まよいが

水戸けい

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宇梶和彦

(俺は、俺を生きていなかったんだ)

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 ふうわりふわり、ゆうらりゆらりと羽毛みたいに落ちた和彦は、草色の光の断片にでくわした。

(なんだ)

 草色の光の断片は、蛍みたいに揺れながら和彦に近づき、額に乗った。うわぁっと景色が広がり、緩やかな丘と木々のなかではしゃいでいる子どもたちの姿が見えた。

(これは)

 どこか見覚えのあるそれに意識を凝らしてみると、知っている顔がちらほらあった。

(これは……ここは、林間学校で来た場所なのか)

 まったく記憶にないが、それ以外に思い当たるものはない。知った顔はどれもおさなく、小学校時代だとわかる。

 呆然としながら和彦は子どもたちのはしゃぐ間を歩いた。誰も和彦に注意を払わない。自分が見えていないのだと和彦は理解した。

(俺は、自分の記憶の中を歩いているんだ)

 しかし正確な記憶ではない。なぜなら目の高さは子どもたちよりも高いからだ。記憶のままならば、彼等とおなじ程度でなければおかしい。

 これはきっと夢なのだと和彦は判じた。でなければ説明がつかない。夢の中で現状を分析し、把握した自分に和彦はニヤリとした。夢の中で「これは夢だ」と認識することもあると聞いたことがある。自分はいま、そういう状況にいるのだ。

(きっと、思い出そうとし続けていたから、奥底に沈んでいた記憶が夢になって現れたんだ)

 となると自分はどこでなにをしているのかと、和彦は子どもたちの顔を確認しながら歩き回った。

 なつかしい顔を見ながら歩き回る和彦の目に、子どもたちの笑顔が突き刺さる。口許には笑みを浮かべて、目の奥では痛みをこらえて、遊ぶ彼等の間を縫って歩く和彦の胸は重く痛んだ。

(なんで、俺は)

 息が苦しくなってきた。周辺の空気が薄く、けれど重たくなっていく。浅く短い呼吸になって、膝をついた和彦はようやく自分の姿を見つけた。参考書を手に、コテージの階段に座って遊ぶ級友をながめている。その顔は無表情で、瞳には冷たい羨望が浮かんでいた。

(なんで、俺はあんな顔をしているんだ)

 なにかをあきらめ、それを己に認めさせない顔をしている子どもの和彦は、同級生が遊ぶ姿を遠い世界の出来事にしていた。唇を引き結んだ子どもの和彦は、イライラと鼻を鳴らして参考書を広げると、問題文で視界を埋めた。

(ああ、そうか)

 遊んだ記憶がない理由を、和彦は知る。

(無意味に走り回るなんて、つまらないと自分に言い聞かせていたんだ)

 ほんとうは目的もなく思い切り走り回って、はしゃいでみたいと望んでいた。それなのに参考書を読んでいる。

(ガリ勉じゃないと思っていたけど、そうじゃなかったのか)

 いいやと和彦は否定する。子どもの和彦のところへ、クラスメイトがふたり走り寄った。遊びの誘いに子どもの和彦は、うれしさを隠しきれない顔で「しかたないな」と応じて立ち上がった。

 それを見て、和彦はホッとする。遊んでいる自分の姿に安心しながら泣きたくなった。喉の奥が詰まって、目の奥が熱くなる。

(なんで、俺は泣きそうになっているんだ)

 わけがわからない。あたたかなものが鎖骨のあたりにわだかまって喉をふさぎ、上へと登ってくる。

 走り回っている自分がとてもたのしそうで、それがとてもうれしくて。どうしてそんな当たり前の光景がうれしいのかがわからなくて、和彦は困惑した。

(なんで、俺はこんなことで感動しているんだ)

 わけがわからない。

 うれしそうな子どもの和彦は、どこかホッとしていた。とても開放的な気分になっている。自分のことだから、和彦にはひしひしと伝わってくる。

 広い場所で好きなだけ動いていい。それをとてつもなく、うれしがっている。自然に囲まれて開放的になっている、というだけではないものがある。

(どうして)

 遊びまわる自分を見ながら、和彦は感情の出所を探った。

(俺はガリ勉じゃない。こうして誘ってくる友達がいた。いまだって、そういう友達はいる。家庭教師のクチだって、友達の紹介だ。だから俺は……俺は)

 教師の声が空に響いた。ハッとした和彦は教師を見る。自由時間の終了を告げる教師の声に、すぐに従う生徒はすくない。その、すくない生徒の中に子どもの和彦はいた。遊んでいた相手に真面目な顔で、集合しようと言っている。

(ああ、そうだ)

 その顔の中に、未練を見つけて和彦は気がついた。

(俺は、もっともっと遊びたいんだ)

