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新生活
コロコロ
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「あ、また」
声が聞こえて、『ヤバ』と焦る。
どれの何を言われるのか。
心当たりがありすぎて、とりあえず止まる。
「ごめん」
理由は分からないけれど、謝罪する。
とにかく謝ることが大事だと思う。
「家の中では、スリッパ履いてよ」
あ、スリッパか…。
自分の裸足をちらりと眺め、もう1度「ごめんなさい」と言う。
彼は慣れたように『うん、履いて』と再度静かに言う。
特に怒ってもいない、淡々とした口調。
決定事項を告げる言葉。
「うん、履く」
「裸足は油出るんだから」
「うん、ごめん」
「謝らないで良いから」
怒っているわけではないことは、表情からも言葉からも伝わる。
綺麗好きな彼。
その彼は、家の中を清潔に保つことが好きだ。
そんな彼に嫌われないようにすること。
それが、私。
田舎で育った私は、畳で裸足で過ごすのが日常だった。
母には靴下を履くように言われていた。
だけど、素足の方が気持ちが良いと裸足で過ごすことがやめられなかった。
畳が多い実家のせいだとも思えなくもない。
そしてそのまま大きくなった。
進学と共に、実家を出て同じサークルで出会った彼。
考古学サークルなんて、ベタなサークルだったのに。
冷やかしと興味本位で向かった私に、運命的な出会いが訪れた。
といっても、運命を感じたのは私だけだったけど。
つい、で向かった私が見たのは、しっかりと将来を見据えて教授と色々なことを話し合う彼の姿だった。
同級生のはずなのに、すでに2年くらい差があるような安定感があった。
いかにも“優等生”という雰囲気の彼。
清潔そうなワイシャツに、黒のスラックス。
短めの黒髪に、まっすぐな姿勢。
シンプルな姿に、単純に“シュッとした人だなぁ”と見惚れてしまった。
友達だか知り合いだか分からないが『委員長』とか『会長』と呼ばれていたので、きっと中学とか高校では何かの代表だったのだろう。
私は友達も知り合いもいない所からスタートしたけれど、彼はすでに知名度があったみたいだった。
そんな彼が入るのであれば…なんて考えたのは当然のことで。
不純な動機で選んだはずのサークルに入ったのは、当たり前の流れだった。
彼は経済学部、私も学部は一緒だった。
ただ、専攻する科が違っていたのでまるっきり被ることはなかった1年生。
食堂でも講義室でも、彼がいるとすぐに目で追いかけた。
どれだけ人がいても見つけられる、私の特殊能力みたいなもの。
重なる講義が増え、ワクワクする曜日が増えた2年生。
講義が重なっている時は、彼の後方に座ることが多くなった。
いつでもまっすぐの背中。
凛としている姿に惹かれるのは、私だけじゃなかった。
1人でいるか、時々数人に囲まれている姿。
遠巻きに見ているだけで良かったのに…。
講堂でもサークル部屋でも、同じ空間にいられればそれで良かった。
彼の個人的な情報なんて何も知らない。
見ているだけで、満足で。
一緒の空間にいられるだけで、そう、私には充分だった。
いつでも見ていたまっすぐな背中。
なのに、急接近した3年生。
そこから私の生活は、一気に加速したような気がする。
自分でもびっくりな展開に。
彼とお付き合いすることになったから。
あれから更に、数ヶ月。
もう『卒業』の文字が、あちこちに見えるようになった。
選択する講義も少なくなり、卒論に割く時間が増えた。
私は過去の卒論から似たようなものを選び、どこにでもありそうな文章を書くだけ。
面倒くさがりで、無難な性格だから。
ゼミも緩め、あとは就職のみだ。
彼は、すでに進路先が内定している。
卒論も、ほぼ毎日教授の元に通い、より良くするための時間を設けている。
規則正しい生活を送る彼は、毎日同じ時間を繰り返している。
朝はすれ違うことが多かったはずなのに、今日は偶然すれ違ってしまった。
見ているだけで満足だったはずの視線は、何故か交差してしまった。
どうしてこうなったのか、今となっては何とも言えない。
彼に抱いた好意は、今も変わらず残っている。
「ねぇ?」
ふと問いかけられる。
「何?」
じっと見られ、何があるのだろうかと見つめ返す。
見られても緊張しなくなったのは、いつからだっけ?
会話をするのに、どもらなくなったのは?
そんなことを考えてしまうのは、懐かしい夢を見たから。
そんな私に構わず、彼はじっと私を見る。
まだ何かあったかな?
洗面台の水しぶきはその都度綺麗にしているし、お風呂場のシャワーヘッドも上の方で固定しているし、トイレの蓋だってきちんと閉めてる。
ゴミ箱だって溢れる前にきちんと片付けているし。
自分で思い当たることは、多分ない。
「どうしたの?」
言葉が続かない彼に、思わず問いかける。
「…久しぶり」
彼の言葉は、意外だった。
「ひさしぶり?」
思わず繰り返す。
この家で一緒に暮らすようになって、その生活も慣れたものになって…。
確かに久しぶりにきちんと顔を見た気がする。
多分、2週間はすれ違っていたかな、と思い出す。
あの時も、『食べた後はきちんとテーブルを拭いて?』と至極当たり前のことを言われた。
その時も私は勿論すぐに謝った。
こんな私はすぐにへこたれてしまうと思ったのに。
一緒に暮らすことは、意外に楽だと思ってしまった。
彼の生活領域に入り込むこと。
その間も彼は“彼”のままだった。
マイペースで、自身の時間を大事にする。
何で、こんな私と一緒に過ごしてくれたんだろう?
眺めているだけで満足していた私は、いつの間にかその気持ちがしっかりと透けていたらしい。
透過した恋心は、まっすぐに彼に伝わっていた。
だからなのか3年生になってすぐ、彼が話しかけてくるようになった。
驚きと緊張で、何を話したのかなんて覚えてなかった。
今朝、夢で見るまでは。
だけど、その初めましての会話の後からだろうか?
