13 / 21
江田元子
(どうして今日にかぎって、聞こえてくるんだろう)
しおりを挟む
江田元子はイライラしながら地面をにらんで歩いていた。
(なんなのよ、なんなのよ!)
腹立たしい腹立たしいとはらわたを煮えくりかえしながら、ヒールを鳴らしてズンズン歩く元子は、うつむきながらも足元を見ていなかった。
(私がなんだっていうのよ)
あなたたちよりずっと優秀だし、がんばっているのよと腹の底で叫ぶ元子は自分の怒りに呑まれていた。
「私が……行き遅れそうですって? 八方美人でいいように使われているだけって、なによそれ!」
会社の給湯室で後輩たちが会話しているのを偶然、耳にしてしまった。誰かがいることはわかっていた。そこにちょっと割って入って、コーヒーを淹れてデスクに戻って仕事を続ける。そしていつものように定時まで仕事をし、退勤してスーパーに寄って夕食の買い物をする。もしかしたら今日は、定時で帰れるかもしれないという希望を含んだ予定を胸に、給湯室に踏み込もうとした元子の足は止まった。
「――さんって、ほんと悪いよねぇ」
「江田さんも、いいかげんに気づけばいいのに」
「そこそこイケメンの独身に頼まれたら、やっぱ断れないんじゃん? そろそろ相手を見つけないとヤバイって慌ててるんだよ。だって、めちゃくちゃイイ顔しいの、八方美人って言うの? 誰にでもヘラヘラしてさ、仕事を押しつけられまくってんじゃん。いいように使われてるだけっての? 私、ムリぃ」
「あれじゃない? どんな仕事がきてもこなせますってヤツかも。私、優秀なんですアピール」
「あー、そっちかぁ。まあ、あんなキツそうな人だったら、結婚できなさそうだしね。バリバリ働いて、稼がないとってことか」
「それか、ヒモな彼氏がいるかもよ。私が養ってあげなくちゃ、てきな?」
「それも、ありうるぅ。てかさ、江田さん、もちょっとかわいげあるようにしたらいいのにね。化粧とか服装とか、なんかスキなさすぎで怖い」
「たしかに、たしかに! もうちょっとこう、できないとこアピールしたらモテそうなのにねぇ」
「かっこいいっちゃ、かっこいいんだけど……女としては残念だよね」
「まあでも、アレにあこがれてる人もいるわけだし?」
「好き好きってことかぁ。私は苦手だし、なりたくないけど。だって、行き遅れそうじゃん」
「がんばるなら、仕事より合コンだよねぇ」
ねーっと毒のある甘い声に後ずさり、元子は何事もなかった顔でデスクに戻って仕事をはじめた。鉛玉を飲み込んだ気分だ。喉の奥が無理やりこじ開けられたみたいに苦しくて、みぞおちのあたりがズシリと重い。
(気にしなくていい)
会話をしていた後輩たちが戻ってきた。心臓がバクンと跳ねる。それを無視して仕事をしていると、上司から残業を頼まれた。目の端で後輩たちを気にしながら、いつも通りに「いいですよ」と言おうとした元子の口は意外な言葉を吐き出した。
「すみません、今日はちょっと用事が」
弱々しく、けれどきっぱりとした拒絶の声に元子自身がおどろいていると、上司はわずかに眉を上げて「そうか」とつぶやく。あわてて「ああでも、すこしだけなら」と声を出すと、いいよいいよと上司は笑った。
「いつも江田に頼ってばかりだからな。代わりに……坂崎、いけるか」
声をかけられた元子の同期は、苦笑いしながら受け入れた。
「ごめんね、坂崎くん」
「べつに。前に仕事、手伝ってもらったしな」
用事もないのに断ってしまったことで、同僚に残業を押しつけた。そんな罪悪感が元子の胸に兆す。それと同時に、断ることのできた自分に奮えた。
さりげなく後輩たちの様子を探る。彼女たちは元子の存在など気にせずに、仕事をしていた。けれど心中ではどうなのか。見えないことが惜しくて、元子はそっと息を吐くと仕事に戻った。
(私は八方美人じゃないし、残業代だってきちんと出るし)
サービス残業ではないのだから、時間があれば受けるのは当然だと元子は胸の裡で後輩たちに反論する。
(私だって、こうやって断ったりもするんだから)
そこでふと、彼女たちが「自分たちの会話が、元子に届いた」と感じないかと心配になった。
自意識過剰だろうか。
そんなことはないと、すぐさま否定する。
