遊牧少女は世界に挑戦する

和スレ 亜依

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第七話 エトス

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「お姉ちゃんすごーい!」
 ミンがアールで仕留めた小動物を見て、女の子が歓声を上げた。
 ミンは女の子の頭を撫でて、微笑む。
(ユクにくくったままで良かった)
 買った物をアドに押しつけて、そのまま勢いで出てきてしまったため、手持ちの食料が何もない。しかし、ユクに括ったままだった狩猟道具があったので狩りをすることにしたのだ。
 そして、その腕を見たらアドも驚いただろう。さすが、草原の民随一のアールの使い手であるラザックの娘といったところか。
「ちょっと解体してくるから待っててね、ルン」
 ルンとは女の子の名前だ。年齢は五歳。銀色のすすけた髪が長く伸びている。
「うん!」
 最初にルンを見たときは生気のない顔をしていたが、それもすぐに笑顔に変わった。子供とは現金なものだ。そう思うミンだったが、今は彼女の屈託のない笑みが、この状況でも何とかなるだろうという気持ちにさせてくれる。
(とりあえず、ケインの言っていた街を目指さなきゃ)
 今のミンにはそれしか頼る道がない。


「しかし、ミンもいつの間にかあんなにお転婆てんばになってたとはなぁ」
 イクシャが面白そうにそう言った。
「笑ってる場合じゃ、ない」
 アドが真面目な表情で言う。あのあと、彼らは一度宿に戻って、荷物をまとめた。しかし、ミンの件で警備が厳重になって身動きがとれない。顔を見られている可能性があるからだ。
「笑ってる場合じゃなきゃどうするんだい?」
「ミンを、追う」
「『ミンを追う』ねぇ」
「何?」
 イクシャがスッと目を細める。
「何でだい? 君はそういうんじゃないだろう」
 アドには彼が何のことを言っているのか分からない。
「いいだろう。あくまでとぼける気なら、全部話してしまうから」
 アドは一瞬、自分がこの星の生まれでないことを悟られたのではないかと身構えたが、そんな訳はないと思い直した。
「君は、距離を置いているだろう」
 だが、イクシャの言葉は隠している事実よりも的を得ていた。
「君は義理を通す。感謝もすれば、接してきた人々を無下に扱うこともない。だから、はたから見れば真面目で友好的に見える」
「そんなこと、関係ない」
「関係なくなんかないさ」
 イクシャは構わず続ける。
「だけど、君の本心は違う。本当の意味で相手に気持ちを寄せてなどいない。生きるために必要だからやる。そうだろう? 君はそういう人間だ」
 アドは押し黙った。イクシャの言葉は正確過ぎて寒気を覚えた。
「だから、君に彼女を必死に追う必要はない。彼女のことを心配しているフリをすればいいだけなんだ」
(イクシャの言うことは当たっている。自分はそういう人間だ。今も、いつかこの星の人間たちとは別れることになると、だからそれまでの付き合いだと思っている)
「だから、ゆっくり・・・・追おう。その結果ミンがいなくなっても、義理は通したことになるからね」
(そうだ、それが自分のやり方だ。…………でも)
 カルタで、旅の途中で、アドは多くの人間を見てきた。多くの思いを見てきた。そして、ミンの生きる様を、一番近くで見てきた。
 彼女はいろんな表情を見せた。笑い、泣き、哀しみ、怒った。彼女は懸命に生きていた。たとえ、理不尽な罵声を浴びせられても、生きることを選択した。アドにも分かっていた。
(生まれた星なんて、関係ない)
「でも、今は、ミンを、助けたい」
 場に、沈黙が訪れる。イクシャは、アドを値踏みするように見る。
 やがて。
「あははははは!」
 笑った。
「何で、笑う」
「だって、面白いじゃないか! 彼女は、ミンは! 人の、根底にある心さえも変えてしまうんだから!」
 アドはしかめっ面をする。
「ああ、勘違いしないでくれ。それは紛れもない君の意思だ。たとえ、どんな経路を辿ったって君の気持ちに変わりはない」
 そこで、アドは気づいた。
(前に、ミンのことを話したのもイクシャだった)
 どうやら、自分は一杯食わされていたようだ。 
(原住民め……)
 いったいどこまで分かってやっているのだろうか。もしかしたら、弄ばれていたのは自分だけではないのかもしれない。そう思うアドだった。
「まったく、イクシャは心が汚い」
 それまで黙っていたウイカがため息をついた。
「君はどうするんだい? ウイカ?」
「決まってる」
「うん。分かった。じゃあ行こうか、ミンを助けに」
 彼らは、ミンを追うことを選択した。若干遠回りはしたが、彼女を救いたいという願いを持って。