彼との接点が増えていった。
最初は挨拶で始まり、ポツポツと交わすサークルのこと。
何となく、なんて始まりが本当にあって…。
“恋人前のお友達期間”という、どこかの教科書にでも載っているような時期を数ヶ月経て。
そのまま“お付き合い”に突入してこれまた数ヶ月。
その延長線上で“同棲”することになって、今ここにいる。
考える私に、変わらずまっすぐな視線を送る彼。
凛とした姿は、一緒に暮らしていても変わらなかった。
というか、いつもならもう家を出る頃じゃないのかな?
「時間、大丈夫?」
私の言葉に、彼がハッとしたように壁掛けの時計を見る。
「そろそろ行く」
「うん」
自分の部屋に戻って行く彼。
彼のご両親が選んだというマンションは、とても清潔で快適だった。
部屋が余っていたから。
そんな理由で転がり込むことになった私。
私は午後に1コマあるだけ。
だから、午前中は暇になる。
バイトに行く予定なので、私も部屋に戻る。
私が過去に借りたアパートよりも広い部屋。
十分すぎる空間。
時々彼が部屋を確認しに来るから、汚くはしていない、はず。
彼と暮らすようになって、物を増やさないことを覚えた。
収納には限界があるから。
実家から引っ越ししたアパートよりも、物が減った部屋をぐるりと眺める。
いつの間にか、彼のようなシンプルな部屋になっていた。
「あ、私も行かなきゃ」
この生活も、もうすぐ終わりだ。
…彼との生活も、多分卒業と共に終わり、になるのだろう。
将来のことなど、何も話していない。
季節は秋を通り過ぎる所だ。
きっと、お互いに別の道を行くのだろう。
そんなことを、ぼんやりと考える。
不思議と寂しさは感じていない。
元々、別の世界の人なんだから。
とても幸運な夢を見ていたと思えば、お釣りがきてもおかしくない。
みんなの憧れの彼と暮らす学生生活なんて。
貴重な体験をしていると今でも感謝している。
私も、そろそろ内定の可否が出るはず。
地元にある系列会社。
その子会社が、こっちにもあったから。
時代なのか、エントリーでほぼ決まるとのこと。
駄目だったら、次の会社にエントリーする。
それだけ。
だけど、最終的に地元に戻るつもりでいるから、出来ればこの系列会社で決めたい。
彼と別れた後に、誰かを求める気持ちは今のところない。
だから、このまま1人で生きていくのだろう、とぼんやりと考える。
意外に楽しかった2人での生活。
楽しいだけじゃなくて、彼への迷惑も結構あったと思う。
だけども、思い出したら楽しいことしか残っていない。
この部屋だって、元を正せば彼が住んでいた部屋だ。
彼の性格らしく、4月から住み始め3月で終わる契約。
契約が終了したら、私も速やかに出て行く。
ううん、内定を貰ったら出て行く方が良いだろう。
実家とここから真ん中くらいの位置になる会社。
絶妙に未練が残った希望先。
でも決まったら…。
早めに地元に戻り、社会人に備えないと。
そう思うと感慨深い彼の部屋。
そりゃ少しは想像したけど。
彼が住む部屋はきっとモデルルームみたいなのだろうと。
実際に来てみたら、家や部屋には拘りのなかった彼。
だけど、綺麗好きなのはすぐに分かる整頓された空間。
私が数か月前まで住んでいたアパートとは違う。
私は大学進学を決め、しばらくは実家暮らしだった。
だけど、通うのが大変になり、母から家を出ることを提案された。
実家から通うのは大変だったけど、面倒くさがりだから別に良いかと探すのもずるずる伸びて。
だから更新のタイミングが変な時期になってしまった。
だけどそのおかげで、結果的に私のアパートの更新のタイミングで彼のマンションに一緒に住めるようになった。
私が一緒に住むことは、彼にとって特に反対することではなかったらしい。
地味に嬉しかったのを思い出す。
『部屋が開いてるから、一緒に暮らす?』
そんなシンプルな言葉だった。
焦ったのは、勿論私の方だ。
この性格もだらしない生活も筒抜けになってしまうと。
だから、まずは住むにあたり家賃の相談から始めた。
家賃は半分、彼に払っている。
電気代も、水道代も、食費も、全部半分ずつ。
彼のご両親が払っている部屋だから、と彼は言った。
尚更、譲れない線引きだ。
その方が私が気兼ねしないから。
私は学業優先じゃないから、バイトだってするし遊びに行く。
だけど、彼は学業を優先することでバイトはしなかった。
『ただ、遊んでいる私が暮らすなんておこがましいから』
そういうと、彼は複雑な顔をしながらも受け入れてくれた。
彼のマンションは綺麗で、居心地が良い。
だから、このまま住んでたいけど。
それは無理な話だろう。
私の内定が出たら、話をしよう。
内定が出るのは、まだ当分先だから。
そう、思っていたのに…。
何でだろう?
タイミング。
今日、卒論ゼミの教授から急に『おめでとう』と言われた。
ゼミ室に来るようにとのラインで先生のところに行くと急に内定がもらえていた。
少しコネ感は拭えないけれど。
いやいや、そんなことはない、はず。
お父さんが、同じ会社で働いているから。
地元で。
そんなことは、エントリーシートに記入しない。
だけど、確かに内定が出たことを言われた。
未練が残った希望先に、就職が決まったのだ。
あとは、単位の回収に漏れがないか、卒論がきちんと仕上がるか、のみだ。
ここでの生活も、あと数ヶ月?
そんなことを思っていた朝に、急に『終わり』の文字がちらついた。
決心が鈍る前に、予定通り実家に戻ろう。
荷物が少なくなったから、すぐにでも引っ越しは出来そう。
面倒くさがりな私だけど、そのくらいのけじめはつけますよ?
