Goddess

あくび

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アンは直ぐに回復して また精力的に働いていた。

ロザウェルに会ったあの日から、今まで悩んでいた事が嘘の様に胸の支えが取れた。

『捨てられた訳じゃなかった』

まだ好きでいても良いのだ。
諦めなくて良いのだ。
もう無理して根詰めて働かなくても良くなった。忘れる為に、考えない様にする為に働かなくて良くなった。
それだけで心は軽くて素直に笑顔でいられる様になった。

『我ながら単純だな...』

アンは自分で自分に呆れて小さく苦笑いをしていた。


実はアンには誰にも話した事の無い秘密があった。
いつか、本当に信用出来る人が出来たら話そうと思っていた事がある。

『今度、ロザウェルに会えたら、その時に秘密を話そう...』

そんな事を考えながら今日もテキパキと仕事を進める。
アンの中で秘密を話すという事は「私は貴方を裏切らない」と言う誓いの様な物なのだ。
アンの中ではとても重要な意味を持つ誓いの宣誓。

ロザウェルに会うのがとても楽しみなアンだった。

*

今日もテノは忙しかった。
お店が忙しくなったのでお店の従業員も増えた。
おばさんが アンが倒れたので従業員を増やしたのだ。これで定期的に休めるようになったアンはすこぶる体調も良く 前にも増して元気だ。

そして、それに伴い縁談も来る様になった。
アンを見初めて是非との声が多くなっていた。

アンは美人だ。
滅多にいない黒髪は艶やかで、大柄で骨が太い人が多い中、華奢で線が細い。庇護欲をそそるその体型は好みによっては執着する者も多かった。
エイマウには心に決めた人がいるから...。と話してあるので 大抵の人間は縁談を持ち込んだ時点でエイマウに断られてしまうのだが、それでも諦めの悪い人間は 何処の世界にもいる様だ。

「アンちゃん...」

休みの日に家まで押し掛けてきたのは 男爵家のハロルド。
夜も毎日の様にテノに来て、熱い視線を送り、他のお客様に絡んでしまうちょっと迷惑なお客様だった。
それは、休日に外で花壇の手入れをしている時に起こった。

「ハロルドさん。どうして此処に?」
「君がひとりで暮らしてると聞いてから気が気じゃ無くって...。こんな街中で1人で暮らしているなんて、狼の群れの中に身を投じるのと同じだよ...」

いやいやいや...。1番危ないのは貴方です。
とも言えず 困り顔で「はぁ...」としか返事を返せない。

「僕の家に来たら守ってあげられるし 無理して働く必要も無い。金持ちでは無いけれど、それなりの暮らしは出来るって言ったよね?」

言ったよね...と言われても...。
困ってしまったアン。どうするのが1番良いのか考えるが、なんせ経験不足でキャパが無いのだ。

「今日が休みなら 荷物をまとめて行こう。僕も手伝うよ」
「何処に...?」
「僕の家だよ。夜働くなんて もうダメだ。我慢して来たけどもう限界だよ。君は家に居て、家事をしているのが似合っている」

この人は何なんだ...?
理解しようと小首をかしげて見つめてしまったのも悪かったらしい。

「そんな困った顔をして...。僕が迎えに来なければ いつまで経っても君は僕に甘えない」

アンは脳内パニックを起こしてしまいそうになっていた。
まるで恋人同士の様な会話だけれど...冗談なのだろうか?判断に困った。
つい先日もお客様に冗談を言われて 至極真面目に答えてしまい、場の空気を重くしてしまった経験があるものだから、どうして良いのか解らないのだ...。本気で。

「ハロルドさん、あの...冗談ですよね?」
「冗談?君は僕が真面目に考えている事を冗談だって言うの?」
「いいえ。冗談でなければ、真面目に答えます。お断りします」
「...断るつもりなのか?」

アンは怖くなって来た。

「断るも何も...私はこの生活が気に入ってますので。帰って下さい」
「君はこんなに僕が尽くしているのに 僕を拒否するのか!」
「ちょ...ハロルドっ...さんっ...やめっ...!」

ハロルドは強引にアンの手首を掴むと グイグイ引っ張って行く。
引っ張って近くに止めてあった馬車にアンを無理やり乗せると、行き先を告げた。
手は離してくれない。
ギュッっと力強く握られているので血が止まって指先が冷たくなって来た。