 カルン共和国の東にはエトスという街がある。領土を治めるのはクーデニアだ。
 エトスは森林地帯の南端にあり、いくつかの面白い特徴を兼ね備えている。
「木のおうちがいっぱーい」
 ルンが言うとおり、カルンとは街の作りが全く異なっていた。街は木の柵で囲われ、家屋は木造。近くには大きな川も流れている。また、道行く人々は皆、ケインと同じ金の髪と金の瞳を持っていた。
「あっちの大きなたてものは何かなー?」
「こら、あんまり顔を外に出さないで」
 ルンはミンの羽織る外套の中に身を隠していた。ルンにはフード付きの外套がないため、こうするほかなかった。時折、周囲からも視線を感じる。こんなんで検問所を通れるかと心配だったのだが、例のブローチを見せ、ケインの名を出したら衛兵がビシッと敬礼してあっさり通してくれた。
「ごめんなさーい」
 ルンが素直に外套の中に戻る。とはいえ、実はミンも少し興奮していた。木を使った家など聞いたことがなかった。見ていると無性に走り回りたくなるのはなぜだろうか。
 だが、この状況でうかつな行動をする訳にはいかない、と気を引き締めた。
(ケインさんは『風見のイリス亭』って言ってたけど)
 何しろ行く場所行く場所が初めての所ばかりだ。簡単には見つからない。
(こんなことなら衛兵さんに聞いておけばよかった)
 今さらながら後悔するミン。
(しょうがない、聞いてみようかな)
 ミンは近くにいた男性に声をかけてみることにした。
「あのー、ちょっといいですか?」
「おや、旅人かね? なんだい?」
「はい、初めて来た所で場所が分からなくて……『風見のイリス亭』っていう宿を探してるんですけど」
「ああ、イリスの。それならあの大きいのがそうだよ」
 男性が指さしたのは先ほどルンが「大きなたてもの」と評したものだった。
「でも……」
 男性はミンを眺めた。
「あの……何か?」
「あそこは高いよ。手持ちはあるのかな?」
 怪しまれたかと身構えたが、そうではないらしい。
「ええ、ちょっと知り合いにつてがあるので。教えてくれてありがとうございます」
「ふむ。じゃあ、何もない街だけどゆっくりしていきなさい。まあ、木だけはあるけどね」
 男性はそう笑って去っていった。

「わぁ……」
 風見のイリス亭に入るとルンはそう声をもらし、ミンも目を見開いた。
 石やレンガの建物と違って、落ち着いた柔らかな印象を感じた。木の枠に吊された灯りも暖かな雰囲気を醸し出している。
「お客様、ご宿泊でしょうか……?」
 綺麗な身なりの若い男性が声をかけてきた。しかし、その声は疑いの色が濃かった。
「あ、はい。えっと……」
 ミンは懐からブローチを取り出して見せた。
「これは……この国の紋章ですか?」
 しかし、男性は戸惑いの表情で疑問を口にした。ミンも困ってしまった。
「ケイン……様にここを紹介されたんですけど……」
「ケイン様……ですか?」
(どうしよう、話が通じないみたい)
 ミンも困ってしまって、お互い無言のまま膠着こうちゃく状態になってしまった。
 と、そのとき。
「その紋章……ケインの知り合いかい?」
 三十歳くらいの女性がカウンターの奥から声をかけてきた。
(綺麗な人……)
 艶やか、という言葉がしっくりくるような美しい女性だった。
「はい、あの、ケイン……様にここを紹介されて……」
 女性に見とれるのと同時に、ミンは少し面食らっていた。というのも、ケインのことを知っていた衛兵たちは見事な敬礼をした。つまり、ケインはそれなりの立場にいることになる。ミンもそれにならって様付けで呼ぶようにしたのだが、この女性は彼を呼び捨てにしている。
 ミンの戸惑いを察したのか、女性は笑う。
「あれとは腐れ縁でね。とても敬称で呼ぶ気なんておきないよ。それより悪かったね。そこの若いのは田舎出身で仕事を始めたばかりなんだ」
 若い男性は申し訳なさそうにお辞儀をした。
「この子は私が案内するよ、他行っとれ」
 男性はもう一度頭を下げて去っていった。女性は彼を見送ると自己紹介をした。
「私の名前はイリス。ここの女主人をやってる。お前さんは?」
「ミンと言います。この子はルン」
 ミンは外套の下から少しだけルンの姿を覗かせた。
「おや、小さなお客さんだね」
 イリスと名乗った女性は眉を上げた。
「それにしてもケインはまた若い女を連れ込んだもんだね。あれはそんな趣味も持っていたのかい」
 呆れて言うイリスにミンが慌てて否定した。
「い、いえ……私は……」
「冗談だよ」
 イリスはそう言って笑った。
「それより、二人共、せっかく知り合えたんだ。顔を見せておくれ」
 ミンは一瞬ためらったものの、顔を見せることにした。なぜだか、この女性になら見せてもいい気がしたのだ。
「二人共、綺麗な目をしているじゃないか」
 イリスは目を細めた。
「少し小さい部屋だけど、案内するよ。ゆっくり休んでおいき」