 けれど優等生でいなければならないと、己に課していた。なぜ、そんな枠を自分にはめていたのだろう。

(ああ、そうだ)

 両親が――とくに母親が、そうでなければ嫌がったのだ。言葉にして「優等生でいろ」と教育されたわけではない。けれど母の定めた規範からそれると、母の眉間にわずかにシワが寄った。それが怖ろしくて、和彦は母の望むとおりにしてきた。

(俺は、知らず知らずのうちに自分を殺していたのか)

 母の笑顔のために、努力をしてきたのだ。

 気づいた瞬間、景色が吸い込まれて暗闇に戻った。

 耳に鳥の声が触れて目を開けると、湯船の中にいた。ヘリに両腕をかけて格子窓から外をながめる恰好をしている。

「いまの……は?」

 つぶやいた和彦は周囲を見回し、立ち上がった。ザアッと音がして湯がこぼれる。めまいがして、湯あたりをしたかと目頭を押さえた。

 息を吐き、湯船から出る。入ってきたのとは別の戸を引くと、脱衣所だった。手拭いでざっと体を拭いて、棚に置かれているバスタオルを手にする。それで全身をしっかり拭うと、用意されていた浴衣に袖を通した。パリッとした浴衣の肌触りや着心地は、自分自身が真新しくなった気にさせてくれた。

(そんなわけ、ないのにな)

 自分にこびりついていた余計な“なにか”が浮かび、剥がれた気分だ。

 足取り軽く部屋に戻ると、オヤツの用意がされていた。こういう場所は和菓子がだされるものと決めつけていた和彦は、テーブルに並んだ駄菓子に目をまるくした。

「なんで」

 どれもこれも子ども時代にあこがれていたものたちだった。水あめやえびせん、安価なスナックの小袋などが、ちょっとした駄菓子コーナーかと思うほど豊富に並んでいる。

 テーブルの前に膝をついて、和彦は呆然とそれらをながめた。

 なつかしいと言いかけた口が止まる。

(なつかしい?)

 これらを和彦は食べたことがなかった。正確に言えば、友達からわけてもらわなければ食べられなかった。母親は手作りの洋菓子を和彦に与え、子ども向けの菓子コーナーに並んでいるものは買わなかった。そんなものは食べなくていいと言われてきた。

 遊びに来た友達は誰もが、クッキーやケーキをよろこんだ。いつもそういうものを食べられる和彦がうらやましいと言っていた。和彦は「そうだろう」と胸を張った。けれどシールやカードのついている菓子を、買ってもらっている姿をうらやんだ。

 欲しいと母に言ってみたことがある。母は無言で、険しい目で悲しそうな顔を作った。その瞬間、和彦はあわてて「別に欲しくはないけれど、他人がどんなものを好んでいるのか知るための勉強だから」と言い訳をした。その時に、もう二度とああいうものを欲しいと言わないと心に決めた。――心の底では、それらを求めながら。

 幼いころの気持ちに気づいた和彦の視界が、揺れてにじんだ。

 瞳を潤ませて、和彦は手前にあった袋をつまんだ。ウエハースの中にチョコが挟まれている、シールつきのお菓子だ。封を切り、シールを取り出す。キラキラしたものが出ないかと、同年代の子どもはうれしそうに開けていた。外れたら外れたで、落ち込みながらもたのしんでいた。

 出てきたシールはキラキラしていなかった。けれど和彦がはじめて手に入れたシールだ。

「はは」

 軽く笑うと涙がこぼれた。シールをていねいにテーブルに乗せて、お菓子をかじる。

「うまい」

 なんてことない味なのに、ひどくおいしく感じられた。ぽろぽろと涙がこぼれる。そんな自分を笑いながら食べ終えた和彦は、次の袋に手を伸ばした。次は玉ねぎ頭のキャラクターが描かれているスナック菓子だ。

「うん……うまい」

 友人たちにとっては子どもの頃のなつかしい味でも、和彦にとっては身近にある羨望の味だった。泣きながら並んでいるお菓子を次々と食べた和彦は大の字に寝転がり、腹の底から笑い声を上げた。

 自分の笑い声を聞きながら、和彦はなにかから解放されていくのを感じる。自分の奥でちいさく身をまるめて膝を抱えていた幼い自分が、ゆっくりと立ち上がり両手を上げて、思い切り伸びをしていた。

「はは……あははははは」

 ひとしきり笑い終えた和彦は、食い散らかしたお菓子の袋を見た。

「こんな、こんなもので」

 クックッと喉を鳴らして、和彦は空の袋をかき集める。どれもこれも大人になってから買って試せばよかったのに、和彦はそうしなかった。心の中のなにかが「これは価値の低いもの」とあざけって、その分あこがれを強めていった。どうしてそんな相反した価値観を持っていたのか。