「ハロルドさんっ。お願いっ...離してっ」

懇願しても睨まれて力がますます篭る。
指先に力を入れるが指も曲がらなくなって来た。

泣きそうになりながらも「落ち着け、落ち着け」と自分に言い聞かせ、しかし相当パニックになっているらしく、何を見ても どうしても頭の中に入って来ない。
ただひたすらロザウェルの名前ばかり 頭の中で呼び続けた。

どれだけ行ったのだろう...。
随分と街から離れた気がする。
アンは地理が解らない。森の中とテノと貸家の周辺しか解らないのだ。

そして、気がかりなのは 避妊薬を飲んでいない事。
街に出て来てから、ロザウェルに会う事もロベルトに屈辱される事も考えなくて良くなって避妊薬を飲んでいなかった。

『このままハロルドに犯される事になったら妊娠してしまうかもしれない...』

誰でも良いから助けて欲しいと切実に思っていた。

大きい街は 端から端まで進むのにかなりの時間を要する。
何処かの宿の1室に連れ込まれたアンは、手足をベットに括られて拘束されていた。
どう考えてもやばいシュチュエーションにアンは青くなっている。

「アン。君が素直にならないから悪いんだよ」
「ハロルドさん、解ったから...この手と足を自由にして貰えないかしら?」
「アン。何が解ったって言うんだい?」
「何がって、私があの家に住んでる...事...?」
「やっぱり君は解ってない!解って欲しいのは僕の愛だ!」
「ちょ...ちょっと待ってっ...ハロルドさんっ!お願いっ!私の話を聞いて!」
「嫌だ!」
「待ってっ!待ってっ!ロザウェルっ!ロザウェルぅぅぅ!」

思わずロザウェルの名を必死に呼ぶと、ハロルドが鬼の形相で顔を上げた。
胸は はだけられ、スカートは捲りあがった格好でアンは震えて泣いていた。

「ロザウェルって誰だ...」

ハロルドが冷たく言い放った。

「ロザウェルが誰だって!聞いてるんだっ!」

バッチーーーン!
一瞬何が起こったのか解らなかった...。
ただ、視界からハロルドが消え、耳がジンジンと痛たみ、ドクドクと頬が脈を打っていた。

『叩かれたんだ...』

と解るのに 数秒?数分?の時間を要した。

「お前はっ!神聖な儀式にっ!他の男の名前を!呼んだなっ!」

涙が一瞬で引っ込んだ。
もう終わった...。アンは諦めた。
子供が出来るかもしれない。
もう帰れないかもしれない。

だが、ハロルドは、アンをその場に置いたまま部屋を出て行ってしまった。

*

ロザウェルはスフィルと一緒にテノに行く約束をし、切りの良いところで仕事を切り上げるとイソイソと街に繰り出した。

テノに着くとそこにはアンはいなかった。2人はカウンター席に座った。

「あれ?アンちゃん今日は休み?」
「来るよ。気がけに買い物を頼んで置いたから手間取ってるんじゃないかい?酒屋の爺さんは話が長いから」
「そうなんだ。んじゃ待つかな~。今日のオススメは?」
「今日は アンが作ったハーブで煮込んだチキンが上手いよ~」
「じゃあ、それと、酒」
「あいよ~」

ロザウェルがソワソワしている。

「おいおい、迎えに行くなんて言うなよ。お前の顔はそれじゃ無くても目立つんだから、此処でじーっとして待ってろって」

スフィルがアハハハと笑った。
ロザウェルが横目で睨むがスフィルは親友の考えている事なんて手に取る様に解る。おかしくて何時までも笑っていた。

「笑いすぎだろう...」

ロザウェルが苦笑いをすると、余計に可笑しくてスフィルの笑い声は大きくなった。
ロザウェルは皇太子と言う身分だったが、変装もしていなければ 護衛もつけていない。腕に自信もあるのだが、下手に隠すより堂々とさらけ出していた方が結構バレないらしい。

貴族連中には面が割れていても、こんな街中の平民で皇太子の顔を覚えている者も少ない。
そして、下町の居酒屋でまさか皇太子が食事をして酒を飲んでいるなんて誰も思ってなかった。

