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江田元子
(私って、めんどくさい)
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「わぁ」
三畳ほどの土間に大きな靴脱ぎ石がある。上がり框は元子の脇腹くらいの高さがあった。
(なんでこんなに、高いんだろう)
さっぱりわからない。こんな形では子どもやお年寄りは入りづらいのではないか。そう思いながら靴脱ぎ石に登って上がり框に腰かける。ふと顔を上げると青年の姿はなかった。
(外に出たのかな)
開けっ放しの戸の外に、むき出しの土とちらほら生えている草がある。鶏の姿はここからは見えなかった。まっすぐに伸びている道は、元子が歩いてきた道だ。その両端には木々がたくさん生えている。まるで寄り道を阻止するかのように――。
(私の人生、そんな感じかも)
ふうっと息を吐いて、元子は太腿にひじをついて頬杖をついた。半眼で戸に区切られた外をながめる。
「まっすぐ真面目に寄り道せずに……かぁ」
吐息交じりにこぼした元子は、はたしてそれで自分は幸せだったのだろうかと考える。
大きな失敗もなく、誰にも真面目でいい子だと言われてきた。特に頼りにされたことのないかわりに、誰かに迷惑をかけてもきていない。すくなくとも教師の手も両親の手も、わずらわせていないと自負している。なんでも自分でこなし、できないことはできないと限界を設定し、けれど頼まれれば断らずに出来得る限りのことをした。
誰だってそんなものだと考えている。
いや、考えていた。
「ふう」
ため息をわざと音にして、元子は下唇を突き出した。
(後輩ができるまで、あんなふうにあけっぴろげに仕事よりアフターって言う子がいるなんて知らなかった)
ドラマでは観たことのある存在に、現実で遭遇するとは想像すらしていなかった。そもそもそういうヤル気のない人間は、入社すらできないものと決めつけていた。ドラマでは物語上必要となるから、ああいう人たちが登場するのだ。ドラマを作っている人たちの時代は、いまより人口が多かったから、そういう人がいたって会社は回っていた。その認識をドラマ制作に持ち込んでいるだけで、そんな社員はいたとしても、すぐにクビになるはずだと思っていた。それなのに、後輩たちは平気な顔で勤めている。誰かに叱られることも、妬まれることもなく。
(私の耳に入っていないだけで、陰ではなにか言われているのかもしれないけど)
それでも彼女たちがクビにされる気配はない。辞めさせてほしいわけではなく、どうして当然の顔をして残業を断り退勤ができるのか。元子にはさっぱりわからない。
「お茶の用意ができております」
「えっ……あ、すみません。すぐ行きます」
いつの間にか背後に立っていた青年に声をかけられ、元子はあわてて靴を脱いだ。青年の背中を見ながら、庭に面した廊下を進む。たしか縁側というのだと元子は思い出す。
(着物の背中なんて、こんなに近くで見たのはじめて)
細身に見えるが、自分と比べれば肩幅は広い。柔和な雰囲気だが中性的というわけではない。不思議な人だと揺れる後ろ髪を視線で追っていると、広々とした部屋に通された。
「わぁ」
開かれた障子の向こうに、見事な日本庭園が広がっている。目を輝かせた元子に、青年はどうぞと縁側を勧めた。導かれるまま歩いた元子は、靴脱ぎ石の上に草履があるのを見つけた。
「お好きに散策なさってください」
「ありがとうございます」
すぐにでも庭を見たいところだが、さきほど青年は「お茶の用意ができている」と言った。それをいただいてからでなければ失礼だと、元子はテーブルに視線を投げる。そこには饅頭と湯呑が置かれていた。
元子の視線に気づいた青年がほほえみ、ごゆっくりと頭を下げて去っていく。つられて頭を下げた元子は座椅子に腰かけ、湯呑を持ち上げた。
ほんのりとした温もりが、陶器から手のひらに伝わってくる。ふんわりとくゆる湯気からまるみのあるお茶の香りがした。
「おいしそう」
つぶやいて口をつける。わずかな苦味の後を、まろやかな甘さが追いかけてきた。心をほっこりほぐされた元子の口許に笑みが浮かぶ。茶請けの饅頭はコロリとしていて愛らしい。ふっくら白いそれをつまんでみると、ゴマがふたつならんでいた。
(これ……うさぎ?)