こっちが思ってもいなかったことで文句を言われるのだから、こちらが自意識過剰なのではなく向こうがそうなのだ。それを気にするのは当然で……だけどどうして気にするのだろう。
終業時間が近づくにつれて、元子はこれからどうしようと考えた。
用事はなにもない。けれど用事があると残業を断った。誰かに連絡をして用事を作ってしまおうか。といって、誰に連絡をすればいいかわからない。友人はいる。けれどいきなり誘って、迷惑をかけてしまわないか。向こうには用事があるかもしれない。残業をしているかも。いきなり食事に誘って、なにかあったと勘ぐられて心配されて、仕事を途中で切り上げさせることになりはしないか。そして誘ってきた理由を聞かれたら、どう答える? 気を使ってなにも言わずに、ただこちらに合わせてくれたとしても相手は楽しくないのでは。
(ああ)
どうしようと内側で頭を抱えて、表面上はいつもどおりの顔で仕事を片づけていく元子は、チラチラと時計に視線を投げつつ気をもんだ。
(こんなことなら、あの子たちの会話なんて気にせずに残業を受けておけばよかった)
誰かから連絡がきたフリをして、やっぱり残業できますと言おうか。しかしそんな演技をして、よけいにみじめになりはしないか。どうしてあんな会話を聞いてしまったんだろう。あのときコーヒーを飲もうと思わなければ、いつもどおり平穏でいられたのに。
「それじゃあ、お疲れ様です」
明るい後輩の声に顔を上げると、かろやかな笑顔を浮かべた後輩がカバンを肩にかけるのが見えた。
「なんだなんだ。おまえたちはいつも定時ぴったりだなぁ」
「仕事はちゃんと終わってますよぉ」
ねぇ、と顔を見合わせて、元子の話をしていた後輩たちが愛らしく笑う。苦笑する上司は「まあそうだ」とつぶやいて、元子に視線を向けた。
(私も片づけなくっちゃ)
自分の仕事は切りのいいところまで終わっている。あとは明日にまわしても問題ない。今日中にする必要のない仕事だから、ここで席を立っても誰にも迷惑をかけない。なにより用事があると言ったのだから、ここで退勤しなければ妙に思われる。
手早く作業を終えて机の上を片づけていると、上司の声が耳に届いた。
「江田は新人のころから仕事熱心で、だから頼られるくらいのスキルを身に着けたんだぞ」
ふわりと元子の胸が熱くなった。評価されているとうれしくなる。
「私たちだって真剣にやってますよぉ。でもほら、ほかにもいろいろとしたいことがあるので」
「仕事だけが人生じゃないっていうか……ねぇ」
なんてことを言うのだと、片づけをしながら元子はヒヤヒヤした。怖いもの知らずにもほどがある。上司や残業をしている先輩たちに、どう受け取られるのか気にならないのか。
「それでまた、合コンか」
「やだぁ! なんで牧田先輩がそれ知ってるんですかぁ」
重苦しい空気になるのではという元子の危惧は、杞憂に終わった。どうして和やかでいられるのかが、元子にはわからない。あれほどあけすけに、自分よりも目上の人間を否定する発言をしているのに――。
きゃっきゃとはしゃぐ彼女たちが、元子より先に事務所を出ていく。すこし遅れて元子も「お先に失礼します」と言って、席を離れた。この後の予定はなにもないままで、誰かを誘おうと思いつつ決めかねながら。
「てかさ。江田さんの用事って、なんなんだろうね」
化粧室から声が聞こえて、元子の足は勝手に止まった。
(どうして今日にかぎって、聞こえてくるんだろう)
無視をすればいいと思う元子の足は動かない。
「なんでもいいじゃん」
「えー。だって珍しいし、気にならない?」
「合コン相手ほどは気にならないよぉ」
「もしかして私らの話、聞いてたとか」
「それって、給湯室での?」
「うん」
「それ気にして用事もないのに残業断ったとかなら、ウケル」
「そんな言い方したら、かわいそうじゃん」
そう言いながらも声は愉快と言いたげに震えていた。
「――っ」
息をのんだ元子の足指に力がこもって、床を蹴った。走るよりは遅く、けれど確実に急いでいる速度で会社を飛び出した元子は、さきほどの嘲笑に意識を包まれながら得体の知れないものから逃げようと、やみくもに顔を伏せて歩き続けた。
(なんなのよ、なんで……なんで私があんなことを言われなくっちゃいけないのよ!)
