頭がいいのか悪いのか

水戸けい

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(そうまでして、尻に触りてぇのか……)

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 窓から差し込む軽い光が、瞼を通って眠りに包まれている脳を刺激する。

「うーん」

 うなりつつ目を開けた恭平は、喉の奥まで見えるくらいの大あくびをして体を起こした。まだ半分閉じたままの目でぼんやりと寝床を見つめ、しばらくそのままユラユラしてから立ち上がる。部屋の時計は昼すこし前を指していた。

 目を覚ますためにザッと顔を洗い、冷蔵庫に向かって牛乳をラッパ飲み。ふうっと息を吐いてからシャワーを浴びて、トーストとコーヒーを食べながらテレビをながめる。

 そのまま三時過ぎまでぼんやりとすごし、警備の制服をカバンに詰めて家を出た。

 ゆらゆらと、空いている電車に揺られながら昨夜の会話を思い出す。

(女性専用車両かぁ)

 隣の車両にチラリと目を向け、女ばかりの車両の隣は、男専用車両みたいだよなぁと周囲を見回す。空いている車両をながめていると、女性専用車両なんてなくてもいいんじゃないかと思うが、チカン問題などを考えると必要なのかもなぁとも思う。

(そういうもんを研究してるってこたぁ、あの兄ちゃんもなんかイヤな目に遭ったことでもあんのか?)

 すらりとした長身と、おだやかな丸顔の中におさまる柔和な目鼻立ち。マッシュショートの明るいクセ毛を思い出して、どちらかというと女に追いかけまわされて、迷惑をする側の人間だよなと考えた。

(俺みてぇな、オッサンの見本みたいな男なら別だけどよ)

 誠にならチカンをされてよろこぶ女がいるんじゃないかと、窓の外に流れる景色を視界に映し、考えるともなしに考えていると目的の駅に到着した。

「おはようございまーす」

 間延びしたあいさつを警備員室にかけてセキュリティキーを受け取り、控室に入って自分とおなじシフトの先輩警備員に「おはようございます」と言いつつロッカーを開けた。

「あ、そうだ。新山さん」

「あん?」

 いかにも頑固者ですと全身から漂わせる還暦過ぎの新山が、タバコの煙越しに恭平を見る。

「女性専用車両って、どう思います?」

「なんだよ、藪から棒に」

「いや、昨日いつものとこで飲んでたんですよ。そしたら大学生と、女性専用車両がどうのこうのって話になって」

「どうのこうのって……よくわかんねぇな。ううん、まあ……嫁さんとか娘なんかは、よろこんでるなぁ」

「へえ? なんで」

「俺たちオッサンは、くさいんだとよ」

「はっはっは」

 豪快に笑い合って、恭平は新山の向かいに座った。

「まあでも、女からしたら、そうかもしれませんねぇ」

「だが、こっちにとっちゃあ女だって、おしろいだのなんだので化粧くさいじゃねぇか」

「それはまた、男のアレとは違うでしょう」


「まあ、そうだけどなぁ。花の香りだなんだのと、いろんな匂いがムンムンまじってみろ。いくらいい匂いでも、むせちまわぁ」

「違いない」

 クックッと肩を震わせていると、新山に「コーヒー飲むか」と声をかけられ「いただきます」と答えつつ、タバコを取り出す。勤務前のコーヒーとタバコは、ふたりの習慣だった。

「まあでも、娘のことを考えりゃあ、もうちぃっとはやくアレがあったらよかったとも思うわな」

「へえ? また、なんで」

「そりゃあ、年頃の娘がチカンに遭うかもしんねぇって思うのと、チカンに遭わねぇでいられるってのとは、ぜんっぜん違うだろ。――いまは、チカンでもなんでもいいから、適当な相手を見つけて片付いてくれねぇかと思ってんだけどな」

「適当って、またまた」

 新山が携帯の待ち受け画面を娘にしていることを、恭平は知っている。

「そっちだって、そうだろう? 別れた嫁さんとの間に、娘がいなかったか」

「はあ……たしか、大学生です」

「なんだ、ずいぶん頼りないな。その年頃の娘なら、チカンに遭わないでいられる車両があるほうが、安心だろう」

「まあ、確かに」

「そして俺らもチカンと間違われなくっていいってぇことで、まあ、大きく見りゃあ、いいことなんじゃねぇか?」

 ふむとうなずき、ふたりは「そろそろ時間だ」と腰を上げて、勤務に就いた。

 * * *

 午前五時に引き継ぎを終えて、しばらく休憩室で新山と会話をしながらコーヒーとタバコを楽しみ、着替えを済ませて駅へと向かう。そろそろ通勤ラッシュがはじまろうという時間のホームは、そこそこの人で埋まっていた。空くまでどこか近くの喫茶店で時間を潰そうと思っても、どこもモーニングの客であわただしい。それなら本格的なラッシュになる前の電車に乗って、家に戻ったほうがいい。

 くたびれた顔の恭平はホームに入ってきた電車に、人波に流される形で乗り込んだ。押しつぶされるほどではないが、誰かとどこかが接している程度には混雑している。

 うつらうつらとしながら吊り革に掴まっていた恭平は、モゾリと下半身のあたりをさぐられた。どうせ誰かのカバンが尻に当たったんだろうと無視していると、あきらかにカバンとは違ったものが尻に触れている。意志を持って動くそれは、恭平の尻を掴んだりさすったりしてきた。