午後の講義を受け、家に帰る。
帰り道、時々寄る百均が目に入った。
そうだった。
コロコロを切らしていたんだっけ。
替えのテープがないか、店内に入る。
意外に持つんだよなぁ。
1個で数ヶ月。
2個セットの物か3個セットの物か。
地味に悩む。
残りの学生生活が半年もない。
じゃあ、2個セットで良いか。
余ったら最後の掃除に贅沢に使おう。
そう思い、2個セットを買う。
1つしか買わない。
他には、惹かれるものの別に良いかという物ばかり。
こういう所が、きっと面倒くさがりなんだろう。
家に帰り、ごはんの準備をする。
簡単な物しか作らないけど。
一応、お母さんから教わった料理。
ごはんと、汁物と、おかずと。
楽なレシピばかりを動画で覚え、手抜き料理の完成。
何か、こういうので良いのか疑問になる。
だけど、彼は変わらずほぼ毎日『ありがとう』と言ってくれる。
遅くなる時は、連絡をくれる彼。
そんな彼は、今日は早く帰って来た。
言うのならこのタイミングしかない。
ごはんの準備をして、すぐに夕飯になる。
食べながら、『そういえば』と私が言おうと思っていた言葉が先に聞こえた。
「うん?」
「何で君の部屋に段ボールがあるの?」
私は基本的に部屋のドアは開けたままだ。
開放的で良いと思っているから。
見えてしまったのかな?
バイト先からもらってきた3つの段ボール箱。
3つで済んでしまった私の雑貨類。
無くても困らないと気付いた私の持ち物。
笑ってしまうほど少なく、軽い荷物になった。
衣類とかは少しずつ実家に運べば良いんだし、と本当にあっさりと綺麗になった。
掃除はまだしてないけれど。
でも、これならすぐに掃除は出来そう。
「何をしていたの?」
彼のまっすぐな眼差し。
「そろそろ、荷物をまとめておこうかと」
なので、素直に答える私。
「え?まだ、早くない。というか、先のことを決めてからじゃないの?」
彼の言葉に『先?』と繰り返す。
「早い?私は内定を貰ったら、もう次の準備をしないとなぁ、とは思ってたけど」
「次の準備?何のために?」
彼の視線は不思議を表していた。
「いや、そろそろ卒論のまとめで忙しいでしょ?」
「そうだけど…。それと、君の準備?が関係ある?」
関係は、なくはない、かな。
卒論で忙しい彼の負担になりたくない。
私の生活面でのチェックなんて、彼の負担以外の何物でもない。
余計なことで煩わせたくない。
「今日、内定を貰ったの」
話題が変わったことで、彼が瞬きをする。
「そうなんだ。おめでとう」
なのに、そう言ってくれる。
「…ありがとう」
優しい彼。
朝も、裸足で過ごす私にスリッパを促してくれた。
彼の貴重な時間を奪う私は、ここにいない方が良い。
だから、一旦実家に戻ってみよう。
そう決めたんだ。
「だから、次の準備?」
彼の言葉は、やっぱり不思議を示していた。
だけど、深く考えずに私は肯定した。
「そう」
「荷物をまとめて、どこに置いておくの?」
「あぁ、実家に1回送ろうかと」
何でもないことのように言った私の言葉に、彼が驚いた顔をする。
「え?何で?」
何でと言われると、私も首を傾げそうになる。
だけど、私の荷物は私の物だ。
いつまでも彼の部屋に置いておくわけにはいかない。
「わざわざ実家に送らなくても…」
彼の言葉に、今度こそ私も首を傾げる。
「何で?荷物だけじゃなくて、私も1回実家に戻ろうと思ってるから」
「…それこそ、何で?学校に遠くなるのに?」
確かに1時間以上かけて通学するのはきつい。
一緒に住むことになった理由。
だけど、後期になったし。
そう、もう後期なんだ。
卒論以外は、ほぼ通学がない。
なら、実家から通うのも苦痛ではない。
混む時間帯を避けて通えば、何も問題はない。
バイトも辞めて、地元で短期のバイトでも探せば良い。
「ごめん。意味が分からない」
彼の言葉に、何を理解されていないのか私も分からなくなる。
「意味?」
聞かれたことが分からず、私は単語のみを繰り返す。
「そう、荷物と君が実家に戻る意味」
彼は気になることは、何でも確認する。
それは、1年生のサークルの時に感じた。
真面目だなぁ、と。
なら、聞かれたことの返答はこうだろう。
「社会人に備えて?1回実家に戻りたい」
私の返答に、彼は目を細めた。
あれ、機嫌が悪い?
それとも、何か納得のいかないことがあった?
考える私。
「…俺が、煩いから?」
彼は煩くなどない。
基本的に物静かだ。
「煩くないと思うけど?」
「だけど、君にいつでも煩く声をかけていた」
それは彼のせいじゃない。
私のだらしなさが出ているせいだ。
私は綺麗好きではないから、彼の気になることはその都度教えてほしいと。
忘れてしまうので、面倒をかけるけれどその時に言われないと私は覚えられない、とも。
「いつでも、怒ってたから?」
どんな時でも、理性的で私に対して怒ることなど1度もなかった。
「煩くなんて、してないでしょう?怒ってもいなかったよ?」
「でも、じゃあ…」
答える私に、彼はまだ目を細めている。
「じゃあ、何でここを出て行くの?…俺が、俺と暮らすのが嫌になったからじゃなくて?」
彼の言葉こそ、意味が分からなかった。
ぽかんとする私。
そもそも暮らすのが嫌だと思っていたら、ここに座ってごはんなんて食べてない。
何を言ってるのだろうか?