腹立たしいより悔しくて。悔しいよりも情けなくて。元子の鼻はツンとして、鎖骨と胸の間がきしむほどに冷たくなる。
(私なんにも悪いことしてないのに、真面目にしているだけなのに! それなのになんで、あんなことを言われなくちゃならないの?)
足がもつれて、元子はその場にへたり込んだ。喉の奥に冷たい感情の塊がせり上がってくる。それをグッと飲み下した元子は立ち上がり、膝に着いた砂利を払い落した。
「――え」
コンクリートの道を歩いていたのに、どうして砂利がつくのだろう。軽く汗の拭きだした額を手の甲でぬぐいながら周囲を見回し、元子はふたたび「え」とつぶやいた。
まず目に入ったのはこげ茶色の木の幹だった。それがずらっと途切れることなく並んでいる。見上げるとうっそりと茂った木の葉が見えた。真上に視線を向けると、真っ青な空が広がっている。
「なんで」
会社を出たのは夕方なのに、いくらなんでも青すぎる。これではまるで昼間のようだ。そもそもここはどこなのか。会社の近くにこれほど木々が密集している場所があるなど、聞いたことがない。
(それになにより、これってなんだか登山っぽい)
道は元子が両腕を広げた程度の幅しかなく、両端は人の足が踏み込んでいないと言いたげに木々が並び立ち、その根元には草花が密集していた。
まっすぐに伸びているゆるやかな坂道をながめ、振り向いた元子は顔をしかめた。
(なんで)
人工物らしきものがすこしも見えない。道はコンクリートではなく、道の両端は林、あるいは森と表現しても差し支えのない状態だ。
(電車か車に乗った記憶なんてないし)
いったいどこに紛れ込んでしまったのかと、恐怖が元子を包み込む――と、めまいがした。
ふわりと意識が浮かんで揺れて、上あごのあたりに吐き気がわだかまる。目元を抑えてふらついて、身をかがめてゆっくりとした呼吸を意識する。しばらくそうしていると、じょじょに感覚が戻ってきた。
「ふう」
最後に大きな息の塊を吐き出して背を伸ばす。
「ああ、そうだ」
今日は有給を取って散策に来たのだった。この道は穴場のレストランへ続いている。なにかの雑誌に載っていて、とくにすることもないから運動がてら遠出をしようと決めたのだった。
「それなのに、会社に行くのとおなじ格好しているなんて」
笑いながら自分にあきれる。けれど出かける用の服なんて、あまり持っていない。職場はスーツでなくともいいし、その後で友人と食事をしたりすることもあるので、服を買うときには仕事にも遊びにも着ていけるものを選んでいた。
(先輩とか後輩とかも、そんな感じだし)
だから元子のオンとオフは、誰かと会うか会わないかで分断されて、服もそれで決まっていた。
(でも、こんな山道っぽいところを歩くなんて思わなかったな)
もっとカジュアルでスポーティーな服装をと考えて、頭に浮かんだのは寝間着代わりにしているジャージだった。
(あれで出かけるのは、ちょっとね)
肩をすくめた元子は、ヒールの低いパンプスで地面を踏みしめ登っていった。
すぐに坂は終わり、開けた場所に出た。
「わぁ」
目の前にあるのは、どう見ても古民家だった。庭では鶏がのんびりと歩いたり座ったりと、思い思いに過ごしている。レストランというよりは、立派な農家の屋敷といった風情の建物を、元子はぽかんと口を開けてながめた。
「すっごい」
ちかごろ古いものをリメイクするのがはやっているが、この店もきっとそういうたぐいのものだろう。外観は古いが清潔そうだと近づいて、看板らしいものが見当たらないことに元子は気がついた。
(ここじゃない……の、かな)
きょろきょろとしてみるが、ほかに建物らしきものはない。一本道だったので迷いようもなかったのだから、目的地はここのはず。
(でも)
お店っぽいなにかがないかと玄関回りをじっくり見ていると、カラリと引き戸が開けられた。
「おや」