耳になる部分はないが、まっしろでまるいフォルムと並んだゴマから連想した元子は、食べるのがもったいないなとしばらく見つめ、存分ににこにこしてからかぶりついた。ふわりとした上品な甘さが舌の上に広がる。そこでお茶を含むと、わずかな苦味がアクセントとなり、餡子の甘さが際立った。
「はぁ、おいしい」
うっとりと目を閉じて空中に感想を述べる。余韻をたっぷり味わってから、ふた口目。そしてまた堪能して……と繰り返し、ゆるゆると食べ終わった元子の心身はすっかり緊張を解いていた。
「はぁー」
気の抜けたよろこびの声を出して、テーブルに突っ伏する。骨が溶けてしまった気がするくらい、気持ちの凝りがほぐされている。なんてすてきな時間なのかと、元子は舌に残る味わいを記憶に求めた。
和菓子が特に好きなわけではないが、この饅頭は特別だ。お茶のうまみも絶妙で、シンプルな組み合わせでこれほど幸福になれるとは信じられない。
(シンプルだからこそ、いいのかも)
下手にゴタゴタと飾るより、こういうもののほうが落ち着くということか。
私にピッタリだなと、元子は静かに瞼を閉じた。ひんやりとしたテーブルが頬に心地いい。できれば大の字に寝転びたいが、それはさすがにはしたない。
「はー」
気の抜けた声を出して体の力を抜く。このまま溶けてしまいたい。
(私、思っていたより疲れているのかなぁ)
がむしゃらに働いているわけではないし、残業があるといっても世に言うブラック企業のように、終電間際までかかることもない。スーパーの閉店時間には余裕で間に合うし、睡眠もたっぷりとっている。仕事の後にどこかへ出かけたいと思わないのは、疲れているからではなく行きたい場所がないだけだ。友達に誘われれば食事に行ったりもするけれど、自分から誘わないのは用事がないからで――だけど、友達は行きたい店があったり話したいことがあるから、誘ってきてくれる。
(とくに重要な用事があるとか、そういうんじゃなく連絡くれるなぁ)
たとえば野菜の切り口がなにかに見えるとか、そんなたわいないことがメッセージアプリに届く。クスリと笑って返事して、なんでもない会話をしてそれで終わり。会話のはじめはいつも相手からで、元子から送ったことはなかった。
(だって、これといった用事はないし)
かといって、これといった用事もなく連絡をしてこないでほしいとは思わない。連絡が来ればうれしいし、返事もする。だけど自分からとなると、いろいろと考えてしまうのだ。
(ここの風景とか、お饅頭おいしかったとか……次に会ったときでもいいし)
いますぐ伝えなければいけないわけではない。次に会ったときに――いつになるかはわからないけれど、こんなことがあったよと話せばいい。そういう流れにならなければならないで、言わなくてもべつにいい。どうしても言わなければいけないことではないし。
(言いたくないわけじゃないんだけど……でも)
相手の話を遮ってまで、するほどのことではない。景色はとてもきれいだし、お茶も饅頭も感動的においしくて気持ちが和んだ。それは元子にとって最高にすてきな出来事だけれど、友達はそれに興味を示すだろうか。聞きたいと思うだろうか。どうでもいいのではないか。それよりも自分の話をしたいのではないか。
(言えば聞いてくれるけど)
自分の話なんてしてもしかたないと、元子はいつも言葉を呑んで自分の中でしみじみと反芻している。きっかけがあれば話すが、そうでなければ自分のことはあまり言わない。間ができれば、なにか関連する話題になれば、相手が興味を持ちそうなことであれば――そうでなければ、しないままで終わる。
話したくないわけではない。ただ、話す前にいろいろと考えて、二の足を踏んでしまうのだ。
(なんでだろ)
あっと思った瞬間に、気軽にメッセージを送れる相手がいないわけではないのに。ちょっと考えて「まあいっか」とやめてしまう。そうして溜まっていったちょっとした話題は積もって、いざ顔を合わせて会話をするとなったときには出てこない。意識の中にはあるのだが、出すタイミングを見つけられない。