 イリスは小さい部屋だと言ったけれど、二人には十分過ぎる部屋だった。調度品も上品なものが置かれている。運ばれてきた夕食も見慣れないものばかりだったが、山菜や動物の肉など、たくさんのものが並べられた。あんなに豪華な食事をしたのは初めてだった。
「すぴー……すぴー……」
 ルンは旅の疲れと満腹からか、食事の後、すぐに寝てしまった。ミンはそれから、なんとなく窓近くのイスに座り、外を眺めている。
(いい人だったな)
 イリスはミンとルンを見て、真っ先に瞳をめた。二人の事情を察して、おもんばかってくれたのだろう。
(母さんに、似てたな)
 芯が強そうなのに、優しい。イリスはどことなく、母親のルーアに似ていた。
「……?」
 そこで、ミンは遠くの建物に灯りがついたのを見た。しばらくすると、また他の建物にポツ、ポツと灯りが灯っていく。
「綺麗……」
 いつの間にか、目に見える全ての建物に灯りが灯っていた。木造の建物と、その灯りが作る、その暖かな光景にミンは見とれた。
 心が満たされていく。
 だけど、それと同時に痛みを感じた。
「母さん、元気かな」
 ミンはポツリとつぶやく。
「父さん……」
 その先の言葉は、出てこなかった。


 次の日、ミンとルンは街を出て行こうとした。一日だけだが、とても良くしてもらったので、ケインから受け取った金貨を差し出しすと、イリスはそれを拒否した。
「宿代なんていらないよ。それに、もう少し泊まっていったらどうだい? なんなら、何日でもいてくれて構わないよ」
 何日もというのは気が引けたので、もう少しだけ、とイリスの善意に甘えることにした。正直、この街を気に入っていたのだ。
「街を見学に行くならフード付きのローブを二つ用意するから待ってな」
 自分の分はあるからルンの分だけ貸してほしい、と言うとイリスは苦笑した。
「その外套かい? それじゃあ、ちょっと目立っちまうよ」
 確かに、多少みすぼらしかったかもしれない。少し、恥ずかしくなった。しばらくして、イリスは二つの上品な暗褐色のローブが手渡すと同時に、忠告した。
「それと、金貨なんて簡単に出すんじゃないよ。あれが渡したんだろうけど、そんなもん見せたら格好のカモさ。ローブのポケットに銅貨と銀貨を少し入れといたからそれを使っとくれ」
 さすがに金銭は受け取れないと言うと、イリスは笑った。
「金ならケインからたんまりもらってるから遠慮をする必要はないさ。それと、どうせあとから高いものふっかけられるから気をつけとくんだよ」
 ミンは言葉の意味がよく分からなかったが、とりあえず頷いておいた。