「暮らすのが嫌なんて言ってないでしょ?」
私の言葉に細めていた目を戻すが、表情は硬いままだった。
「じゃあ、何でこんな時期に部屋を出て行くの?」
え?出て行くと言われると、何かニュアンスが違うと思うのは私の気のせい?
「出て行くというよりかは、あなたに部屋を返すという方が正しくない?」
元々、あなたの暮らしているマンションだったんだから。
私の言葉に、彼は納得がいかないようだった。
「全部、折半しているのに?」
彼の言葉は、やはり硬い。
「折半していても、ここはあなたが借りた部屋で、私が転がり込んだのは間違いないんだし」
「それでも、もうここは君の暮らす家だ」
そう言われてしまうと、そうなんだけど、としか返しようがない。
「俺が、神経質だと思って、嫌になった?」
神経質?
微妙なラインだけど、そうではないと首を振る。
「そこまで神経質じゃないでしょ?」
「だけど、君に色々なことを押し付けている」
「押し付け??」
「細かいことを、あれこれ指示されて…。家のこともやってくれているのに、俺のせい?それが嫌になって、内定を貰ったタイミングで解放されたいのかと…。だから、実家に帰りたいの?」
「待って待って、押し付けられたこともなければ、指示された記憶もないんだけど?」
「今朝だって、スリッパなんかで君に声をかけてしまった」
あ、気まずい。
「…それは、言われていたのに、できなかった私が悪い」
そう。
一緒に暮らし始めの時から言われていることなのに、いまだに出来ない私。
「だから、別にあなたのせいじゃない。私が家に帰ることと、あなたは関係ない」
「じゃあ、ここで暮らしていても良いんじゃないの?」
いや、良いとは思うけれど、彼に対して申し訳ないという気持ちの方が大きくなる。
「卒論の、邪魔になるでしょう?」
「誰が?」
「わ、私が」
「誰がそんなことを言った?」
彼は今度こそ、怒ったようにそう言った。
それでも、冷静な彼はお箸を完全に置いた。
「食べている場合じゃないと思うんだけど」
彼の律儀な言葉に、私もそうかと箸を置く。
「まず、一緒に暮らしているここから、何で急に出て行くなんて考えになるの?」
「出て行くというか、さっきも言ったけど私としては元々あなたの暮らす家で、私はあくまで借りていた部屋だから返す、という方の気持ちなんだけど?」
「じゃあ、何で内定をもらってもまだ卒業には早いのに、荷物をまとめているの?」
「えぇと、一旦実家に帰ろうかと」
「だから、何で?」
何でも何も、特に理由などない。
「決め手と思える理由はないけど、しいて言うのなら何となく?」
私の言葉に、彼はやはり目を細める。
「何となく現実に気付いて、こんな窮屈な生活は嫌だって?」
「窮屈?」
「窮屈で、制限ばかりの生活に嫌気がさした?」
「嫌気なんて」
「会えば、君へのお小言か注意しか出来ないつまらない俺に」
「つまらなくなんてない!」
思わず彼の言葉を遮る。
彼の表情が、驚きを示していた。
「ごめん、話を遮って…。でも、つまらないとか、嫌気とかそんなことは思ってない。いつでも、誠実できちんと相手をしてもらってる。こんなごはんにすら、感謝してくれて、私は…嬉しいのに…」
彼と付き合うきっかけになったのも、こんな風に私が感情的になったからだった。
思わず彼のことが好きだと、口走ってしまった。
その時に、彼は目を細めて『信じるのは難しい』って言ったんだ。
懐かしい記憶。
今朝、見てしまった懐かしい思い出。
だけど、信じてもらわなくても勝手に好きでいるつもりだったから構わなかった。
きっと彼は、今までにたくさんの女性から好意を寄せられている。
だから、彼の迷惑にさえならなければ何でも良かった。
彼が私を選んでくれるまでは。
「何で?急にそんなことを言い出すのか、俺には分からない」
「いや、負担になっちゃ悪いかな、と」
「さっきから、迷惑とか負担とか、そんな言葉俺は言ってないけど?」
「うん、言われてないよ」
「じゃあ、何でそんなことを言い出すの?」
「言い出すというか、卒論で忙しいのに私の生活チェックとか、申し訳ないなぁ、と…」
「そんなことで?」
理解不能を示す言葉に、私も同じく繰り返す。
「…そんなこと?」
「君と暮らすことは、俺の中で変わらないつもりだったのに?」
「えぇ?それは初耳」
驚く私に、彼はまた瞬きをした。
「…ごめん、言っていなかった」
「あ、いや。うん」
ぎこちない返事。
何だろう、地味に嬉しい。
家に一緒に住むように言ってくれた時のことを思い出す。
「実家に帰らないで」
思いのほかストレートな彼の言葉に、こくりと頷く。
頬が熱い。
「あ、でも不要な物とか置きには帰りたい、かも…。置くだけ」
折角まとめたんだし。
そういう私に、彼は『俺も手伝うよ』と言った。
「え、大丈夫」
やんわりと断る私に、また彼は目を細めた。
「迷惑?」
「え、全然迷惑じゃないよ」
「じゃ、一緒に行こう?明日、それとも今週末?」
急に湧いた予定に、私の方が慌てる。
「家に聞いてみないと分からない」
「じゃあ、確認しておいて?」
「うん」
私の返事に、彼は置いていた箸を手に取る。
もう、この話はおしまいということだろう。
これは、どうしたら良いんだろう?
少し納得はしていないけれど、私もお箸を手に取る。
「勝手に行かないでね?」
「え、何で?」
動揺してしまったのは、私のせいじゃない。
「改めて、ご挨拶したいから」
「挨拶…」
何の、とは聞ける空気じゃなかった。
なので、曖昧に濁しておく。
これからも続く生活のために?