そうそうこの間ね、と軽く口にすればいいとわかっていながら、それができない。その前にやはり考えてしまう。こんな話をして、相手ははたしてたのしんでくれるのかと。
(私って、めんどくさい)
決して無口なわけではない。心の中にはたくさんの言葉が渦巻いている。けれどそれを出すタイミングを見つけられないだけだ。
「あーあ」
自分にあきれると、後輩たちの姿が閉じた瞼の裏に浮かんだ。彼女たちはいつもたのしそうだ。ちょっとしたことに大げさに反応し、すぐにスマートフォンを取り出してやりとりしている。仕事の最中でもSNSをしていた。来客中や会議中にはさすがにしていないが、そうでないときはこまめにチェックをしている。一度、元子はそれに対して渋い顔をしたことがあった。
(もしかして、あれが原因で陰口をたたかれるようになったのかなぁ)
ほかに原因は思いつかないが、そうだとすれば逆恨みではないか。それで悪口を言われるなんてと悲しくなって、逆恨みとわかっていてもへこんでしまう自分が情けなくなる。
(気にする必要なんてない)
だけど彼女たちを会社の誰も叱らない。
(与えられた仕事はきちんとしているから? 入社してまだ間もないから、学生気分が抜けていないのだろうと寛容されているから? だけどそれならよけいに、きちんと教育しておかないといけないんじゃあ)
眉をひそめて、元子は身を起こした。目の前に急須がある。手を伸ばして持ち上げると、揺れる液体の感覚があった。湯呑にそそいだお茶からは湯気が立たない。冷めてしまったお茶を口に含んで息を抜く。
(余計なお世話なのかなぁ)
そういう部分を彼女たちは「スキなさすぎで怖い」と言ったのかもしれない。
(でも、職場は仕事をする場所だから、きっちりしないといけないし)
会社で出会う人は仕事をする相手だから、礼儀正しく接さなくては失礼にあたると元子は考えている。友達ではないのだから、なあなあな雰囲気でやりとりするのはよくない。彼女たちは学校の先生にもタメ口をきいていたんだろうなと、元子は会社での光景を意識で見つめた。
(でも、誰も不快な顔をしていない)
それは大人の対応をしているからだ。だけど誰かひとりくらい、彼女たちにきちんとしたやりとりの仕方を教えてもよさそうなものなのに、どうして誰も注意をしないのか。だから不快を示した私が陰口をたたかれることになったのだと思いかけ、元子は首を振って自分の考えを否定した。
(彼女たちだけじゃない。ずっとじゃないけど、仕事中にSNSをやってる社員はほかにもいるし。だから彼女たちを叱らないのかも。仕事中であっても息抜きは必要だし、仕事はきっちりしているんだから、そういうものに過敏になってる私のほうがよくないんだ)
不満をお茶で流し込み、元子は「そうだ」と心の中でつぶやいた。自分の考えを他人に当てはめて、おなじようにしろと思うのはよくない。それで仕事に支障をきたすのなら問題だが、そうではないから誰も注意をしないのだ。すくなくとも元子の耳には、彼女たちに対する不満は届いていない。
(私が神経質になっているだけで、なんてことないことなんだ)
自分だってしてもいい。だけど必要ないからしていない。ただそれだけのこと。彼女たちにとっては必要な行為で、だから情報が得られるという場合もある。
(そう。ひょんなことから情報に当たるってこともあるし)
思ってもみなかった情報がSNSで流れてくることもある。そんな経験を元子もしていた。だから決して悪いことではない。仕事そっちのけで没頭しているわけではないし。
(そういえば営業の誰かが、仕事の息抜きでスマホゲームやってるって言ってたな)
神経質になりがちな気分を、それでほぐしているとかなんだとか。そうして気分転換しないとイライラして顔がこわばるからとかどうだとか。仕事の役に立つのなら、そういう遊びも必要だ。それだけ心の余裕があるのはいいことだし、それで仕事がはかどるのならもっといい。
(だけど私は、ちょっと無理だな)