「うわーすごーい」
 エトスの街は少し高低差のある場所に多くの木造の家々が建てられていた。先ほどから、建物を見る度にルンは感嘆の声を上げている。
「もくもくー!」
(もくもく?)
「もくもくって?」
「もくもくー!」
 もう一回謎の言葉を発しながら指さすルン。ミンはその方向を追ってみた。
「!」
 ドキリとした。
(煙……火事だ!)
 ミンは急いで皆に知らせなければいけないと思い、周囲をうかがった。
(みんな、気づいてない!)
 あれだけ煙が上がっているのに、道行く人は気づく様子がない。ミンは意を決して、近くの男性に声をかけた。
「あの!」
 突然声をかけられた男性は驚いていた。
「火事です! 早くみんなを避難させてください!」
 事の内容とミンの剣幕で、男性は一気に緊張した。
「そうか! 火事はどこだ!?」
「あそこです! あの、煙が上がってる所!」
 男性はすぐにそちらを向き、
「…………」
 押し黙った。
「どうしたんですか!? 早くみんなに知らせないと!」
 男性はミンの肩に手を置く。その手は小刻みに震えている。
 そして。
「く……」
「く?」
「くはははははははははっ!」
 突然大笑いを始めた。ミンは呆気にとられていたが、すぐに立ち直った。
「何で笑ってるんですか!? 火事ですよ!」
 男性はひとしきり笑ったあと、ミンの肩をポンポンと叩いた。
「良いジョークだった。今年一番笑ったよ。ありがとう」
 そう言って去っていく男性。ミンは呆然として彼を見送ったあと、煙の発生源をもう一度見た。
「火が……出ていない?」
 未だに煙は上がっていたが、火は見えず、煙の色も真っ白だった。周囲の人も全く気にとめていない。もしかしたら、自分の知らない何かなのかもしれない。そう思い直し、あとでイリスに聞いてみようと思うミンであった。

「あっはははははははははは!」
 イリスは大爆笑だった。
「ご、ごめんね……でも……あはははははははは!」
 さすがの、ミンも少しむくれた。
 イリスの笑いが収まるのを待って、聞く。
「それで、あれは何なんですか?」
 イリスは呼吸を落ち着かせてから答えた。
「あれは、銭湯だよ」
「せんとう?」
「ああ、湯を浴びる所だ」
「湯を?」
「その感じだと水浴びしかしたことないのかい? ここではね、湯を浴びて体を綺麗にするのさ」
 今いち、イメージの湧かないミン。
「そうだ、昨日は貸し切りだったから使わせてやれなかったけど、今日は空いてるから一緒に入ろうか」
「せんとう、にですか?」
「いや、ここにも風呂はあるんだよ。忙しくなる前に使っちまおう」

 人前で肌をさらすことには多少抵抗があったが、風呂とはそういうものらしい。
 扉を開けると、むわっとした熱気が広がった。
「まずは、そこの桶で湯をすくって体を洗おうか。石けんがあるから使うといいよ」
 イリスはそういうと、ルンにお湯をざっとかけて、石けんと呼ばれるものを泡立てて体にこすりつけていった。
「だいぶ汚れているね。これは洗いがいがありそうだ」
 ミンも見よう見まねで体を洗ってみる。
(ぬるっとしてる……)
 石けんの感触は少し複雑だったが、湯で洗い流すと何ともすがすがしい気分になった。
「じゃあ、そろそろ湯船につかるかい」
 ミンはおそるそるお湯に足をつける。
「熱っ!」
 想像していたより湯の温度は高めだった。
「湯をかけながらゆっくり入ればいいさ」
 ミンは足から順に、徐々に体を入れていく。
 やっと全身が湯に入ると、
「ふぅ~」
 なぜがそんな声が出た。全身から力が抜けていく。
(これは……)
 これはまずい、直感でそう思った。体の芯までジュワァと広がる熱に、意識が持っていかれそうだ。
 ダメ人間になりそうだ。
「どうだい? 初めての湯は」
「もうこれなしでは生きていけなくなりそうです」
「ははは、気に入ってくれて良かったよ」
 イリスは笑うと、少し真面目な顔をして言った。
「その目は西方のものみたいだけど、この子と違って髪は茶色だね。どこの出身なんだい?」
「私は、草原の生まれなんです」
(何でだろう、お湯に浸かっていると、言いにくいことでも話せてしまう)
「そうか、ワンドルクの」
「はい」
「血が混ざっているのかい?」
「いえ、私の両親は二人共草原の民です。私もよく分からないんですけど、突然変異か先祖返りじゃないかって旅の人が言ってました」
「そうかい。それは、辛かったね」
 心がほどけていく。そんな気がした。
「もし、良かったら……ここで働いて暮らしていくかい? 私は大歓迎だよ」
 ミンは目を伏せて考えた。
 目に浮かぶのは、ルンやイリスとここで笑って過ごす未来。それと、両親や仲間たちとの過去。
 今、自分にはイリスの問いに答えられる気がしなかった。
「まあ、今すぐに答えを出せなんて言わない。しばらく考えるといいさ。……おっと、ルンが寝てしまいそうだ。のぼせる前に出るかね」


