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皇帝・煌凰
しおりを挟む「はあ~緊張した。甲妃様、噂に違わず気の強いお姫様だったわあ」
自分の宮に戻ってきた珠菊は大きく息を吐いた。空気が美味しい。なんて平和な部屋なんだここは。思わず感動してしまいそうになる。自分の部屋なのに。
「ご苦労様です翼妃様」
言葉とともに横からこと、と茶器が差し出された。ふわん、ゆらんと湯気が立つ緑茶にまたほっとため息が出る。斜め後ろを見て、珠菊は馴染み深い顔に苦笑いを浮かべた。
「睡蓮…お茶ありがとう」
睡蓮は朱家にいた頃から珠菊に仕えている年配の従者だ。疲れ切った珠菊に微笑むと、後から甘いものでも作らせましょう、と提案する。
「それがいいわ…、…にしても13歳で成人してすぐ後宮入りするなんて、それはそれで可哀想よね」
「まだ甘えたい盛りでしょうに…礼部侍郎様もよく許しましたね」
「ああ、甲妃のお兄様…玄 雨水様ね。確かに、前にお会いした時は妹が可愛くてしかたない、って感じだったかしら」
雨水は、その穏やかさと気品と優しげな顔で後宮内でも人気を誇る男だ。珠菊は頬杖をついて以前会った彼を思い出す。
緩く波打った黒髪が特徴の品のいい男ではあったが、腹の中が見えない警戒心の強さもよく感じられるような人だった。まあ、普通の人間ならそこまで気が付かないかもしれないが。あいにくそういう感情には敏感になっているから、珠菊は彼と話すのが気まずくてしかたなかった覚えがある。あと、優男は好みじゃない。
けれど、そんな彼も妹の話になると顔が崩れた。十も歳が離れているから、妹というより娘にも近い気持ちなんだろう。確かにそんな男が、幼い彼女が入宮することを許したのは意外といえば意外だ。
「他の妃が入宮してから長いのに、甲妃はなかなか決まらなかったものねぇ。当主様には長らく姫君が生まれなかったから、近い家から出しても良かったのだけど」
「民が許してくれませんわ、そんな事。星護家以外の家は、品や知性があっても不祥事の全くない家がありませんもの」
「前の皇帝のこともあるから、余計不安を煽りそうだし。…っていっても、錫嬪が実質的に後宮をまとめてるからすでに不安はあるかも?」
「はい。錫嬪は悪い方ではありませんが、世間の評判は確かに悪いと聞きます」
うーん…と珠菊は唸った。彼女は悪い人ではないのに、これで彼女を批判する甲妃が支持されたらいよいよ錫嬪が追いやられる可能性すら出てきた。というのも、前の錫嬪、恵枇の叔母に当たる女性は先代の皇帝を惑わせたと悪名高い人だからだ。
先代の皇帝は本当に歴代の皇帝からは考えられないほど酷い…というか、ある意味人間らしい人だった。
今の白家の当主、玉蘭の姪と先先代の皇帝との間に生まれた人で、気の弱い人物だったそうだが錫嬪…錫 瑤と出会ってその恋に溺れてしまったらしい。彼女は絶世の美女であったせいで、星護家の権威の失墜を図る貴族に利用され無理矢理後宮に入れられた悲劇の人だとも聞いているが、世間からはこんなふうに悪女だと罵られるのだから可哀想にも思える。
もっとも、その影響を今もろに受けているのは他でもない錫恵枇なのだけど。
「玄の君が育てたのですから、妃様方とそう変わらないと思っている方も後宮内には多いのですけれどね。
…まあ確かに陛下は錫嬪に夢中なのだから、その懸念は正しいと言えば正しいのでしょうか」
「夢中と言っても、どちらかというと友達みたいよ?陛下は鱗妃の方が好きみたいだし」
「…人の恋愛事情をやすやすと暴露するのはいただけないな」
「げ、煌?!?」
目を見開いた珠菊は、ビクゥッと後ろを振り返った。そこには、茶色っぽい髪を無造作に下ろした美丈夫がおいおい、と言ったような顔で彼女を見下ろしている。
ー現皇帝、麒 煌凰。政治と国を愛し、即位から数年であるにも関わらず、既に歴代でも名君と称えられる素晴らしい皇帝である。
…少なくとも、後宮外では。
今の彼を見ても、仕事をする彼とは一致しないだろう。頬杖をついてだらんと姿勢を崩していた珠菊に呆れ返ってはいるが、自分も緩い格好をした煌凰はおよそ完璧な皇帝とは言い難い。
「なんだその顔。いいだろ、従兄妹のところに行くのにわざわざ気合い入れる必要はないだろう」
「心読まないでよ~…、ていうか何しにしたの?」
「ああ、そうだった。珠菊、甲妃の様子は…」
「仲良くなれなそう」
「即答か!面白いことになりそうだな」
「やめて、面白がらないで…胃が死んじゃう」
ケタケタと笑う煌凰に珠菊はぎゅっと顔を顰める。本当に笑い事じゃない。あの後爪妃は最低限の言葉をかけたら帰ってしまうし、鱗妃も静かな怒りを滲ませながら、どうぞよろしく、とだけ言って黙ってしまった。珠菊まで彼女を邪険にしては、それはそれで彼女もやりにくかろうとその場を取りなしはしたものの、本当に吐くかと思った。
「私、お給金貰ってもいいぐらいだと思うんだけど」
「戸部のやつに言ってくれ…いや、後宮のやつは別の部署だったか?金の管理は任せきりだから忘れてしまった」
「政治好きってわりにはそこら辺緩いの、どうなの」
「いいんだよ、それは俺の役目じゃないし、お前たちの血は裏切れないだろう」
余裕ぶって笑顔を崩さない煌凰に、珠菊は一瞬言葉を詰まらせた。
間違ってはない。戸部尚書も含めて、星護家の人間というのはこの国が始まって以来、なんと100年以上も裏切る素振りさえ見せなかった。それは、皇帝と同等の権力があるからなのからと言われたり、お互いを見張っているからだと理由をつけられたりはするけれど、それだけでは信じ切るには足りないだろう。
この男は、呪いを信じているのだ。神から力と権力を受け取った代わりに、それらを欲することがないようになってしまったという私たちにかけられた呪いを。
そんな確証のないもので大丈夫だと言い切ること男は天性の指導者なのか、ただの馬鹿なのか…。
「…うーん、どっちもかなあ」
「お前、絶対失礼なこと考えてただろ。胡蝶のことも言いやがって」
「本人には届かないところで言ってるんだから許してよ。というか、今日は甲妃のとこ行くんでしょ?早く行ったら?」
「馬鹿言え、夜遅く言って寝るだけにするに決まってんだろ…。やることやってみろ、雨水にヤられる」
「…確かに」
どうやら、最強の皇帝様も妹狂いの幼馴染には勝てないようだ。…うん、弱そう。また失礼なことを考えて、珠菊は口元を隠して口角を上げた。
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