「妹の方が聖女に相応しい」と婚約破棄され、魔の塔に捨てられましたが、住んでいた魔帝様の胃袋を掴んだので幸せです。

希羽

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第8話 契約書と慰謝料

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「……は、話し合いだと?」

 泥まみれのアルフレッドが、引きつった顔でハンナを見上げた。
 彼の背後では、魔帝ゼノが愉悦に満ちた笑みを浮かべ、指先で小さなブラックホールをもてあそんでいる。
 話し合いが決裂すれば、即座に「国が消える」という究極の状況だ。

「ええ。アルフレッド様、貴方は私に『戻ってこい』と仰いましたわね?」
「あ、ああ! そうだ! 国が危機なのだ! お前の事務能力と魔力制御が必要なんだ!」

 アルフレッドは必死に食い下がった。
 恐怖に震えながらも、まだ「王命」や「国」という言葉がハンナに通用すると思っているのだ。

「リリアの聖女の力は……その、まだ開花していなかったようだ。だから、お前が戻って補佐をすれば、また以前のように――」
「お断りします」

 ハンナはにっこりと微笑み、即答した。

「なっ……なぜだ!? 過去のことは水に流してやると言っているのに!」
「流すも何も、私、もう『契約済み』ですもの」

 ハンナは隣に立つゼノの腕を愛おしそうに撫でた。

「私は魔帝ゼノ様と『魂の契約』を交わしました。私は一生、彼の傍でプリンを作り、彼は私を生涯守り抜く。……そういう契約ですわよね、ゼノ様?」
「ああん? ……ああ、そうだ」

 ゼノは一瞬きょとんとしたが、すぐに話を合わせた。
 実際は「プリンおいしい、ずっといて」と泣きつかれただけだが、対外的にはそれで通すことにしたらしい。

「魂の契約……だと……?」
「ええ。ですから、私が国に戻るということは、魔帝様との契約を破棄することになります」

 ハンナは困ったように頬に手を当てた。

「契約不履行の違約金は……そうですね、『世界の半分を灰にする』くらいでしょうか?」

 ヒュッ、とアルフレッドの喉が鳴った。

「そ、そんな……」
「貴方は、私に『世界を滅ぼしてでも戻ってこい』と仰るのですか? ずいぶんと大胆な愛国心をお持ちですこと」

 チェックメイト。
 ハンナを連れ戻せば、魔帝が怒り狂って国が滅ぶ。
 連れ戻さなければ、結界が消えて国が滅ぶ。
 どちらに転んでも、アルフレッドに逃げ道はなかった。

「そ、そんな理不尽な……! リリア! お前からも何とか言え!」
「い、嫌よ! 私知らない! お姉様が意地悪なのが悪いのよ!」

 リリアが泣き叫んだ、その時だった。
 ヒヒィィィンッ!
 蹄の音が響き、一台の豪華な馬車が猛スピードで駆けてきた。
 王家の紋章が入った馬車だ。
 扉が荒々しく開かれ、中から転がり出てきたのは――やつれ果てた初老の男性、国王その人だった。

「ち、父上!?」

 アルフレッドが叫ぶ。
 病床に伏せっていたはずの国王が、顔面蒼白で駆けつけてきたのだ。
 国王は息子の言葉など無視し、ゼノの姿を見るなり、その場で膝から崩れ落ちた。

「……あ、あぁ……なんということだ……」

 そして、地面に額を擦り付ける勢いで平伏した。

「魔帝陛下!! 愚息のご無礼、なんと詫びてよいやら……!!」
「へ、陛下!?」
「黙れアルフレッドぉぉぉッ!!」

 国王の怒号が響いた。

「貴様、自分が何をしたか分かっているのか!? あのお方は、かつて大陸の半分を支配した伝説の魔帝だぞ!? 歴史の授業で何を学んできたのだ、この馬鹿者がぁぁ!!」

 国王はガタガタと震えていた。
 王城で「奈落の塔に魔力反応あり」との報を受けた時、彼は最悪の事態を予感した。だが現実はそれ以上だった。
 息子が、あろうことか魔帝の逆鱗である女性を脅していたのだから。