着物姿の青年が、戸の奥から顔を出す。年のころは二十代半ばから後半くらいだろうか。だいたい自分とおなじくらいだろうと元子は判断した。にっこりと笑った顔は色白で、気品のようなものが漂っている。年に似合わぬ落ち着きがあると感じるのは、着物姿がしっくりとあっているからかもしれない。艶やかな黒髪を首のあたりでひとつに結んでいる彼は、引き戸を大きく空けて手のひらで元子を招いた。
「さあ、どうぞ。いらっしゃいませ」
「え、ああ……ええと」
(やっぱり、お店はここでよかったんだ)
おそるおそる近づいた元子は、入る前に足を止めて確認した。
「あの、ここって――」
店名が思い出せない。ええと、と口ごもった元子を青年はうながす。
「お待ちいたしておりました」
「あ、はい」
戸の外に出てこない青年を不思議に思いつつ、元子は屋内に足を踏み入れた。
(なんなのよ、なんなのよ!)
腹立たしい腹立たしいとはらわたを煮えくりかえしながら、ヒールを鳴らしてズンズン歩く元子は、うつむきながらも足元を見ていなかった。
(私がなんだっていうのよ)
あなたたちよりずっと優秀だし、がんばっているのよと腹の底で叫ぶ元子は自分の怒りに呑まれていた。
「私が……行き遅れそうですって? 八方美人でいいように使われているだけって、なによそれ!」
会社の給湯室で後輩たちが会話しているのを偶然、耳にしてしまった。誰かがいることはわかっていた。そこにちょっと割って入って、コーヒーを淹れてデスクに戻って仕事を続ける。そしていつものように定時まで仕事をし、退勤してスーパーに寄って夕食の買い物をする。もしかしたら今日は、定時で帰れるかもしれないという希望を含んだ予定を胸に、給湯室に踏み込もうとした元子の足は止まった。
「――さんって、ほんと悪いよねぇ」
「江田さんも、いいかげんに気づけばいいのに」
「そこそこイケメンの独身に頼まれたら、やっぱ断れないんじゃん? そろそろ相手を見つけないとヤバイって慌ててるんだよ。だって、めちゃくちゃイイ顔しいの、八方美人って言うの? 誰にでもヘラヘラしてさ、仕事を押しつけられまくってんじゃん。いいように使われてるだけっての? 私、ムリぃ」
「あれじゃない? どんな仕事がきてもこなせますってヤツかも。私、優秀なんですアピール」
「あー、そっちかぁ。まあ、あんなキツそうな人だったら、結婚できなさそうだしね。バリバリ働いて、稼がないとってことか」
「それか、ヒモな彼氏がいるかもよ。私が養ってあげなくちゃ、てきな?」
「それも、ありうるぅ。てかさ、江田さん、もちょっとかわいげあるようにしたらいいのにね。化粧とか服装とか、なんかスキなさすぎで怖い」
「たしかに、たしかに! もうちょっとこう、できないとこアピールしたらモテそうなのにねぇ」
「かっこいいっちゃ、かっこいいんだけど……女としては残念だよね」
「まあでも、アレにあこがれてる人もいるわけだし?」
「好き好きってことかぁ。私は苦手だし、なりたくないけど。だって、行き遅れそうじゃん」
「がんばるなら、仕事より合コンだよねぇ」
ねーっと毒のある甘い声に後ずさり、元子は何事もなかった顔でデスクに戻って仕事をはじめた。鉛玉を飲み込んだ気分だ。喉の奥が無理やりこじ開けられたみたいに苦しくて、みぞおちのあたりがズシリと重い。
(気にしなくていい)
会話をしていた後輩たちが戻ってきた。心臓がバクンと跳ねる。それを無視して仕事をしていると、上司から残業を頼まれた。目の端で後輩たちを気にしながら、いつも通りに「いいですよ」と言おうとした元子の口は意外な言葉を吐き出した。
「すみません、今日はちょっと用事が」
弱々しく、けれどきっぱりとした拒絶の声に元子自身がおどろいていると、上司はわずかに眉を上げて「そうか」とつぶやく。あわてて「ああでも、すこしだけなら」と声を出すと、いいよいいよと上司は笑った。
「いつも江田に頼ってばかりだからな。代わりに……坂崎、いけるか」
声をかけられた元子の同期は、苦笑いしながら受け入れた。