(かあさんだ)

 母親の、無言の不機嫌を気にする癖がついていた。それが周囲から向けられる枠の中にいなければという無意識の強迫観念になり、知らず知らずのうちに自分の言動を縛っていた。

(だから、俺は)

 友達からの評価どおりでなかった事実に心をざわめかせていたのかと、和彦はバカバカしくなった。そしてふたたび涙があふれる。

「なんなんだよ。呪いかよ」

 笑いながら泣く和彦は、自分をバカにしながら安堵した。魂が震えている。母の顔色を気にしていた幼い自分が、おそるおそる這い出してくる。

 そんな自分を抱きしめて、和彦は深く温和な息を吐いた。

「俺は……俺でいいのに……なんで」

 そんなつまらないことをと言いかけて、いいやと首を振る。

 他者からすればつまらないことかもしれないが、当人にすれば大きな価値観だ。とくに、子ども時代に与えられる保護者の反応は。

(そうか)

 だから家庭教師先の生徒は、自分になにも言わなかったのだと和彦は気がついた。

(俺は、自分がどう見られているのかを気にしていたから。それに合わせることにばかり意識を向けていたから)

 無意識のそれを、生徒は過敏に察していたのだ。だから相談をしても無駄だと思われたのだ。

(なるほどな)

 納得すると、いつも感じていた周囲と自分の間にある薄い膜の存在を意識した。どんなに親しく接してみても、どこか違う世界にいる感覚があった。その原因はこれだったのかと、和彦はしみじみと噛みしめる。

(俺は、俺を生きていなかったんだ)

 周囲の――特に母親の目を基盤として、自分を演出していたのだと、和彦はまたおかしくなった。

 笑いながら首を振り、立ち上がる。

 ふらふらとあてもなく部屋を出て廊下を歩く。足元に幼い自分が現れて、にこっと笑った。和彦も笑い返す。抱きついてきた幼い和彦が両腕を伸ばして、和彦はそれを抱き上げて、ふたりは笑いながら額を重ねた。

(ああ)

 自分が自分に戻っていく。

 和彦は目を閉じて、静かな高揚を味わった。

 ゆっくりと目を開けると青空が広がっていた。視線を落とすと大学の校舎が見える。

(あれ……?)

 目をぱちくりさせて、和彦は周囲を見回した。

(なんだ……なんか、妙な感じだな)

 胸に手を当てて振り向く。そこは食堂の出入り口だった。

(なんで俺、こんなとこに)

 ああそうだと和彦は思い出した。

(就職活動の話をしていて、腹が減ってなにかを買おうと思ったんだっけ)

 それで食堂を出て、それからどうするつもりだったのか。それが思い出せない。

「まあ、いいか」

 そんなことはどうでもいい。

 和彦はなぜか気分がよかった。理由はわからない。わだかまっていた薄い霧が晴れて、視界が鮮明になった感覚がある。

 食堂内に戻り、総菜パンと菓子パンを買って席に戻ると、笑顔で学友たちが和彦を迎え入れた。

「お、うまそう。俺もなんか買ってこようかな」

 そう言ったひとりに「じゃあ俺、コロッケパン」と言う者がいて、ほかの連中も便乗する。飲み物を買い忘れていた和彦も、それじゃあカフェオレとついでに頼んだ。

「え」

「ん?」

 おどろく学友に、和彦は首をかしげる。

「いや、和彦なら自分で買いに行くって言いそうだから、めずらしいなって」

「戻ってきたのに、また行くなんてめんどうだからさ」

「うん、まあ……そうだよな」

「ちゃんと金は払うって」

「そういうことを心配してんじゃねぇよ」

 相手の持つイメージと違っていたと、わずかに気持ちがおじけて震えた。しかしそれを笑って流すと、彼等とおなじ空間にいるという実感が湧いてきた。

(変なの)

 クスリと笑って、買い物係になってしまった学友を見送る。

「なんか、機嫌いいじゃん。あ、もしかして――どっかから内定の連絡がきたとか?」

「ちげぇよ。俺も全滅。だけど……まあ、なんとかなる気がしてるんだよな」

「おっ。さすが天才は違うねぇ」

「天才じゃねぇよ。めっちゃ勉強してきたってだけ。おまえらも、俺を見習って勉強に励めよな」

「いまから? もう手遅れだって」

 軽口を叩く和彦の心がこみ上げるよろこびと、同等の不安に揺れた。

「大丈夫だって。なんつうか、きっかけっつうか、とっかかりさえつかめれば、なんとかなるからさ」

「それをつかむのが、大変なんだって」

 友人の渋い顔を和彦は笑う。

 和彦はなんの屈託も計算もなく、まっさらな自分で彼等と接していた。
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