テノにもお客さんが増え、忙しくなって来た中エイマウが

「遅いね...」

と一言呟いた。
「もうすぐ来るよ」と言われてから1時間は過ぎている。何時もきっちり時間は守るアンにしては確かにちょっとおかしい。

「見て来ましょうか?」

ロザウェルがエイマウの心配顔を見て言うと「ちょいと頼もうかな...」と答えが帰って来た。

2人が立ち上がって店を出ようとした時だった。
アベルガ男爵家のハロルドがテノにやって来てロザウェル達と入口ですれ違った。
男爵でも貴族は貴族。スフィルももちろんロザウェルも顔を知っていた。

「ハロルド?」

ハロルドは凄い形相で店内に入って行く...と言うか乗り込んで行く。
エイマウの前に来たハロルドは「ロザウェルとは誰だ!」と聞いた。

ロザウェルはそれを聞き逃さなかった。
体はほぼ外に出ていたが、クルリと向きを変えるとハロルドの方に素早く近寄った。

「何か私に用か?」

ハロルドは振り向いた。

「アンは何処だ?」

その瞬間、ハロルドの目が見開く。
目の前にいるのは 王宮近衛隊第三部隊司令官であり、皇太子であるロザウェルだった。
その後ろには第三部隊長もいる。
そして、この皇太子もまた ロザウェルと言う名前だと一瞬で頭に浮かんだ。

そしてエイマウもまた恐れていた事態が起った事を瞬時に悟った。
このハロルドはアンに執着していた男だった。
何度もしつこく縁談を寄越し、断ったにも関わらず、毎日店に来ては権力を振りかざし 嫌がらせをしていた男...。

高々 男爵と言う身分で威張りくさるこの男は、肝の小さい男だから直接手を出す事は無いだろうと甘く見過ぎていた。

「こっ...こぉた...」
「おーっと、ハロルド、お前も貴族なら今がどういう時なのか悟れよ~」

スフィルが自分の首の前で首チョンのサインを送る。
コクコクコクっとハロルドが頷くと、すかさずロザウェルがハロルドの首根っこを捕まえて店の外に出した。

「アンは何処だ?」
「しっ知りませんっ!」

ハロルドは小便をちびりそうな勢いで震えて答えた。

「じゃあ、質問を変える。ロザウェルを探してどうするつもりだった?」

ハロルドの頭の中では色んな言い訳が浮かんでは消えた。

「アンさんに相談されたんです。ロザウェルと言う男にしつこくされて困っていると...仕事に行く気にならないと相談されたので、僕が話を付けようと...」
「仕事に行きたくない?アンがそう言ったのか?」
「いや...あの...行きたくないと言うか...とにかく困っていると...」
「俺にしつこくされてると言ったのか?」
「いや...多分、別のロザウェルさんだと...」
「では、お前はアンの居場所を知らないんだな?」

ハロルドがコクコクと頷いた。

「嘘がバレれば 領地の取り上げだけでは済まないよ~。今のうちに白状しちゃった方が良いかもね~」

そんなスフィルのダメ出しに、ハロルドの視線が右に左にと怪しく動き、明らかに何かを知ってます風な態度に思わず「解りやすっ!」っとツッコミを入れたくなる程 何かを知っていると感じた。

一方、ハロルドの脳内はコンピューター並にあれこれと考えていた。

『とっ...とにかく、早くアンの元に帰って、手足を自由にした後 脅して黙らせなければ...』

...何処までも腐った男だ。

「そうか...」

ロザウェルはハロルドを離し「アンを見掛けたら探していると伝えてくれ」と言った。
ハロルドは何度も頷き、ロザウェル達の元から飛び出すと走って馬車を見つけ乗り込んだ。

「急いで!急いでくれ!」
「お客さん、追加料金頂きますよ~」
「良いから!急げっ!」

『やばい...』ハロルドは背中に冷たい汗が流れるて身震いした。
皇太子がなんであんな店に居るのだ...。と考えても解らない思考ばかり浮かんだ。
大急ぎで着いた宿に転げるようにして入って行ったハロルド。
『早く放り出さなければ...』と腐った男は己の事ばかり考えていた。

一方ロザウェル達は、近くに繋いであった馬に乗り 勿論後を付いて来ていた。
町外れの1件の宿に行き着くと ハロルドが転げるようにして中に入って行った。
ロザウェルとスフィルも中に入ると 店主に金を握らせ部屋を聞く。

