まよいが

水戸けい

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乙若

(ううむ、これは――あやかしの屋に入ってしまったか)

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 乙若は上がり框に腰かけて、引き戸の形に切り取られた外の世界を、見るともなしになが
めていた。

 戸の向こうにあるものは、広いと思われる庭の一部と、そこからまっすぐに伸びている坂道。登ってくるものが迷わぬように、両脇をしっかりと固めている木々のたくましい幹と青々とした木の葉。それを輝かせる陽光と晴れ渡った空に、土の道をやわらかな雰囲気に整えている草花。そして姿は見えないが、庭のあたりで好き放題に歩きまわり、あるいは座っている鶏たち。

 乙若は目を細めた。道の先から誰かがやってくる気配はみじんもない。けれど腰を浮かせて立ち上がり、引き戸の脇に立って外を見つめた。

 顔は鼻先すらも戸の向こうには出さない。

 乙若はこの戸の内側――建物の裏側のほかの外には出られなかった。そういうふうに自分で決めて、そうなりたいと自分で望み、この屋敷の主に似た立場になった。

 屋敷に主として雇われていると言い換えてもいいかもしれない。

(不思議なものだ)

 クスリと鼻を鳴らして、乙若は己の来し方を胸の裡で確かめる。なんとも不思議な縁だなと口の端を持ち上げて、乙若は深く息を吸い込んで瞼を下ろした。

 耳に鶏の気配が届く。あれはもとからここにいたものではない。かといって乙若が持ち込んだものでもなかった。遠い昔――いつだったか思い出せないほど昔に、この屋を訪れた男が残していったものだった。

 なんのために残していったものなのか、乙若はもう覚えていない。けれどそれでいい。覚えていなくともいいことに、いつまでも固執することはない。

 目を開けた乙若は引き戸を手のひらでなぞった。これも、乙若がここに住まいはじめたころとは、ずいぶんと変わってしまった。それがいいとも悪いとも乙若は思わない。ただそうなることが必要だったと受け止めるだけだった。

(これもそろそろ、また新しい形に変わるのだろうか)

 ちかごろ屋を訪れる人々の様子が変化している。それに合わせて、屋もすこしずつ変質していかなければならない。

 ならない――というのは妙な表現だなと、乙若は訂正する。

 勝手にそうなっていくものなのだ。この屋――甲は。

(私の名が乙若でなくば、甲は私を住まわせようなどと考えはしなかったのだろうか)

 折に触れて幾度も考え、そしてそのたびに答えのない問いを乙若は繰り返す。

 だからどう、ということではない。

 ただ考えることに意味があった。

 すくなくとも、乙若にとっては。

 でなければ自己がどのようなものであったのか、乙若は忘れてしまう。

 乙若という名は彼の幼名だった。大人になって違う名を与えられたはずだが、それはすこしも覚えていない。必要がないから覚えていないのだと、乙若は理解している。

 乙若という呼び名も、呼ぶものがいなくなって久しいので忘れてもいいとは思うのだが、それを忘れてしまえば己がなぜ甲とともにいるのかが、わからなくなるのではとも考えている。

 そういう思考を、乙若は飽きることなくグルグルと続けては、己の存在を確かめていた。

 思考だけが乙若を乙若にとどめている要因であり、乙若が甲に住んでいる理由を示す行為だった。

(それは、正しくない……か)

 在の理由を示す行為は、思考だけではない。甲とおこなうものこそが、乙若の目的であり望みであり、甲とともにありたいと願った要因だった。

 乙若は苦笑を浮かべて首を振った。

 黒く艶やかな、首の後ろで結んでいる髪が獣の尾のように揺れる。日に焼けない肌は白くなめらかで、シミやほくろのひとつも見当たらない。指は長く手は細く、けれど男のものとわかる程度には骨ばっている。その手のひらを見つめて、かつてそこに握っていたものの感触を意識の中からたぐりよせた。それは木をまるく削り出し、糸でつなげたものだった。それをひと粒ずつ繰りながら、なにかを願い祈っていたのだと乙若は空指を動かした。

 なにをそうしていたのかは覚えていない。しかしその動きだけは身に沁みついて忘れない。

(私はなにを手にしていたのか)

 それは重要なことではないと、すぐに意識を切り替える。大切なのは、なんのためにそれを手にして、なんのために繰っていたかだ。

 乙若は指先に名残を残して引き戸から離れた。

 外に出たいと望まぬわけではないが、強いて出ようとは思えない。これは己の望んだことで、これでなければ欲しいものは手に入れられないと理解、納得している。

 興味を惹かれはするものの、引き戸の向こうに行きたいという欲求を行動にまで引き上げるほどではなかった。

 それよりも、引き戸の向こうに出てしまい、望みをかなえる手段を失うほうが惜しい。

(私は望んで内側に滞在している。――この屋が、甲が私の望みを受け入れたのだ)

 そう理解しているからこそ、乙若は鼻先すらも引き戸の向こうには出さなかった。どれほど興味を惹かれたとしても、この屋の戸から奥のみが乙若の望む世界だった。

 だから乙若は、庭先の鶏の世話をしていない。あの鶏たちは勝手気ままに庭先で過ごしているだけで、誰の世話にもなっていなかった。

 この屋のなかにいるのは、乙若のみ。

 ほかの誰も住んではいない。

 この屋は――甲は、乙若のほかに誰も住むことができない場所だった。なぜそうなのかはわからない。けれどどうやらそうらしいと、乙若は認識している。

(甲は人の望みをひとつだけ叶えるものだ)