そんなことをぼんやりと考えた。
終わると思っていたこの生活は、いつまで続くのだろうか。
そんなことをちらりと考えた。
コロコロは、3個入りでも良かったかも、とも…。
声が聞こえて、『ヤバ』と焦る。
どれの何を言われるのか。
心当たりがありすぎて、とりあえず止まる。
「ごめん」
理由は分からないけれど、謝罪する。
とにかく謝ることが大事だと思う。
「家の中では、スリッパ履いてよ」
あ、スリッパか…。
自分の裸足をちらりと眺め、もう1度「ごめんなさい」と言う。
彼は慣れたように『うん、履いて』と再度静かに言う。
特に怒ってもいない、淡々とした口調。
決定事項を告げる言葉。
「うん、履く」
「裸足は油出るんだから」
「うん、ごめん」
「謝らないで良いから」
怒っているわけではないことは、表情からも言葉からも伝わる。
綺麗好きな彼。
その彼は、家の中を清潔に保つことが好きだ。
そんな彼に嫌われないようにすること。
それが、私。
田舎で育った私は、畳で裸足で過ごすのが日常だった。
母には靴下を履くように言われていた。
だけど、素足の方が気持ちが良いと裸足で過ごすことがやめられなかった。
畳が多い実家のせいだとも思えなくもない。
そしてそのまま大きくなった。
進学と共に、実家を出て同じサークルで出会った彼。
考古学サークルなんて、ベタなサークルだったのに。
冷やかしと興味本位で向かった私に、運命的な出会いが訪れた。
といっても、運命を感じたのは私だけだったけど。
つい、で向かった私が見たのは、しっかりと将来を見据えて教授と色々なことを話し合う彼の姿だった。
同級生のはずなのに、すでに2年くらい差があるような安定感があった。
いかにも“優等生”という雰囲気の彼。
清潔そうなワイシャツに、黒のスラックス。
短めの黒髪に、まっすぐな姿勢。
シンプルな姿に、単純に“シュッとした人だなぁ”と見惚れてしまった。
友達だか知り合いだか分からないが『委員長』とか『会長』と呼ばれていたので、きっと中学とか高校では何かの代表だったのだろう。
私は友達も知り合いもいない所からスタートしたけれど、彼はすでに知名度があったみたいだった。
そんな彼が入るのであれば…なんて考えたのは当然のことで。
不純な動機で選んだはずのサークルに入ったのは、当たり前の流れだった。
彼は経済学部、私も学部は一緒だった。
ただ、専攻する科が違っていたのでまるっきり被ることはなかった1年生。
食堂でも講義室でも、彼がいるとすぐに目で追いかけた。
どれだけ人がいても見つけられる、私の特殊能力みたいなもの。
重なる講義が増え、ワクワクする曜日が増えた2年生。
講義が重なっている時は、彼の後方に座ることが多くなった。
いつでもまっすぐの背中。
凛としている姿に惹かれるのは、私だけじゃなかった。
1人でいるか、時々数人に囲まれている姿。
遠巻きに見ているだけで良かったのに…。
講堂でもサークル部屋でも、同じ空間にいられればそれで良かった。
彼の個人的な情報なんて何も知らない。
見ているだけで、満足で。
一緒の空間にいられるだけで、そう、私には充分だった。
いつでも見ていたまっすぐな背中。
なのに、急接近した3年生。
そこから私の生活は、一気に加速したような気がする。
自分でもびっくりな展開に。
彼とお付き合いすることになったから。
あれから更に、数ヶ月。
もう『卒業』の文字が、あちこちに見えるようになった。
選択する講義も少なくなり、卒論に割く時間が増えた。
私は過去の卒論から似たようなものを選び、どこにでもありそうな文章を書くだけ。
面倒くさがりで、無難な性格だから。
ゼミも緩め、あとは就職のみだ。
彼は、すでに進路先が内定している。
卒論も、ほぼ毎日教授の元に通い、より良くするための時間を設けている。
規則正しい生活を送る彼は、毎日同じ時間を繰り返している。
朝はすれ違うことが多かったはずなのに、今日は偶然すれ違ってしまった。
見ているだけで満足だったはずの視線は、何故か交差してしまった。
どうしてこうなったのか、今となっては何とも言えない。
彼に抱いた好意は、今も変わらず残っている。
「ねぇ?」
ふと問いかけられる。
「何?」
じっと見られ、何があるのだろうかと見つめ返す。
見られても緊張しなくなったのは、いつからだっけ?
会話をするのに、どもらなくなったのは?
そんなことを考えてしまうのは、懐かしい夢を見たから。
そんな私に構わず、彼はじっと私を見る。
まだ何かあったかな?
洗面台の水しぶきはその都度綺麗にしているし、お風呂場のシャワーヘッドも上の方で固定しているし、トイレの蓋だってきちんと閉めてる。
ゴミ箱だって溢れる前にきちんと片付けているし。
自分で思い当たることは、多分ない。
「どうしたの?」
言葉が続かない彼に、思わず問いかける。
「…久しぶり」
彼の言葉は、意外だった。
「ひさしぶり?」
思わず繰り返す。
この家で一緒に暮らすようになって、その生活も慣れたものになって…。
確かに久しぶりにきちんと顔を見た気がする。
多分、2週間はすれ違っていたかな、と思い出す。
あの時も、『食べた後はきちんとテーブルを拭いて?』と至極当たり前のことを言われた。
その時も私は勿論すぐに謝った。
こんな私はすぐにへこたれてしまうと思ったのに。
一緒に暮らすことは、意外に楽だと思ってしまった。
彼の生活領域に入り込むこと。
その間も彼は“彼”のままだった。
マイペースで、自身の時間を大事にする。
何で、こんな私と一緒に過ごしてくれたんだろう?
眺めているだけで満足していた私は、いつの間にかその気持ちがしっかりと透けていたらしい。
透過した恋心は、まっすぐに彼に伝わっていた。
だからなのか3年生になってすぐ、彼が話しかけてくるようになった。
驚きと緊張で、何を話したのかなんて覚えてなかった。
今朝、夢で見るまでは。
だけど、その初めましての会話の後からだろうか?