三畳ほどの土間に大きな靴脱ぎ石がある。上がり框は元子の脇腹くらいの高さがあった。
(なんでこんなに、高いんだろう)
さっぱりわからない。こんな形では子どもやお年寄りは入りづらいのではないか。そう思いながら靴脱ぎ石に登って上がり框に腰かける。ふと顔を上げると青年の姿はなかった。
(外に出たのかな)
開けっ放しの戸の外に、むき出しの土とちらほら生えている草がある。鶏の姿はここからは見えなかった。まっすぐに伸びている道は、元子が歩いてきた道だ。その両端には木々がたくさん生えている。まるで寄り道を阻止するかのように――。
(私の人生、そんな感じかも)
ふうっと息を吐いて、元子は太腿にひじをついて頬杖をついた。半眼で戸に区切られた外をながめる。
「まっすぐ真面目に寄り道せずに……かぁ」
吐息交じりにこぼした元子は、はたしてそれで自分は幸せだったのだろうかと考える。
大きな失敗もなく、誰にも真面目でいい子だと言われてきた。特に頼りにされたことのないかわりに、誰かに迷惑をかけてもきていない。すくなくとも教師の手も両親の手も、わずらわせていないと自負している。なんでも自分でこなし、できないことはできないと限界を設定し、けれど頼まれれば断らずに出来得る限りのことをした。
誰だってそんなものだと考えている。
いや、考えていた。
「ふう」
ため息をわざと音にして、元子は下唇を突き出した。
(後輩ができるまで、あんなふうにあけっぴろげに仕事よりアフターって言う子がいるなんて知らなかった)
ドラマでは観たことのある存在に、現実で遭遇するとは想像すらしていなかった。そもそもそういうヤル気のない人間は、入社すらできないものと決めつけていた。ドラマでは物語上必要となるから、ああいう人たちが登場するのだ。ドラマを作っている人たちの時代は、いまより人口が多かったから、そういう人がいたって会社は回っていた。その認識をドラマ制作に持ち込んでいるだけで、そんな社員はいたとしても、すぐにクビになるはずだと思っていた。それなのに、後輩たちは平気な顔で勤めている。誰かに叱られることも、妬まれることもなく。
(私の耳に入っていないだけで、陰ではなにか言われているのかもしれないけど)
それでも彼女たちがクビにされる気配はない。辞めさせてほしいわけではなく、どうして当然の顔をして残業を断り退勤ができるのか。元子にはさっぱりわからない。
「お茶の用意ができております」
「えっ……あ、すみません。すぐ行きます」
いつの間にか背後に立っていた青年に声をかけられ、元子はあわてて靴を脱いだ。青年の背中を見ながら、庭に面した廊下を進む。たしか縁側というのだと元子は思い出す。
(着物の背中なんて、こんなに近くで見たのはじめて)
細身に見えるが、自分と比べれば肩幅は広い。柔和な雰囲気だが中性的というわけではない。不思議な人だと揺れる後ろ髪を視線で追っていると、広々とした部屋に通された。
「わぁ」
開かれた障子の向こうに、見事な日本庭園が広がっている。目を輝かせた元子に、青年はどうぞと縁側を勧めた。導かれるまま歩いた元子は、靴脱ぎ石の上に草履があるのを見つけた。
「お好きに散策なさってください」
「ありがとうございます」
すぐにでも庭を見たいところだが、さきほど青年は「お茶の用意ができている」と言った。それをいただいてからでなければ失礼だと、元子はテーブルに視線を投げる。そこには饅頭と湯呑が置かれていた。
元子の視線に気づいた青年がほほえみ、ごゆっくりと頭を下げて去っていく。つられて頭を下げた元子は座椅子に腰かけ、湯呑を持ち上げた。
ほんのりとした温もりが、陶器から手のひらに伝わってくる。ふんわりとくゆる湯気からまるみのあるお茶の香りがした。
「おいしそう」
つぶやいて口をつける。わずかな苦味の後を、まろやかな甘さが追いかけてきた。心をほっこりほぐされた元子の口許に笑みが浮かぶ。茶請けの饅頭はコロリとしていて愛らしい。ふっくら白いそれをつまんでみると、ゴマがふたつならんでいた。
(これ……うさぎ?)