「ごめんね、坂崎くん」
「べつに。前に仕事、手伝ってもらったしな」
用事もないのに断ってしまったことで、同僚に残業を押しつけた。そんな罪悪感が元子の胸に兆す。それと同時に、断ることのできた自分に奮えた。
さりげなく後輩たちの様子を探る。彼女たちは元子の存在など気にせずに、仕事をしていた。けれど心中ではどうなのか。見えないことが惜しくて、元子はそっと息を吐くと仕事に戻った。
(私は八方美人じゃないし、残業代だってきちんと出るし)
サービス残業ではないのだから、時間があれば受けるのは当然だと元子は胸の裡で後輩たちに反論する。
(私だって、こうやって断ったりもするんだから)
そこでふと、彼女たちが「自分たちの会話が、元子に届いた」と感じないかと心配になった。
自意識過剰だろうか。
そんなことはないと、すぐさま否定する。
こっちが思ってもいなかったことで文句を言われるのだから、こちらが自意識過剰なのではなく向こうがそうなのだ。それを気にするのは当然で……だけどどうして気にするのだろう。
終業時間が近づくにつれて、元子はこれからどうしようと考えた。
用事はなにもない。けれど用事があると残業を断った。誰かに連絡をして用事を作ってしまおうか。といって、誰に連絡をすればいいかわからない。友人はいる。けれどいきなり誘って、迷惑をかけてしまわないか。向こうには用事があるかもしれない。残業をしているかも。いきなり食事に誘って、なにかあったと勘ぐられて心配されて、仕事を途中で切り上げさせることになりはしないか。そして誘ってきた理由を聞かれたら、どう答える? 気を使ってなにも言わずに、ただこちらに合わせてくれたとしても相手は楽しくないのでは。
(ああ)
どうしようと内側で頭を抱えて、表面上はいつもどおりの顔で仕事を片づけていく元子は、チラチラと時計に視線を投げつつ気をもんだ。
(こんなことなら、あの子たちの会話なんて気にせずに残業を受けておけばよかった)
誰かから連絡がきたフリをして、やっぱり残業できますと言おうか。しかしそんな演技をして、よけいにみじめになりはしないか。どうしてあんな会話を聞いてしまったんだろう。あのときコーヒーを飲もうと思わなければ、いつもどおり平穏でいられたのに。
「それじゃあ、お疲れ様です」
明るい後輩の声に顔を上げると、かろやかな笑顔を浮かべた後輩がカバンを肩にかけるのが見えた。
「なんだなんだ。おまえたちはいつも定時ぴったりだなぁ」
「仕事はちゃんと終わってますよぉ」
ねぇ、と顔を見合わせて、元子の話をしていた後輩たちが愛らしく笑う。苦笑する上司は「まあそうだ」とつぶやいて、元子に視線を向けた。
(私も片づけなくっちゃ)
自分の仕事は切りのいいところまで終わっている。あとは明日にまわしても問題ない。今日中にする必要のない仕事だから、ここで席を立っても誰にも迷惑をかけない。なにより用事があると言ったのだから、ここで退勤しなければ妙に思われる。
手早く作業を終えて机の上を片づけていると、上司の声が耳に届いた。
「江田は新人のころから仕事熱心で、だから頼られるくらいのスキルを身に着けたんだぞ」
ふわりと元子の胸が熱くなった。評価されているとうれしくなる。
「私たちだって真剣にやってますよぉ。でもほら、ほかにもいろいろとしたいことがあるので」
「仕事だけが人生じゃないっていうか……ねぇ」
なんてことを言うのだと、片づけをしながら元子はヒヤヒヤした。怖いもの知らずにもほどがある。上司や残業をしている先輩たちに、どう受け取られるのか気にならないのか。
「それでまた、合コンか」
「やだぁ! なんで牧田先輩がそれ知ってるんですかぁ」
重苦しい空気になるのではという元子の危惧は、杞憂に終わった。どうして和やかでいられるのかが、元子にはわからない。あれほどあけすけに、自分よりも目上の人間を否定する発言をしているのに――。
