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【苦悩】

6.

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 はは、と軽い声を立てた男が一礼をして背を向ける。ホスセリは老いた男の進む先にいる、子どもの姿に目を止めた。子どもの手足は土で汚れ、顔にも泥がついている。畑のかたわらには、雑草の小山があった。ホスセリたちが戦におもむいてから、手つかずになっていた畑をもとに戻そうとしているのだろう。

(しかし、いまからでは遅すぎる)

 種植えの時期は、とうに過ぎている。植える種も残っていないのではないか。

 民は誰も飢えてはいなかったが、畑の様子からして豊かな実りに支えられていたとは思えない。重労働を担っていた男手が失せてからの畑仕事は、どれほど大変だったろう。

(帰ってはこられなかった者もいる)

 帰ってこられはしたが、以前のように働けなくなってしまった負傷者もすくなくない。衰えた国力を戻すのは、並大抵の意志ではかなわないだろう。

(我は王にふさわしいのだろうか)

 ホスセリは国を囲む山並みに目を向けた。その先には都がある。戦に勝利したホノツオジ皇子は大君として、傷ついた大地と民を導いていかなければならない。一国の王であるホスセリよりもずっと、その重圧はすさまじい。

(あの方ならば、成し遂げるはずだ)

 次代の大君の座を賭けた戦の最中でも、ホノツオジ皇子は穏やかな空気を崩さなかった。戦場では厳しい鋭さと威厳を発して皆をまとめていたが、休息の時は朗らかな顔をして身分の隔てなくねぎらい、傷ついた者への看護も進んでおこなってくれた。民の視線を有しながらも、統治者としての意識を持っていた彼ならば、すばらしい大地にしてくれるに違いない。

(我は、あの方のようになれるだろうか)

 ホスセリは己の体を思い、眉をひそめた。

「ホスセリ様?」

 従者が、いぶかりの声を出す。

「いや。……このままでは、冬の間に食に苦しむことになる。いまから対策を練らなければな」

 自分のことではなく、民の暮らしの先を見越して憂いていたのだとごまかした己に、ホスセリは嫌悪を持った。

(我は矮小な人間だ)

 そんな気持ちをおくびにも出さずにごまかしてのける自分に、つくづく嫌気が差す。しかしそれを止めるわけにはいかない。己に潔白でいるためには、王座を放棄するほかに道はなかった。

「山や野原が豊かなうちに、冬の備えをしておかなければなりませんな」

 食糧事情を理解している従者が、重々しくうなずいた。

「だが、取りつくさぬよう注意をしなければならない。大地に生かされていることを忘れれば、人はあっという間に滅びてしまう」

 そのとおりだとうなずいた従者が、ほこらしげな視線をホスセリに向ける。

「どうした」

「あなた様が王となられてよかったと、しみじみと感じていたのです」
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