 翌日は雨だった。
 イリスが言うには、この辺は雨が多いらしい。雨なので、外に出ることもできない。しかし、何もせずにぼーっとしているのも気が引けるので、何か手伝うことはないかと聞いてみた。
「そうだねぇ、ミンは料理はできるかい?」
「簡単なものしかできないですけど」
「それでいいさ、じゃあ夕飯の仕込みを手伝ってもらうよ」
 そんなこんなで厨房の手伝いをすることになったミンだったが、料理長に「地元の料理を教えてくれないか」と言われて作ることができたのは動物の乳を使ったスープくらいだった。それでも、料理長は喜んでくれて「夕飯に出してみるよ」と言ってくれた。
 反対に、ミンは野菜の肉巻きや、穀類の卵とじなど、色々な料理を教えてもらった。
 お手伝い、もとい楽しいお料理教室が終わると、ミンは部屋に戻る途中に、ラウンジの横を通った。
「ワンドルクはどうだった?」
 宿泊客のその声にピタリと足を止めた。
「頑張って抵抗しているみたいだが、時間の問題だな」
「といっても、ワンドルクは広いだろ? どのくらいもつ?」
「長くて二年ってところだな」
「じゃあ二年後にはこの国も戦場になるかもしれないってことか?」
「だろうな。でも、クーデニアが負ける訳ないと思うがな」
「だな」
「それよりこの前言ってたやつなんだけどな――」
 宿泊客の話題は別に移っていく。
 ミンは暗い顔で足早に部屋へと戻っていった。
 料理教室での高揚感は、すでになかった。


「すみません、イリスさん。やっぱり、出ていきます」
 ミンがそう申し出たのは二日後の朝。
「決意は……固いのかい?」
「はい」
 明確な理由があった訳ではない。ただ、強いて言えば、草原の匂い・・・・・が届くこの場所では、過去を考えずに生きていくことはできない。そういった後ろ向きな気持ちがミンを動かしたのだ。
「それで、一つお願いがあるのですが」
「なんだい? 私にできることなら何でも聞くよ」
「ルンを預かってはくれないでしょうか」
「ルンを?」
「はい。この先の旅が、安全である確証はありません。これを」
 金貨が入った袋を渡すミン。
「これで、養えってことかい?」
「我がままを言っていることは承知です。でも、あの子のことを考えるなら、これが最善だと思うんです」
「黙って行くつもりかい?」
 みんは苦笑いを浮かべる。
「きっと、あの子はぐずりますから」
 イリスはため息をついた。
「それを分かってるなら、ひどい子だねぇ。辛い仕事を私に押しつけていくんだから」
「……すみません。でも、あの子はイリスさんのことを母親のようにしたっていますから」
「分かった。もう何も言わないよ。ルンのことは任せな。それと、出るときには声をかけておくれ」
「はい、分かりました」

 四半刻後、身支度を終えたミンは、イリスに声をかけた。
「それでは行きますので。これをお返しします」
 借りていたローブを差し出す。
「いや、それは餞別だ。もらってくれ」
「え、でも」
「もらってくれと言ったんだ。私のお願いも聞いておくれよ」
 ミンは頭を下げた。
「ありがとうございます」
「それと、ちょっと待ってておくれ」
 そう言って奥へ引っ込んだイリスが戻ってきたとき、彼女の手にはいくつかの物が抱えられていた。
「この袋には銀貨と銅貨が少し入っている。こっちの袋は少ないけど食料だ。それから、これはケインが昔『もういらない』って言って置いてった短剣だ。護身用に持ってお行き」
「あの、こんなにもらってしまったら……」
 戸惑うミンにイリスは先ほどと同じことをもう一度言った。
「言っただろう? 私のお願いも聞いてくれって」
 果たしてこれはお願いの範疇はんちゅうなのかと思うミン。
「いいから、受け取っておくれ」
 イリスの押しに負けたミンは彼女の手から品々を受け取る。
「ありがとうございます」
「気をつけてお行きよ」
「はい」
「それから」
 まだ何かあるのだろうかと身構えたミンだったが、イリスから渡されたのは物品ではなかった。
「ミン、あんたはルンが私を母親のように思っているって言ってたけど、私はあんたのことも娘だと思ってるよ。何かあったら、帰っておいで」
 それは、見送りの言葉だった。ミンは、涙をこらえて、深々とお辞儀をした。

 ミンを見送るイリスは思った。
 自分に子供ができていたら、あんな風に成長していただろうかと。
 強く生きて欲しい。
 ケインとの間に授かることができなかった、自分の子供の分も。
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