きゃっきゃとはしゃぐ彼女たちが、元子より先に事務所を出ていく。すこし遅れて元子も「お先に失礼します」と言って、席を離れた。この後の予定はなにもないままで、誰かを誘おうと思いつつ決めかねながら。
「てかさ。江田さんの用事って、なんなんだろうね」
化粧室から声が聞こえて、元子の足は勝手に止まった。
(どうして今日にかぎって、聞こえてくるんだろう)
無視をすればいいと思う元子の足は動かない。
「なんでもいいじゃん」
「えー。だって珍しいし、気にならない?」
「合コン相手ほどは気にならないよぉ」
「もしかして私らの話、聞いてたとか」
「それって、給湯室での?」
「うん」
「それ気にして用事もないのに残業断ったとかなら、ウケル」
「そんな言い方したら、かわいそうじゃん」
そう言いながらも声は愉快と言いたげに震えていた。
「――っ」
息をのんだ元子の足指に力がこもって、床を蹴った。走るよりは遅く、けれど確実に急いでいる速度で会社を飛び出した元子は、さきほどの嘲笑に意識を包まれながら得体の知れないものから逃げようと、やみくもに顔を伏せて歩き続けた。
(なんなのよ、なんで……なんで私があんなことを言われなくっちゃいけないのよ!)
腹立たしいより悔しくて。悔しいよりも情けなくて。元子の鼻はツンとして、鎖骨と胸の間がきしむほどに冷たくなる。
(私なんにも悪いことしてないのに、真面目にしているだけなのに! それなのになんで、あんなことを言われなくちゃならないの?)
足がもつれて、元子はその場にへたり込んだ。喉の奥に冷たい感情の塊がせり上がってくる。それをグッと飲み下した元子は立ち上がり、膝に着いた砂利を払い落した。
「――え」
コンクリートの道を歩いていたのに、どうして砂利がつくのだろう。軽く汗の拭きだした額を手の甲でぬぐいながら周囲を見回し、元子はふたたび「え」とつぶやいた。
まず目に入ったのはこげ茶色の木の幹だった。それがずらっと途切れることなく並んでいる。見上げるとうっそりと茂った木の葉が見えた。真上に視線を向けると、真っ青な空が広がっている。
「なんで」
会社を出たのは夕方なのに、いくらなんでも青すぎる。これではまるで昼間のようだ。そもそもここはどこなのか。会社の近くにこれほど木々が密集している場所があるなど、聞いたことがない。
(それになにより、これってなんだか登山っぽい)
道は元子が両腕を広げた程度の幅しかなく、両端は人の足が踏み込んでいないと言いたげに木々が並び立ち、その根元には草花が密集していた。
まっすぐに伸びているゆるやかな坂道をながめ、振り向いた元子は顔をしかめた。
(なんで)
人工物らしきものがすこしも見えない。道はコンクリートではなく、道の両端は林、あるいは森と表現しても差し支えのない状態だ。
(電車か車に乗った記憶なんてないし)
いったいどこに紛れ込んでしまったのかと、恐怖が元子を包み込む――と、めまいがした。
ふわりと意識が浮かんで揺れて、上あごのあたりに吐き気がわだかまる。目元を抑えてふらついて、身をかがめてゆっくりとした呼吸を意識する。しばらくそうしていると、じょじょに感覚が戻ってきた。
「ふう」
最後に大きな息の塊を吐き出して背を伸ばす。
「ああ、そうだ」
今日は有給を取って散策に来たのだった。この道は穴場のレストランへ続いている。なにかの雑誌に載っていて、とくにすることもないから運動がてら遠出をしようと決めたのだった。
「それなのに、会社に行くのとおなじ格好しているなんて」
笑いながら自分にあきれる。けれど出かける用の服なんて、あまり持っていない。職場はスーツでなくともいいし、その後で友人と食事をしたりすることもあるので、服を買うときには仕事にも遊びにも着ていけるものを選んでいた。
(先輩とか後輩とかも、そんな感じだし)
だから元子のオンとオフは、誰かと会うか会わないかで分断されて、服もそれで決まっていた。
(でも、こんな山道っぽいところを歩くなんて思わなかったな)