「魔帝陛下……どうか、どうか国だけはお救いください……! この通りです!」
「ふん」

 ゼノは冷めた目で国王を見下ろした。

「興味がないな。俺はハンナとの平穏な暮らしを邪魔されたくないだけだ。……だが」

 ゼノはニヤリと笑い、アルフレッドとリリアを指差した。

「そこの雑種二匹が、俺の飼い主ハンナを不快にさせた罪は重い。慰謝料を請求する」
「は、はいっ! なんなりと!」
「ハンナ。何が欲しい?」

 話を振られ、ハンナは少し考えた後、静かに告げた。

「何も要りませんわ」
「え?」
「お金も、地位も、名誉も。そんなもの、ゼノ様の魔法があればいくらでも手に入りますから」

 ハンナは冷徹な瞳で、かつての家族たちを見渡した。

「ただ、二度と私の視界に入らないでください。……陛下、それが条件です」

 国王は深く頷き、立ち上がった。
 その目には、王としての非情な決断の光が宿っていた。

「分かった。……アルフレッド、リリア!」
「は、はい!」
「貴様らの王位継承権および貴族の籍を、今この時をもって剥奪する!」
「なっ……!?」
「い、嫌ぁぁ! 私は聖女よ!?」
「黙れ! 『真の聖女』を追放し、国を滅亡の危機に晒し、あまつさえ魔帝陛下の不興を買った大罪人どもが! 貴様らは北の孤島にある修道院へ幽閉する! 死ぬまで祈り続けろ!」
「そ、そんな……父上、慈悲を……!」
「連れて行けぇぇッ!」

 国王の命により、騎士たちがアルフレッドとリリアを取り押さえる。
 彼らは「嫌だ!」「離せ!」と喚きながら、馬車へと引きずられていった。
 その無様な姿を見送りながら、ハンナの胸に去来したのは、驚くほど静かな感情だった。

(ああ、本当に終わったのね)

 長年の重荷が、すっと消えていくようだった。

「……ハンナ様」

 国王が、改めてハンナに向き直り、深々と頭を下げた。

「貴女を正当に評価できず、守ってやれなかったこと……王として、親として詫びる。本当にすまなかった」
「……顔をお上げください、陛下」

 ハンナは穏やかに微笑んだ。

「私は今、とても幸せですから。謝罪は不要です」

 それは強がりではなく、心からの本音だった。
 だって、隣にはこんなにも頼もしく、愛らしいパートナーがいるのだから。

「ゼノ様。帰りましょうか」
「……ああ。腹減った」

 ゼノはハンナの腰を抱き寄せ、国王たちに背を向けた。
 そして去り際に、ボソリと、しかし全員に聞こえるように釘を刺した。

「勘違いするなよ。俺がこの国を消さないのは、ハンナの故郷だからだ。……ハンナが悲しむことはしない。だが、二度目はないと思え」

 ドォンッ!
 威圧と共に塔の扉が閉ざされる。
 残された国王と騎士たちは、その場にへたり込み、ただ魔帝とクリスティア令嬢の慈悲に感謝の祈りを捧げるしかなかった。

 ◇

 塔の中に戻ると、ゼノ様はすぐに魔帝モードを解除し、私の背中に覆いかぶさってきた。

「重いですわ、ゼノ様」
「疲れた……。魔力使いすぎた……。偉そうなこと言ってカッコつけたから疲れた……」
「ふふ、お疲れ様でした。とってもカッコよかったですよ」

 私は背中の大きな甘えん坊の頭を撫でながら、窓の外を見上げた。
 雲が晴れ、綺麗な夕焼けが広がっている。
 もう、誰も私たちの時間を邪魔する者はいない。
 私の新しい物語は、この素敵な塔の中から、ようやく始まるのだ。

(完)
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