(なんでぇ、こりゃあ)

 眠気が覚める。かといって、恐怖心にかられたからではなく、これまた酔狂なヤツがいたもんだという呆れだった。

(朝まで呑んでた、どっかのバカだろ)

 そう受け止めた恭平は、これといった不快感も覚えずに最寄り駅まで好きに尻を撫でさせていた。

 しかし、その日だけだと思っていた尻撫でに、翌日も、その翌々日も遭遇した。

(なんなんだよ、いったい)

 尻を触られるくらいなんともないが、連続すると気になる。周囲を見回し相手を探してやりたいが、キョロキョロして妙なヤツだと思われるのも癪だし、捕まえてチカンだと訴える気にもなれない。

(俺がチカンされてますって訴えたって、信じてもらえなさそうだしなぁ)

 尻に当たっている手はモゾモゾと動き続けている。恭平が抵抗をしないと見て、日に日に大胆になっていた。はじめは尻をちょっと撫でる程度だったものが、しっかりと掴んで揉んだりさすったりしはじめ、今日はそれに追加して、尻の谷に指を押しつけ撫で上げられた。

「っ!」

 ゾクゾクッと甘い痺れが背骨を走る。ここのところ、色っぽいものとは無縁だった恭平には刺激が強かった。尾てい骨あたりを指で探られるごとに甘いものが体に広がり、恭平は吊り革を握る手に力を込めた。

(やべぇ……肝心どころが固くなっちまう)

 電車の揺れに合わせて体をずらしてみたが、手はしっかりと恭平の尻を追ってくる。

(うぇえ、なんなんだよ)

 尻をまさぐられて気持ちよくなるなんて、電車内でのチカン体験とともに未経験すぎて混乱してきた。

(と、とにかくはやく最寄り駅に)

 全身に緊張を漲らせて耐えた恭平は、最寄り駅に到着するや否や、人をかき分けホームに飛び出し、そのままセカセカと家へ急いだ。

(なんなんだよ、いったい!)

 腹立たしさよりも、とまどいが恭平の心を大きく支配していた。

 翌日、ためしに電車を一本ずらしてみても、尻に手が伸びてきた。

(きもちわりぃな)

 いくらなんでも女に見間違われるはずがない。だとしたら、男とわかって触っていることになる。女性専用車両の隣の、男ばかり詰まっている車両で男の尻を揉んでいるということはつまり、チカンされているとは言われないと予測しての行為ではないか。

(女のケツを触りてぇが、犯罪者にはなりたくねぇ。そこで肉づきのいい俺の尻を女の尻に見立てて、妄想にふけってるってところか?)

 触り心地だけを味わい目を閉じて、理想の女の姿を想像しているのかもしれない。

 そう思うと、犯人がひどくかわいそうに思えてきた。

(そうまでして、尻に触りてぇのか……)

 おなじ男として、同情を禁じ得ない。よっぽどの女日照りで、ねじくれてしまったのだろう。

(気持ちわりぃが……そういうことなら、ちょっとの時間だしガマンしてやってもいいか)

 減るもんでもないしなと仏心を出した恭平だったが、すぐさま己の慈悲を後悔することになった。

「……っ」

 尻にあった手が、あろうことか前に伸ばされ、明らかに男とわかる部分に触れたのだ。

(おいおいおいおい)

 冗談だろうと頬をひきつらせる恭平の気持ちをよそに、指は恭平の股間をまさぐり刺激してくる。

(ううっ)

 逃れようにも逃れられず、恭平はモジモジした。自分以外の手に刺激される下肢は、欲望に素直な反応をしめしてしまう。だんだん大きく硬くなっていく部分をどうにもできずに、恭平はピッタリと太ももを合わせて最寄り駅にはやく着けと祈るしかなかった。

「っ、ん」

 握りこまれて短くうめいた恭平は、このままでは本気でヤバイと青ざめる。

(電車ん中でパンツを汚すなんざ、カッコ悪すぎるだろ)

 指はもどかしくなるほど緩慢な動きで股間をなぞり、時折ギュッと握ってくる。その絶妙な具合に、恭平の息はだんだんと荒くなってきた。

 奥歯を噛みしめ扉をにらみ、脚に力を込めて快楽に耐えていると、停車のアナウンスが車内に響いた。

(くそっ)

 最寄り駅ではないが、このままでは耐えられない。駅に到着するや否や、恭平はホームへ飛び出しトイレの個室に駆け込んだ。

「っ、はぁ……なんなんだよ」

 見下ろせば、はっきりとズボンが膨らんでいた。

「あーあー」

 元気な自分に呆れつつ苦笑を浮かべ、洋式便器に腰かける。

「ったく。俺が抵抗しねぇのをいいことに、ナメてやがんな」

 姿を知らぬチカンの影をにらみ据え、恭平はニヤリと唇をゆがめた。どういう意図で、男の
ナニまで触ろうと思ったのかはわからないが、無抵抗の自分に対して調子づいているというのなら挑戦を受けてやると、妙な対抗心がムラムラと湧いてきた。

「どうせ電車でイカせるなんて度胸はねぇだろう。次は最寄り駅までガマンしてみせてやらぁ」

 自分の指に耐えられ続ける屈辱ってものを味わわせてやろうと、恭平は燃やさなくてもいい闘志を燃やしてこぶしを握った。
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