彼との接点が増えていった。
最初は挨拶で始まり、ポツポツと交わすサークルのこと。
何となく、なんて始まりが本当にあって…。
“恋人前のお友達期間”という、どこかの教科書にでも載っているような時期を数ヶ月経て。
そのまま“お付き合い”に突入してこれまた数ヶ月。
その延長線上で“同棲”することになって、今ここにいる。
考える私に、変わらずまっすぐな視線を送る彼。
凛とした姿は、一緒に暮らしていても変わらなかった。
というか、いつもならもう家を出る頃じゃないのかな?
「時間、大丈夫?」
私の言葉に、彼がハッとしたように壁掛けの時計を見る。
「そろそろ行く」
「うん」
自分の部屋に戻って行く彼。
彼のご両親が選んだというマンションは、とても清潔で快適だった。
部屋が余っていたから。
そんな理由で転がり込むことになった私。
私は午後に1コマあるだけ。
だから、午前中は暇になる。
バイトに行く予定なので、私も部屋に戻る。
私が過去に借りたアパートよりも広い部屋。
十分すぎる空間。
時々彼が部屋を確認しに来るから、汚くはしていない、はず。
彼と暮らすようになって、物を増やさないことを覚えた。
収納には限界があるから。
実家から引っ越ししたアパートよりも、物が減った部屋をぐるりと眺める。
いつの間にか、彼のようなシンプルな部屋になっていた。
「あ、私も行かなきゃ」
この生活も、もうすぐ終わりだ。
…彼との生活も、多分卒業と共に終わり、になるのだろう。
将来のことなど、何も話していない。
季節は秋を通り過ぎる所だ。
きっと、お互いに別の道を行くのだろう。
そんなことを、ぼんやりと考える。
不思議と寂しさは感じていない。
元々、別の世界の人なんだから。
とても幸運な夢を見ていたと思えば、お釣りがきてもおかしくない。
みんなの憧れの彼と暮らす学生生活なんて。
貴重な体験をしていると今でも感謝している。
私も、そろそろ内定の可否が出るはず。
地元にある系列会社。
その子会社が、こっちにもあったから。
時代なのか、エントリーでほぼ決まるとのこと。
駄目だったら、次の会社にエントリーする。
それだけ。
だけど、最終的に地元に戻るつもりでいるから、出来ればこの系列会社で決めたい。
彼と別れた後に、誰かを求める気持ちは今のところない。
だから、このまま1人で生きていくのだろう、とぼんやりと考える。
意外に楽しかった2人での生活。
楽しいだけじゃなくて、彼への迷惑も結構あったと思う。
だけども、思い出したら楽しいことしか残っていない。
この部屋だって、元を正せば彼が住んでいた部屋だ。
彼の性格らしく、4月から住み始め3月で終わる契約。
契約が終了したら、私も速やかに出て行く。
ううん、内定を貰ったら出て行く方が良いだろう。
実家とここから真ん中くらいの位置になる会社。
絶妙に未練が残った希望先。
でも決まったら…。
早めに地元に戻り、社会人に備えないと。
そう思うと感慨深い彼の部屋。
そりゃ少しは想像したけど。
彼が住む部屋はきっとモデルルームみたいなのだろうと。
実際に来てみたら、家や部屋には拘りのなかった彼。
だけど、綺麗好きなのはすぐに分かる整頓された空間。
私が数か月前まで住んでいたアパートとは違う。
私は大学進学を決め、しばらくは実家暮らしだった。
だけど、通うのが大変になり、母から家を出ることを提案された。
実家から通うのは大変だったけど、面倒くさがりだから別に良いかと探すのもずるずる伸びて。
だから更新のタイミングが変な時期になってしまった。
だけどそのおかげで、結果的に私のアパートの更新のタイミングで彼のマンションに一緒に住めるようになった。
私が一緒に住むことは、彼にとって特に反対することではなかったらしい。
地味に嬉しかったのを思い出す。
『部屋が開いてるから、一緒に暮らす?』
そんなシンプルな言葉だった。
焦ったのは、勿論私の方だ。
この性格もだらしない生活も筒抜けになってしまうと。
だから、まずは住むにあたり家賃の相談から始めた。
家賃は半分、彼に払っている。
電気代も、水道代も、食費も、全部半分ずつ。
彼のご両親が払っている部屋だから、と彼は言った。
尚更、譲れない線引きだ。
その方が私が気兼ねしないから。
私は学業優先じゃないから、バイトだってするし遊びに行く。
だけど、彼は学業を優先することでバイトはしなかった。
『ただ、遊んでいる私が暮らすなんておこがましいから』
そういうと、彼は複雑な顔をしながらも受け入れてくれた。
彼のマンションは綺麗で、居心地が良い。
だから、このまま住んでたいけど。
それは無理な話だろう。
私の内定が出たら、話をしよう。
内定が出るのは、まだ当分先だから。
そう、思っていたのに…。
何でだろう?
タイミング。
今日、卒論ゼミの教授から急に『おめでとう』と言われた。
ゼミ室に来るようにとのラインで先生のところに行くと急に内定がもらえていた。
少しコネ感は拭えないけれど。
いやいや、そんなことはない、はず。
お父さんが、同じ会社で働いているから。
地元で。
そんなことは、エントリーシートに記入しない。
だけど、確かに内定が出たことを言われた。
未練が残った希望先に、就職が決まったのだ。
あとは、単位の回収に漏れがないか、卒論がきちんと仕上がるか、のみだ。
ここでの生活も、あと数ヶ月?
そんなことを思っていた朝に、急に『終わり』の文字がちらついた。
決心が鈍る前に、予定通り実家に戻ろう。
荷物が少なくなったから、すぐにでも引っ越しは出来そう。
面倒くさがりな私だけど、そのくらいのけじめはつけますよ?