「こんな宿には泊まっちゃいけないね~」

スフィルが茶化して言ったがロザウェルは無言だ。
多分 相当怒っている...。
スフィルは気合を入れた。いざとなったらなんとしてでもロザウェルを止めなければならないからだ。

部屋の前まで来ると ドア越しに聞き耳を立てて中の様子を伺ったが ボソボソと話し声しか聞こえない。踏み込もうか...どうしようか...と考えていると、こちらの方に足音が近付いて来た。

ガチャリと音が鳴ってドアが開いた...。

目の前にはハロルドとアンが立っていた。

その瞬間、ロザウェルの頭の中は真っ白になっていた。
自分で何を考えて何をするのか解らない状態...。
しかし、そこを見越していたスフィルがしっかりとロザウェルに後ろから抱きついて抑えていた。
ロザウェルは前のめりになった状態で、今にもハロルドをい殺さんばかりの狼の様な顔付きになっていた。

「ひぃぃぃ.....」

ハロルドの情けない叫び声が室内に響く。

「ロザウェル!ロザウェル!落ち着けって!ロザウェル!」

スフィルの必死の叫びも同時に室内に響いた。
ロザウェルはアンに視線を向けた。
アンは、ロザウェルとスフィルが此処にいる事にも驚いたが、1番はこんな激情に駆られたロザウェルを見るのも初めてで、目の当たりにして目と口まで開いて驚いていた。文字通りのポカーン状態だ。

アンの頬は手形が着いて赤く腫れていた。鼻血が出た跡があり、口元は切れて、泣いたのだろう、目は真っ赤になっていた。

「ロザウェル!お前はアンちゃんの手当だ、俺がハロルドに行くから、いいなっ!お前はアンちゃんだぞ!ロザウェル!聞いてんのかっ!」

アンのそんな姿を見てしまえばまた頭に血が登って、ロザウェルは身をよじってハロルドに向かおうとしていた。

「ロザウェル...」

アンは再び涙を流しながらロザウェルに近づいた。

「離せっ!離せっ!アンっ!」

スフィルが腕の力を緩めると、ロザウェルはすぐさまアンを胸の中に抱き寄せた。

「他に怪我は?」
「大丈夫...。ロザウェル、名前を呼んだの。来てくれた。ロザウェル」

ロザウェルはアンの頭に耳に頬にキスをする。
ハロルドはスフィルがしっかり捕らえていた。

「氷で冷やそう...」

ロザウェルは急いで下に行って氷を貰って来た。
その頃には随分と冷静になっていた。


宿から馬車を借りてハロルドを引っ張って連れて行くスフィル。ロザウェルはアンと2人で馬に跨って帰って来た。

テノでは大層心配していたエイマウが

「今日はセルフ!だからアンはゆっくり休みな」

と男前なセリフを言ってくれたので、アンはそのまま帰って来た。
部屋に入るとガタンっと力が抜けた。

「おっと...アン。大丈夫か?」
「力が抜けて...」

アンの体が震えていた。

ロザウェルはアンをお姫様抱っこすると そのまま寝室に連れて行く。
部屋を明るくするとアンをベットに下ろした。

その時に目に入った手首の鬱血...。特に右手の鬱血が酷かった。

「これは?」
「ハロルドさんに強く握られてたからついたのかな...」
「でもこっちの手も...他には...」

ロザウェルがアチコチ傷が無いか確かめるようにして体を触った。

「.....アン。もしかして縛られてたのか?」

足首の鬱血を見つけて 低い声でロザウェルが言った。

「...う...ん」
「あんのっ.....」
「ロザウェル、大丈夫だから。助けにくてくれたから...ね」

ロザウェルはアンを抱きしめた。アンも精一杯抱きついた。

「アン。俺は...やっぱお前に側にいて欲しい。何でもっと早くに考えなかったのか自分を恨むよ...」
「ロザウェル...」
「アンも悲しませて、グラマリエも悲しませて、俺は何をやっているんだろうな...」

「アン、俺の側にいて欲しい。ずっと....ずっと...」
「私は、テノで働きながら貴方のことを此処で待ってる」
「違うんだっ!.....違うんだ...」

ロザウェルがアンから離れてアンの唇を見つめた。
2人の距離が縮まって 吐く息がお互いの顔に掛かる距離まで顔が近づくと、ロザウェルの手がアンの頭に添えられた。

「アン...結婚しよう」

アンの声は重なった唇で消えた...。


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