 そして甲は屋敷そのものだった。

 目を閉じた乙若は、ゆっくりと目を開いて裏庭に立った。甲の中ならばまばたきひとつで好きな場所に移動ができる。そして望むものがいくらでも現れる。――ただし、乙若あるいは甲の中に入れた人間の知っているものであれば。

 庭を散策しながら、これもすこしずつ出来上がったものだったと、乙若はちいさな滝の落ちる池に目じりをゆるめた。

 しかし誰が望んで生まれたものかは覚えていない。しかしその相手は大切なことに気づいて、心穏やかに甲を去ったことは覚えている。

 甲を訪れ乙若と出会い、そして去っていった人々がどんな人たちであったのか。その名残はわずかに変化した甲しか覚えていなかった。

 それでいいと乙若は思う。

 そうでなければならないと考えている。

(私は、誰かひとりに気を取られてはいけないもの)

 それはつまり、それぞれを覚えていなくてもいい――記憶していてはいけないということだと、乙若は解釈している。

 触れた感情は覚えていてもいい。けれどその人物は忘れなければならない。

 はじめのころは、それは矛盾だと乙若は考えた。人物があるから感情が生まれる。その人の生きてきた世界と人格から、感情が構成される。だから、人物を理解して感情を把握しなければならない、と。

 相手を理解するためには、相手の周辺をまず知らなければならない。おなじ問題を抱えていたとしても、そこから生まれる感情は人それぞれ違ってくる。それを理解し諭すためには、それ以前の生き方や考え方を知らなければ。

(そうだ。私は僧侶であった)

 指に残る感覚がなになのかを思い出して、乙若は池の鯉に視線を落とした。ゆったりと水にたゆたう鯉の背中に、精神の広がりと落ち着きを重ねてみる。僧侶であったはずなのに、いまの乙若は肩よりも長い髪を首のうしろで縛っている。着物も僧侶のそれではない。

 どうしてそうなったのかを乙若は記憶していないが、必要があったからこうなったのだろうと受け流している。

 この屋に引き寄せられる相手は説法を求めていない。心の休息や隠された望みなどに気づくために引き寄せられる。あるいはそれを与えたい誰かの想いに呼び寄せられる。

 乙若の役目は、その手助けをすることだった。それはこの屋を来訪した誰かをもてなす行為だった。僧形では相手が妙な緊張を抱える。だから家主らしい姿に変わった。

(人のことを覚えなくなったのは、それと同時期であったな)

 水面に映る自分の影に、乙若は声なく語りかける。

(人のことを知らなければとしていた私が、どれほど愚かで傲慢であったのか。甲は教えてくれたのだ)

 胸襟を開いてもらいさえすれば、相手のことは深く広く知ることができると乙若は思っていた。御仏の導きさえあれば、人はわかりあえるものと信じていた。それが間違いだったとは、いまでも思ってはいない。ただ己が傲慢だったのだと、乙若は喉の奥で幻の苦味を味わう。己は世を正しく導ける、どのような相手であれ理解できると妄信していた。わからぬ相手が悪いのだと、悲しみの表情の奥でさげすんでいた心に気づいた瞬間の衝撃はいつでも鮮明によみがえらせる。

(おろかなのは、私であった)

 それを知り、ならばどうすれば人の悩みを救えるのかと考えながら山中をさ迷い歩いていた乙若は甲と出会った。

 乙若は甲を甲としてではなく、ただの家屋として軒先を借りた。歩き疲れていた上に霧が深くなってきたので、休ませてもらおうと考えたのだ。

 いまの世ではそういうことは難しいのだと、乙若は訪れる人々からにじみ出る世の変節で知った。

 それがいいことなのか悪いことなのか、乙若は考えない。ただ、そういう流れでそういう時代になったのだと受け止めるのみだった。

 だからこの屋はなにかの店という立場に変わり、乙若はそこで働く青年の姿になった。

 これもまた変わっていくのだと、乙若は時の流れになにもかもをゆだねている。

 必要な状況に合わせて変化していく自分を、よろこびも悲しみもせずにただ受け入れていた。

 そうなるまでには時間がかかったと、乙若はなつかしく口許をほころばせる。

 水面に映る乙若の顔が、禿頭の年老いた男に変わった。

(私はこういう顔で、この屋に……甲に出会ったのか)

 瞼がわずかに垂れ下がった痩身の老人が、愁眉でこちらを見つめている。そんな顔で誰かを救えるとでも思っていたのかと、遠い時代の己に乙若はやさしく語りかけた。

 乙若が訪れたときの甲は、手入れの行き届いた山の屋だった。誰かが隠れ住む庵という風情ではなく、ちいさな里の長者の家のようだった。

(こんなところに――?)

 人里はなれた場所にあるなど意外だと思いつつ、峠の休憩所となっているのだと勝手に解釈を添えて納得した乙若は、上がり框に腰かけて奥に声をかけた。

 返事はなく、しかし何者かがいる気配はある。耳の聞こえぬものが住んでいるのかと、乙若はふたたび声をかけた。すると足元でコトリと音がし、見ると足を濯ぐための水を張った桶が置かれていた。

「はて、面妖な」

 首をかしげた乙若の目の奥がゆれて、ふうっと息を抜けば誰かに「どうぞ」と声をかけられ用意をされた気になった。

(ううむ、これは――あやかしの屋に入ってしまったか)

 常人ならばいまのめまいで納得をさせられたのだろうが、乙若は修行を積んできたゆえに違和感を残したままでいられたらしい。

(だが、敵意があるわけではない)

 あやかしのすべてが悪いわけではないと、乙若は不思議に触れて高まる動悸をなだめた。

 こういうときこそ御仏にお仕えしてきた平常心が役に立つのだと、乙若は草鞋を解いた。
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