午後の講義を受け、家に帰る。
帰り道、時々寄る百均が目に入った。
そうだった。
コロコロを切らしていたんだっけ。
替えのテープがないか、店内に入る。
意外に持つんだよなぁ。
1個で数ヶ月。
2個セットの物か3個セットの物か。
地味に悩む。
残りの学生生活が半年もない。
じゃあ、2個セットで良いか。
余ったら最後の掃除に贅沢に使おう。
そう思い、2個セットを買う。
1つしか買わない。
他には、惹かれるものの別に良いかという物ばかり。
こういう所が、きっと面倒くさがりなんだろう。
家に帰り、ごはんの準備をする。
簡単な物しか作らないけど。
一応、お母さんから教わった料理。
ごはんと、汁物と、おかずと。
楽なレシピばかりを動画で覚え、手抜き料理の完成。
何か、こういうので良いのか疑問になる。
だけど、彼は変わらずほぼ毎日『ありがとう』と言ってくれる。
遅くなる時は、連絡をくれる彼。
そんな彼は、今日は早く帰って来た。
言うのならこのタイミングしかない。
ごはんの準備をして、すぐに夕飯になる。
食べながら、『そういえば』と私が言おうと思っていた言葉が先に聞こえた。
「うん?」
「何で君の部屋に段ボールがあるの?」
私は基本的に部屋のドアは開けたままだ。
開放的で良いと思っているから。
見えてしまったのかな?
バイト先からもらってきた3つの段ボール箱。
3つで済んでしまった私の雑貨類。
無くても困らないと気付いた私の持ち物。
笑ってしまうほど少なく、軽い荷物になった。
衣類とかは少しずつ実家に運べば良いんだし、と本当にあっさりと綺麗になった。
掃除はまだしてないけれど。
でも、これならすぐに掃除は出来そう。
「何をしていたの?」
彼のまっすぐな眼差し。
「そろそろ、荷物をまとめておこうかと」
なので、素直に答える私。
「え?まだ、早くない。というか、先のことを決めてからじゃないの?」
彼の言葉に『先?』と繰り返す。
「早い?私は内定を貰ったら、もう次の準備をしないとなぁ、とは思ってたけど」
「次の準備?何のために?」
彼の視線は不思議を表していた。
「いや、そろそろ卒論のまとめで忙しいでしょ?」
「そうだけど…。それと、君の準備?が関係ある?」
関係は、なくはない、かな。
卒論で忙しい彼の負担になりたくない。
私の生活面でのチェックなんて、彼の負担以外の何物でもない。
余計なことで煩わせたくない。
「今日、内定を貰ったの」
話題が変わったことで、彼が瞬きをする。
「そうなんだ。おめでとう」
なのに、そう言ってくれる。
「…ありがとう」
優しい彼。
朝も、裸足で過ごす私にスリッパを促してくれた。
彼の貴重な時間を奪う私は、ここにいない方が良い。
だから、一旦実家に戻ってみよう。
そう決めたんだ。
「だから、次の準備?」
彼の言葉は、やっぱり不思議を示していた。
だけど、深く考えずに私は肯定した。
「そう」
「荷物をまとめて、どこに置いておくの?」
「あぁ、実家に1回送ろうかと」
何でもないことのように言った私の言葉に、彼が驚いた顔をする。
「え?何で?」
何でと言われると、私も首を傾げそうになる。
だけど、私の荷物は私の物だ。
いつまでも彼の部屋に置いておくわけにはいかない。
「わざわざ実家に送らなくても…」
彼の言葉に、今度こそ私も首を傾げる。
「何で?荷物だけじゃなくて、私も1回実家に戻ろうと思ってるから」
「…それこそ、何で?学校に遠くなるのに?」
確かに1時間以上かけて通学するのはきつい。
一緒に住むことになった理由。
だけど、後期になったし。
そう、もう後期なんだ。
卒論以外は、ほぼ通学がない。
なら、実家から通うのも苦痛ではない。
混む時間帯を避けて通えば、何も問題はない。
バイトも辞めて、地元で短期のバイトでも探せば良い。
「ごめん。意味が分からない」
彼の言葉に、何を理解されていないのか私も分からなくなる。
「意味?」
聞かれたことが分からず、私は単語のみを繰り返す。
「そう、荷物と君が実家に戻る意味」
彼は気になることは、何でも確認する。
それは、1年生のサークルの時に感じた。
真面目だなぁ、と。
なら、聞かれたことの返答はこうだろう。
「社会人に備えて?1回実家に戻りたい」
私の返答に、彼は目を細めた。
あれ、機嫌が悪い?
それとも、何か納得のいかないことがあった?
考える私。
「…俺が、煩いから?」
彼は煩くなどない。
基本的に物静かだ。
「煩くないと思うけど?」
「だけど、君にいつでも煩く声をかけていた」
それは彼のせいじゃない。
私のだらしなさが出ているせいだ。
私は綺麗好きではないから、彼の気になることはその都度教えてほしいと。
忘れてしまうので、面倒をかけるけれどその時に言われないと私は覚えられない、とも。
「いつでも、怒ってたから?」
どんな時でも、理性的で私に対して怒ることなど1度もなかった。
「煩くなんて、してないでしょう?怒ってもいなかったよ?」
「でも、じゃあ…」
答える私に、彼はまだ目を細めている。
「じゃあ、何でここを出て行くの?…俺が、俺と暮らすのが嫌になったからじゃなくて?」
彼の言葉こそ、意味が分からなかった。
ぽかんとする私。
そもそも暮らすのが嫌だと思っていたら、ここに座ってごはんなんて食べてない。
何を言ってるのだろうか?