耳になる部分はないが、まっしろでまるいフォルムと並んだゴマから連想した元子は、食べるのがもったいないなとしばらく見つめ、存分ににこにこしてからかぶりついた。ふわりとした上品な甘さが舌の上に広がる。そこでお茶を含むと、わずかな苦味がアクセントとなり、餡子の甘さが際立った。
「はぁ、おいしい」
うっとりと目を閉じて空中に感想を述べる。余韻をたっぷり味わってから、ふた口目。そしてまた堪能して……と繰り返し、ゆるゆると食べ終わった元子の心身はすっかり緊張を解いていた。
「はぁー」
気の抜けたよろこびの声を出して、テーブルに突っ伏する。骨が溶けてしまった気がするくらい、気持ちの凝りがほぐされている。なんてすてきな時間なのかと、元子は舌に残る味わいを記憶に求めた。
和菓子が特に好きなわけではないが、この饅頭は特別だ。お茶のうまみも絶妙で、シンプルな組み合わせでこれほど幸福になれるとは信じられない。
(シンプルだからこそ、いいのかも)
下手にゴタゴタと飾るより、こういうもののほうが落ち着くということか。
私にピッタリだなと、元子は静かに瞼を閉じた。ひんやりとしたテーブルが頬に心地いい。できれば大の字に寝転びたいが、それはさすがにはしたない。
「はー」
気の抜けた声を出して体の力を抜く。このまま溶けてしまいたい。
(私、思っていたより疲れているのかなぁ)
がむしゃらに働いているわけではないし、残業があるといっても世に言うブラック企業のように、終電間際までかかることもない。スーパーの閉店時間には余裕で間に合うし、睡眠もたっぷりとっている。仕事の後にどこかへ出かけたいと思わないのは、疲れているからではなく行きたい場所がないだけだ。友達に誘われれば食事に行ったりもするけれど、自分から誘わないのは用事がないからで――だけど、友達は行きたい店があったり話したいことがあるから、誘ってきてくれる。
(とくに重要な用事があるとか、そういうんじゃなく連絡くれるなぁ)
たとえば野菜の切り口がなにかに見えるとか、そんなたわいないことがメッセージアプリに届く。クスリと笑って返事して、なんでもない会話をしてそれで終わり。会話のはじめはいつも相手からで、元子から送ったことはなかった。
(だって、これといった用事はないし)
かといって、これといった用事もなく連絡をしてこないでほしいとは思わない。連絡が来ればうれしいし、返事もする。だけど自分からとなると、いろいろと考えてしまうのだ。
(ここの風景とか、お饅頭おいしかったとか……次に会ったときでもいいし)
いますぐ伝えなければいけないわけではない。次に会ったときに――いつになるかはわからないけれど、こんなことがあったよと話せばいい。そういう流れにならなければならないで、言わなくてもべつにいい。どうしても言わなければいけないことではないし。
(言いたくないわけじゃないんだけど……でも)
相手の話を遮ってまで、するほどのことではない。景色はとてもきれいだし、お茶も饅頭も感動的においしくて気持ちが和んだ。それは元子にとって最高にすてきな出来事だけれど、友達はそれに興味を示すだろうか。聞きたいと思うだろうか。どうでもいいのではないか。それよりも自分の話をしたいのではないか。
(言えば聞いてくれるけど)
自分の話なんてしてもしかたないと、元子はいつも言葉を呑んで自分の中でしみじみと反芻している。きっかけがあれば話すが、そうでなければ自分のことはあまり言わない。間ができれば、なにか関連する話題になれば、相手が興味を持ちそうなことであれば――そうでなければ、しないままで終わる。
話したくないわけではない。ただ、話す前にいろいろと考えて、二の足を踏んでしまうのだ。
(なんでだろ)
あっと思った瞬間に、気軽にメッセージを送れる相手がいないわけではないのに。ちょっと考えて「まあいっか」とやめてしまう。そうして溜まっていったちょっとした話題は積もって、いざ顔を合わせて会話をするとなったときには出てこない。意識の中にはあるのだが、出すタイミングを見つけられない。