もっとカジュアルでスポーティーな服装をと考えて、頭に浮かんだのは寝間着代わりにしているジャージだった。
(あれで出かけるのは、ちょっとね)
肩をすくめた元子は、ヒールの低いパンプスで地面を踏みしめ登っていった。
すぐに坂は終わり、開けた場所に出た。
「わぁ」
目の前にあるのは、どう見ても古民家だった。庭では鶏がのんびりと歩いたり座ったりと、思い思いに過ごしている。レストランというよりは、立派な農家の屋敷といった風情の建物を、元子はぽかんと口を開けてながめた。
「すっごい」
ちかごろ古いものをリメイクするのがはやっているが、この店もきっとそういうたぐいのものだろう。外観は古いが清潔そうだと近づいて、看板らしいものが見当たらないことに元子は気がついた。
(ここじゃない……の、かな)
きょろきょろとしてみるが、ほかに建物らしきものはない。一本道だったので迷いようもなかったのだから、目的地はここのはず。
(でも)
お店っぽいなにかがないかと玄関回りをじっくり見ていると、カラリと引き戸が開けられた。
「おや」
着物姿の青年が、戸の奥から顔を出す。年のころは二十代半ばから後半くらいだろうか。だいたい自分とおなじくらいだろうと元子は判断した。にっこりと笑った顔は色白で、気品のようなものが漂っている。年に似合わぬ落ち着きがあると感じるのは、着物姿がしっくりとあっているからかもしれない。艶やかな黒髪を首のあたりでひとつに結んでいる彼は、引き戸を大きく空けて手のひらで元子を招いた。
「さあ、どうぞ。いらっしゃいませ」
「え、ああ……ええと」
(やっぱり、お店はここでよかったんだ)
おそるおそる近づいた元子は、入る前に足を止めて確認した。
「あの、ここって――」
店名が思い出せない。ええと、と口ごもった元子を青年はうながす。
「お待ちいたしておりました」
「あ、はい」
戸の外に出てこない青年を不思議に思いつつ、元子は屋内に足を踏み入れた。
0
あなたにおすすめの小説
冷徹宰相様の嫁探し
菱沼あゆ
ファンタジー
あまり裕福でない公爵家の次女、マレーヌは、ある日突然、第一王子エヴァンの正妃となるよう、申し渡される。
その知らせを持って来たのは、若き宰相アルベルトだったが。
マレーヌは思う。
いやいやいやっ。
私が好きなのは、王子様じゃなくてあなたの方なんですけど~っ!?
実家が無害そう、という理由で王子の妃に選ばれたマレーヌと、冷徹宰相の恋物語。
(「小説家になろう」でも公開しています)
遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。
沼野 花
恋愛
私は、夫にも子供にも選ばれなかった。
その事実だけを抱え、離縁を突きつけ、家を出た。
そこで待っていたのは、最悪の出来事――
けれど同時に、人生の扉がひらく瞬間でもあった。
夫は愛人と共に好きに生きればいい。
今さら「本当に愛していたのは君だ」と言われても、裏切ったあなたを許すことはできない。
でも、子供たちの心だけは、必ず取り戻す。
妻にも母にもなれなかった伯爵夫人イネス。
過去を悔いながらも、愛を手に入れることを決めた彼女が辿り着いた先には――
半竜皇女〜父は竜人族の皇帝でした!?〜
侑子
恋愛
小さな村のはずれにあるボロ小屋で、母と二人、貧しく暮らすキアラ。
父がいなくても以前はそこそこ幸せに暮らしていたのだが、横暴な領主から愛人になれと迫られた美しい母がそれを拒否したため、仕事をクビになり、家も追い出されてしまったのだ。
まだ九歳だけれど、人一倍力持ちで頑丈なキアラは、体の弱い母を支えるために森で狩りや採集に励む中、不思議で可愛い魔獣に出会う。
クロと名付けてともに暮らしを良くするために奮闘するが、まるで言葉がわかるかのような行動を見せるクロには、なんだか秘密があるようだ。
その上キアラ自身にも、なにやら出生に秘密があったようで……?
