け、白粉の壺に、粘り気のある茶褐色の液体を数滴垂らし、手早くかき混ぜる。
事を終えると、侍女は小間使いの手に重い銀子の袋を握らせた。
「良いか。何も見ていない。何も知らない。母親の薬が欲しければ、利口にしていろ」
小間使いは顔面蒼白で頷くと、再び箱を抱え、闇の中へと消えていった。
静蘭宮の私の部屋には、満足げに帳簿を眺める秀英と、安堵のため息をつく私の姿があった。
私たちはまだ、知らなかった。
私たちの築き上げてきた全てを奈落の底に突き落とすための、完璧な毒が、まさに今、放たれたことを。
私の宮の前には、これまで見向きもしなかった高位の妃からの使いが、列をなすようになった。誰もが丁重な言葉遣いで、私の機嫌を伺い、そして口を揃えてこう言うのだ。
「つきましては、我が宮にも『玉肌香』を卸してはいただけないでしょうか」と。
「雪蘭様、すごいことになりましたわ!」
趙秀英は、山と積まれた注文の文を見ながら、興奮に頬を上気させている。
「これは好機よ、秀英。顧客リストを階層別に分け、新たな販売戦略を立てるわ」
私は浮かれることなく、これをビジネス拡大の絶好の機会と捉えた。私たちは、これまでの紹介制から一歩進め、月ごとに定額で新製品や人気商品を届け、肌診断も行う会員制サービス『月花の会』を立ち上げた。これにより、安定した収益と、顧客との強固な関係を築くことが可能になる。
皇帝の気まぐれという名の追い風を受け、私たちの小さな商会は、本格的な事業へと飛躍を遂げようとしていた。
だが、光が強まれば、影もまた濃くなる。
その頃、張貴妃の宮では、毒のように甘い香が焚き込められる中、密やかな計画が練られていた。
「……漆の木の汁を、ほんの数滴混ぜればよい」
腹心の侍女が、張貴妃に囁く。
「死にはせぬが、触れた者の肌は見るも無惨に腫れ上がり、爛れる。名医でも、完治には数ヶ月を要しましょう」
張貴妃は、満足げに唇の端を吊り上げた。
「実行させるのは、静蘭宮から品を運ぶあの小間使い。田舎にいる病の母親の薬代を援助してやれば、喜んで尻尾を振るわ」
「被害者役は、麗嬪に。事の後には、陛下のお渡りを約束すれば、あの女なら泣いて喜ぶでしょうな」
全ての手筈は整えられていた。緻密に、そして冷酷に。
張貴妃の瞳には、もはや嫉妬の色はなかった。そこにあるのは、邪魔な駒を盤上から排除するための、冷たい計算だけだった。
「……最近、張貴妃の周りが妙に静かすぎるのよ」
月華宮で茶を飲みながら、林淑妃が眉をひそめた。彼女の情報網が、何か不穏な空気を察知しているのだ。
「嵐の前の静けさ、というやつやもしれぬわ。用心するに越したことはない。特に、製品の管理は徹底なさい」
「はい、肝に銘じます」
その懸念が現実味を帯びたのは、数日後だった。
皇太后陛下の誕生を祝う、大規模な夜宴が十日後に開催されるという布告が出されたのだ。
後宮中が、にわかに活気づく。妃たちは、その晴れの舞台で誰よりも美しく輝くため、こぞって『玉肌香』に特別な注文を寄越してきた。
中でも人気が集中したのは、新作の「真珠光の白粉」だった。微粉末にした真珠を配合し、肌にのせると蝋燭の光を柔らかく反射して、内側から発光するような気品のある艶を与える、私の自信作だ。
「これだわ」
その知らせを聞いた張貴妃は、ほくそ笑んだ。
「宴こそ、最高の舞台。皆の目の前で、麗嬪の顔が醜く崩れ落ちれば、『玉肌香』は呪いの化粧品として、後宮から永遠に消え去る……」
これ以上ない、完璧な筋書きだった。
宴の前日。静蘭宮は、出荷作業に追われていた。
注文を受けた数十個の白粉の壺が、美しい絹の布に一つ一つ丁寧に包まれていく。
「雪蘭様、麗嬪様へお届けする品はこちらに」
秀英が、ひときわ立派な螺鈿の箱を示した。私は最終確認のため、その壺の蓋を開け、中身の質感を指先で確かめる。絹のように滑らかな感触、ほのかに甘い香り。問題はない。
「……よし。届けてちょうだい」
女官たちが、完成した品々を次々と運び出していく。その光景を見送りながら、私はなぜか胸騒ぎを覚えていた。
林淑妃の警告が、頭の片隅で警鐘を鳴らす。
(何かを見落としている気がする……)
計画は完璧なはずだった。生産管理も、品質管理も。だが、ビジネスにおける最大のリスクは、いつだって計算の外からやってくる。
その夜。
一人の小間使いが、麗嬪の宮へ届けられる螺鈿の箱を手に、薄暗い回廊を急いでいた。
角を曲がったところで、彼女は待ち構えていた張貴妃の侍女に腕を掴まれる。
「……例のものは、持っているな」
「は、はい……」
小間使いは震える手で、小さな油紙の包みを侍女に渡した。侍女は素早く箱を開け、白粉の壺に、粘り気のある茶褐色の液体を数滴垂らし、手早くかき混ぜる。
事を終えると、侍女は小間使いの手に重い銀子の袋を握らせた。
「良いか。何も見ていない。何も知らない。母親の薬が欲しければ、利口にしていろ」
小間使いは顔面蒼白で頷くと、再び箱を抱え、闇の中へと消えていった。
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