そうそうこの間ね、と軽く口にすればいいとわかっていながら、それができない。その前にやはり考えてしまう。こんな話をして、相手ははたしてたのしんでくれるのかと。
(私って、めんどくさい)
決して無口なわけではない。心の中にはたくさんの言葉が渦巻いている。けれどそれを出すタイミングを見つけられないだけだ。
「あーあ」
自分にあきれると、後輩たちの姿が閉じた瞼の裏に浮かんだ。彼女たちはいつもたのしそうだ。ちょっとしたことに大げさに反応し、すぐにスマートフォンを取り出してやりとりしている。仕事の最中でもSNSをしていた。来客中や会議中にはさすがにしていないが、そうでないときはこまめにチェックをしている。一度、元子はそれに対して渋い顔をしたことがあった。
(もしかして、あれが原因で陰口をたたかれるようになったのかなぁ)
ほかに原因は思いつかないが、そうだとすれば逆恨みではないか。それで悪口を言われるなんてと悲しくなって、逆恨みとわかっていてもへこんでしまう自分が情けなくなる。
(気にする必要なんてない)
だけど彼女たちを会社の誰も叱らない。
(与えられた仕事はきちんとしているから? 入社してまだ間もないから、学生気分が抜けていないのだろうと寛容されているから? だけどそれならよけいに、きちんと教育しておかないといけないんじゃあ)
眉をひそめて、元子は身を起こした。目の前に急須がある。手を伸ばして持ち上げると、揺れる液体の感覚があった。湯呑にそそいだお茶からは湯気が立たない。冷めてしまったお茶を口に含んで息を抜く。
(余計なお世話なのかなぁ)
そういう部分を彼女たちは「スキなさすぎで怖い」と言ったのかもしれない。
(でも、職場は仕事をする場所だから、きっちりしないといけないし)
会社で出会う人は仕事をする相手だから、礼儀正しく接さなくては失礼にあたると元子は考えている。友達ではないのだから、なあなあな雰囲気でやりとりするのはよくない。彼女たちは学校の先生にもタメ口をきいていたんだろうなと、元子は会社での光景を意識で見つめた。
(でも、誰も不快な顔をしていない)
それは大人の対応をしているからだ。だけど誰かひとりくらい、彼女たちにきちんとしたやりとりの仕方を教えてもよさそうなものなのに、どうして誰も注意をしないのか。だから不快を示した私が陰口をたたかれることになったのだと思いかけ、元子は首を振って自分の考えを否定した。
(彼女たちだけじゃない。ずっとじゃないけど、仕事中にSNSをやってる社員はほかにもいるし。だから彼女たちを叱らないのかも。仕事中であっても息抜きは必要だし、仕事はきっちりしているんだから、そういうものに過敏になってる私のほうがよくないんだ)
不満をお茶で流し込み、元子は「そうだ」と心の中でつぶやいた。自分の考えを他人に当てはめて、おなじようにしろと思うのはよくない。それで仕事に支障をきたすのなら問題だが、そうではないから誰も注意をしないのだ。すくなくとも元子の耳には、彼女たちに対する不満は届いていない。
(私が神経質になっているだけで、なんてことないことなんだ)
自分だってしてもいい。だけど必要ないからしていない。ただそれだけのこと。彼女たちにとっては必要な行為で、だから情報が得られるという場合もある。
(そう。ひょんなことから情報に当たるってこともあるし)
思ってもみなかった情報がSNSで流れてくることもある。そんな経験を元子もしていた。だから決して悪いことではない。仕事そっちのけで没頭しているわけではないし。
(そういえば営業の誰かが、仕事の息抜きでスマホゲームやってるって言ってたな)
神経質になりがちな気分を、それでほぐしているとかなんだとか。そうして気分転換しないとイライラして顔がこわばるからとかどうだとか。仕事の役に立つのなら、そういう遊びも必要だ。それだけ心の余裕があるのはいいことだし、それで仕事がはかどるのならもっといい。
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