「暮らすのが嫌なんて言ってないでしょ?」
私の言葉に細めていた目を戻すが、表情は硬いままだった。
「じゃあ、何でこんな時期に部屋を出て行くの?」
え?出て行くと言われると、何かニュアンスが違うと思うのは私の気のせい?
「出て行くというよりかは、あなたに部屋を返すという方が正しくない?」
元々、あなたの暮らしているマンションだったんだから。
私の言葉に、彼は納得がいかないようだった。
「全部、折半しているのに?」
彼の言葉は、やはり硬い。
「折半していても、ここはあなたが借りた部屋で、私が転がり込んだのは間違いないんだし」
「それでも、もうここは君の暮らす家だ」
そう言われてしまうと、そうなんだけど、としか返しようがない。
「俺が、神経質だと思って、嫌になった?」
神経質?
微妙なラインだけど、そうではないと首を振る。
「そこまで神経質じゃないでしょ?」
「だけど、君に色々なことを押し付けている」
「押し付け??」
「細かいことを、あれこれ指示されて…。家のこともやってくれているのに、俺のせい?それが嫌になって、内定を貰ったタイミングで解放されたいのかと…。だから、実家に帰りたいの?」
「待って待って、押し付けられたこともなければ、指示された記憶もないんだけど?」
「今朝だって、スリッパなんかで君に声をかけてしまった」
あ、気まずい。
「…それは、言われていたのに、できなかった私が悪い」
そう。
一緒に暮らし始めの時から言われていることなのに、いまだに出来ない私。
「だから、別にあなたのせいじゃない。私が家に帰ることと、あなたは関係ない」
「じゃあ、ここで暮らしていても良いんじゃないの?」
いや、良いとは思うけれど、彼に対して申し訳ないという気持ちの方が大きくなる。
「卒論の、邪魔になるでしょう?」
「誰が?」
「わ、私が」
「誰がそんなことを言った?」
彼は今度こそ、怒ったようにそう言った。
それでも、冷静な彼はお箸を完全に置いた。
「食べている場合じゃないと思うんだけど」
彼の律儀な言葉に、私もそうかと箸を置く。
「まず、一緒に暮らしているここから、何で急に出て行くなんて考えになるの?」
「出て行くというか、さっきも言ったけど私としては元々あなたの暮らす家で、私はあくまで借りていた部屋だから返す、という方の気持ちなんだけど?」
「じゃあ、何で内定をもらってもまだ卒業には早いのに、荷物をまとめているの?」
「えぇと、一旦実家に帰ろうかと」
「だから、何で?」
何でも何も、特に理由などない。
「決め手と思える理由はないけど、しいて言うのなら何となく?」
私の言葉に、彼はやはり目を細める。
「何となく現実に気付いて、こんな窮屈な生活は嫌だって?」
「窮屈?」
「窮屈で、制限ばかりの生活に嫌気がさした?」
「嫌気なんて」
「会えば、君へのお小言か注意しか出来ないつまらない俺に」
「つまらなくなんてない!」
思わず彼の言葉を遮る。
彼の表情が、驚きを示していた。
「ごめん、話を遮って…。でも、つまらないとか、嫌気とかそんなことは思ってない。いつでも、誠実できちんと相手をしてもらってる。こんなごはんにすら、感謝してくれて、私は…嬉しいのに…」
彼と付き合うきっかけになったのも、こんな風に私が感情的になったからだった。
思わず彼のことが好きだと、口走ってしまった。
その時に、彼は目を細めて『信じるのは難しい』って言ったんだ。
懐かしい記憶。
今朝、見てしまった懐かしい思い出。
だけど、信じてもらわなくても勝手に好きでいるつもりだったから構わなかった。
きっと彼は、今までにたくさんの女性から好意を寄せられている。
だから、彼の迷惑にさえならなければ何でも良かった。
彼が私を選んでくれるまでは。
「何で?急にそんなことを言い出すのか、俺には分からない」
「いや、負担になっちゃ悪いかな、と」
「さっきから、迷惑とか負担とか、そんな言葉俺は言ってないけど?」
「うん、言われてないよ」
「じゃあ、何でそんなことを言い出すの?」
「言い出すというか、卒論で忙しいのに私の生活チェックとか、申し訳ないなぁ、と…」
「そんなことで?」
理解不能を示す言葉に、私も同じく繰り返す。
「…そんなこと?」
「君と暮らすことは、俺の中で変わらないつもりだったのに?」
「えぇ?それは初耳」
驚く私に、彼はまた瞬きをした。
「…ごめん、言っていなかった」
「あ、いや。うん」
ぎこちない返事。
何だろう、地味に嬉しい。
家に一緒に住むように言ってくれた時のことを思い出す。
「実家に帰らないで」
思いのほかストレートな彼の言葉に、こくりと頷く。
頬が熱い。
「あ、でも不要な物とか置きには帰りたい、かも…。置くだけ」
折角まとめたんだし。
そういう私に、彼は『俺も手伝うよ』と言った。
「え、大丈夫」
やんわりと断る私に、また彼は目を細めた。
「迷惑?」
「え、全然迷惑じゃないよ」
「じゃ、一緒に行こう?明日、それとも今週末?」
急に湧いた予定に、私の方が慌てる。
「家に聞いてみないと分からない」
「じゃあ、確認しておいて?」
「うん」
私の返事に、彼は置いていた箸を手に取る。
もう、この話はおしまいということだろう。
これは、どうしたら良いんだろう?
少し納得はしていないけれど、私もお箸を手に取る。
「勝手に行かないでね?」
「え、何で?」
動揺してしまったのは、私のせいじゃない。
「改めて、ご挨拶したいから」
「挨拶…」
何の、とは聞ける空気じゃなかった。
なので、曖昧に濁しておく。
これからも続く生活のために?
そんなことをぼんやりと考えた。
終わると思っていたこの生活は、いつまで続くのだろうか。
そんなことをちらりと考えた。
コロコロは、3個入りでも良かったかも、とも…。
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