※二章からは、十四歳になった皇女キアラのお話です。
『お前を愛する事はない』なんて言ってないでしょうね?
あんど もあ
ファンタジー
政略結婚で妻を娶った息子に、母親は穏やかに、だが厳しく訊ねる。
「『お前を愛する事は無い』なんて言ってないでしょうね?」
悪役令嬢になるのも面倒なので、冒険にでかけます
綾月百花
ファンタジー
リリーには幼い頃に決められた王子の婚約者がいたが、その婚約者の誕生日パーティーで婚約者はミーネと入場し挨拶して歩きファーストダンスまで踊る始末。国王と王妃に謝られ、贈り物も準備されていると宥められるが、その贈り物のドレスまでミーネが着ていた。リリーは怒ってワインボトルを持ち、美しいドレスをワイン色に染め上げるが、ミーネもリリーのドレスの裾を踏みつけ、ワインボトルからボトボトと頭から濡らされた。相手は子爵令嬢、リリーは伯爵令嬢、位の違いに国王も黙ってはいられない。婚約者はそれでも、リリーの肩を持たず、リリーは国王に婚約破棄をして欲しいと直訴する。それ受け入れられ、リリーは清々した。婚約破棄が完全に決まった後、リリーは深夜に家を飛び出し笛を吹く。会いたかったビエントに会えた。過ごすうちもっと好きになる。必死で練習した飛行魔法とささやかな攻撃魔法を身につけ、リリーは今度は自分からビエントに会いに行こうと家出をして旅を始めた。旅の途中の魔物の森で魔物に襲われ、リリーは自分の未熟さに気付き、国営の騎士団に入り、魔物狩りを始めた。最終目的はダンジョンの攻略。悪役令嬢と魔物退治、ダンジョン攻略等を混ぜてみました。メインはリリーが王妃になるまでのシンデレラストーリーです。
曖昧な距離で愛している
山田森湖
恋愛
結婚4年目のアラサー夫婦、拓海と美咲。仲は悪くないが、ときめきは薄れ、日常は「作業」になっていた。夫には可愛い後輩が現れ、妻は昔の恋人と再会する。揺れる心、すれ違う想い。「恋人に戻りたい」――そう願った二人が辿り着いた答えは、意外なものだった。曖昧で、程よい距離。それが、私たちの愛の形。
君への気持ちが冷めたと夫から言われたので家出をしたら、知らぬ間に懸賞金が掛けられていました
結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
【え? これってまさか私のこと?】
ソフィア・ヴァイロンは貧しい子爵家の令嬢だった。町の小さな雑貨店で働き、常連の男性客に密かに恋心を抱いていたある日のこと。父親から借金返済の為に結婚話を持ち掛けられる。断ることが出来ず、諦めて見合いをしようとした矢先、別の相手から結婚を申し込まれた。その相手こそ彼女が密かに思いを寄せていた青年だった。そこでソフィアは喜んで受け入れたのだが、望んでいたような結婚生活では無かった。そんなある日、「君への気持ちが冷めたと」と夫から告げられる。ショックを受けたソフィアは家出をして行方をくらませたのだが、夫から懸賞金を掛けられていたことを知る――
※他サイトでも投稿中
里帰りをしていたら離婚届が送られてきたので今から様子を見に行ってきます
結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
<離婚届?納得いかないので今から内密に帰ります>
政略結婚で2年もの間「白い結婚」を続ける最中、妹の出産祝いで里帰りしていると突然届いた離婚届。あまりに理不尽で到底受け入れられないので内緒で帰ってみた結果・・・?
※「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる