絵を描くキカイ

和スレ 亜依

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前日譚③

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 夏になり、お盆を過ぎ、夏が終わり、秋になり。
(料理する気、起きないな……)
 休日にフラフラとスウェットでコンビニを目指した亜子は、見つかりたくない相手に見つかってしまった。彼女は偶然の恐ろしさを呪う。
「あれ、亜子?」
 無駄と分かりつつ服で顔を隠した。
「良かった、生きてたんだ」
 彼女は亜子と同い年の塾生、加藤由梨だ。今の亜子に親友はいないが、唯一、それなりに会話ができる人物だった。
「スマフォに連絡しても返事ないし、心配したんだよ」
「……」
「ああ、それと関係あるか分からないけど、佐々木さん塾来てるよ。ちょうど、亜子が休み始めたのと入れ替わりかな」
(そっか。先輩、来てるんだ)
「良かった……」
 安堵のつぶやきをもらすと、由梨が顔を寄せてきた。
「全然、良かったって顔じゃないね」
 亜子は顔を背ける。
「……」
「……」
「……」
「うん、今から帰るところだし、私の部屋行こっか」
「え」
「逃がさないからね!」
 拒否をする間もなく、彼女は亜子を拉致した。
(この人、こんなに強引な人だっけ……?)


「汚いでしょ?」
 由梨は部屋に入るなりそう言った。広げられた新聞紙に散らばった絵の具、立てっぱなしのキャンバス。所々、絵の具が床に色を残していた。
 亜子は意外に思った。いつも皆に歩調を合わせて、波風立てずに接する。それでいて暗くなりすぎずに笑顔を振りまく。そんな世渡り上手な彼女の部屋が、こんなに乱雑だとは思わなかった。
「私ね、人付き合いって苦手なの」
 亜子は続いたその言葉で目を見開いた。
「全然そんな風に見えないけど……」
「ありがとう。そう見えてるなら上手くやれてるんだと思う」
 由梨はそこで目を閉じた。
「目立ち過ぎず、でも浮かないようにして。話題に乗り遅れないように気をつけて。辛い時でも笑顔で……本当はそんなこと疲れるし嫌なんだけど。でも、生きていくにはそうするしかないの」
「……」
「でも、譲れないものだってある」
 由梨は目を開ける。
「ここが私の譲れない場所」
 亜子は部屋をもう一度見渡す。乱雑な空間の隅に積み上がった画用紙。
「努力しても努力しても、ちっとも上手くなってる気がしないけれど、それでも、誰にも邪魔されずに描いていたい。それが、私の譲れないもの」
 亜子は理解した。一番親しかったと思う彼女のことも知らなかったということに。そして、彼女も絵を描くということに執着し、悩み、迷いながら生きていることに。
「だから、亜子がうらやましかった」
「え?」
「どんなに人がいたって、絵を描き出すと誰にもとらわれずに描き続ける。亜子が金賞とった時も、ああ、これが絵を描く才能なんだって思った」
 目を合わせずに言う由梨を、亜子は否定した。
「違う……。絵を描いてる時の私も、色んなものにとらわれて、迷って、煩悩だらけで……」
 由梨は亜子を見た。
「それ、あいつに言った?」
「あいつ?」
「優人」
「それってどういう……」
「誰にも言ってなかったけど、優人とはいとこなの」
「ええ!?」
 衝撃の事実に亜子は驚いたが、それを放置して由梨は話を進めた。
「あいつ、昔からあんなでさ。自分の中に熱いものがあるくせに、それを表に出せないでやんの。人と話すことはできるけど、本心はあんまり話さない。だから勘違いされることが多いし、逆に勘違いすることも多い。……まぁ、それは私も同じか。とにかく、あいつにはちゃんと言わないと伝わらないよ」
(耳が痛い……)
 由梨の言葉を聞いて、亜子は思い当たる節があった。
「まぁ、その話は置いといて」
 由梨は立ち上がると、ロフトからもう一台画板を取り出した。
「絵、描こうよ。好きでしょ?」
 亜子はそれを聞いて申し訳なさそうに言った。
「私、今絵はちょっと……」
「やっぱりそうか」
「知ってたの?」
「ううん、知らなかった。そんな気がしただけ。言ったでしょ、言わなきゃ伝わらないって」
 あっけらかんと言う由梨。
「……」
「……」
 二人はしばらく目を合わせた。そして、笑った。
「アハハ! 何それ!」
「だって! 亜子がすごく思い詰めてるような顔するから! アハハ!」
 ひとしきり笑ったあと、由梨は言った。
「何でもいいよ。見慣れた場所でも思いつくものテキトーに描いたらいいじゃん」
「そうだね、別にコンクールに出すわけじゃないもんね」
(見慣れたもの……教室、とかかな)
 それから二人は食事も忘れて絵を描くことに没頭した。


「朝だね」
「朝だね」
 光が眩しかった。
「いや~、私たちやっぱり絵を描くことに関してはバカになれるわ」
「あはは……そうだね」
「でも、楽しかった」
「うん、楽しかった」
「亜子さ」
「うん」
「塾、来なよ」
「うん……」
「私は亜子がいてくれた方が楽しいんだけど、まだ不安?」
「うん……」
「じゃあ、私からプレゼント」
「え」
 由梨は亜子の耳元で秘密を教えた。
「優人が休んでたのは家の事情。別に亜子のせいじゃないわよ」



 次の教室の日。亜子は久しぶりに足を向けた。優人が休んでいたのは自分のせいではないと分かったものの、やはり間が空いてしまうと足が重かった。
 いつもならとっくに塾に着いている時間だったが、今日は皆が絵を描き始めている時間に合わせてやってきた。そっと入ればあまり注目されないだろうと思ったのだ。
 しかし、当ては外れた。
「山下さんだ」
「あ、久しぶりだね」
「元気だった?」
 思いがけず皆から声をかけられたのだ。
「はい、お久しぶりです……」
 視線を由梨の方に向けると、彼女はウィンクをしていた。
(そうか、由梨が上手く話しておいてくれたんだ)
 彼女にお辞儀をすると、画板に向かいつつ、気になっていた人物を目で追った。
(先輩、来てる……)
 ほっとしたような、少し怖いような、複雑な気持ちだった。おそらく、優人は今日も最後まで残っているだろう。
(話は、それからでいいか……)
 夏休み前の出来事をうやむやにしたままではいけないと思った。



 夕方になって、帰り始める塾生たちに手を振りながら、画板を見つめた。
(これが、今の私の答えだ)
 緊張した気持ちをほどくように、亜子は自身の顔を叩いた。これから、話をしなくてはいけない。
「山下さん」
 だから、気合いを入れていたところに、突然優人から声をかけられて心臓が跳ねた。
「は、はい」
「夏の前は、ごめん」
 頭を下げる彼に慌てた。
「頭を上げてください! あれは私が悪かったんです!」
「いいや、僕が悪かった」
 頭を上げようとしない優人に訴える。
「私が……先輩のこと分かってなくて! それで、先輩を傷つけて……全部、私が悪かったんです!」
 それでも、優人は頭を下げたままだ。
 それを見て、少し冷静になった。
「……何でですか?」
 亜子はトーンを落として彼を見下ろした。
(これじゃあ、けじめをつけられない……)
「それじゃ、私の気持ちの行き場がなじゃないですか……」
「怒れば、いいと思う」
「怒る?」
「僕が悪いことをした。だから、君は怒る。それでいいと思う」
(そうか、先輩は……)
 すごく、不器用なんだ。不器用で頑固。それが彼なんだと分かった。
(誰かと、おんなじ)
 そう思うと、自分を見ているようで、すごくイライラした。自分が誤るべきなのに、その感情が、どうしても抑えられず、爆発した。
「先輩は、卑怯です!」
「うん」
「私が謝りたいのに謝らせてくれなくて!」
「うん」
「私の気持ちを知ってたくせに、私を湖に誘って……それじゃあ勘違いするじゃないですか!」
「うん」
 もう、止まらなかった。言葉も、涙も。
「賞をとって! 勇気が出たから告白したんですよ!? しょうがないじゃないですか! いけるかもしれないって思っちゃったんだから!」
「うん」
 支離滅裂な亜子の言葉に、優人はひたすら頷くだけだった。それが、余計に腹立たしかった。
「私は!」
 鼻声になって出にくい声を無理やり出して訴え続けた。
「私は好きだったんです! 優しくて涼やかな先輩のことが本当に好きだったっ……だから、先輩が怒ってすごく怖かった! いつもの先輩じゃないって!」
「うん」
 涙で顔がグチャグチャになった。それでも目をゴシゴシと擦り、一番言わなければいけないことを言った。
「でも、それが本当の先輩だって気づいたんです……私は、先輩のことが好きだったんじゃなくて、先輩の涼やかな絵だけが好きだったんだって……」
「……うん」
「顔を上げてください」
 亜子は優人の顔を無理やり起こした。
「今から、お互いに質問をして、合ってたらその回数だけお互いに頭突きをします」
 もう、自分でも何を言っているのか分からなかった。優人も困惑顔だ。
「たぶん、先輩も私も自分に対して腹が立っていて、それを責めてほしいって思っています。だから、頭突きをすれば両方罰せます。それで、オッケーなはずです」
 何がオッケーだ。本当は違う。心が痛くて耐えられないんだ。今にも心臓を掻きむしって取り出してしまいたいという衝動に駆られている。
 この張り裂けそうな心の痛みを代用できるんだったら何でも良かった。
「先輩は私のことをよく知らない」
 優人は動かなかった。だから、自分が頭突きをした。思いっきり。女子とは思えない、彼が引くくらいに。すごく、痛かった。
「先輩の番ですよ。質問がないなら次も私がします」
 何も言わない優人の顔を両手で押さえた。
「私は先輩のことをよく知らない」
 もう一発頭突きをした。
「先輩は私のことが嫌いだ」
 ドカッ。
「私は先輩のことが嫌いだ」
 ドカッ。
「先輩は絵を描くのが大好きだ」
 ドカッ。
「私は絵を描くのが大好きだ」
 ドカッ。
「先輩は先輩の先輩の絵が好きだ」
 ドカッ。
「私は先輩の絵が好きだ」
 ドカッ。
「先輩はこれからも先輩の先輩の絵を描き続ける」
 ドカッ。
「私は先輩の絵を描くのをやめる」
 ドカッ。
 限界だった。頭が割れそうに痛くて、床に倒れて仰向けになった。
 全く、いい大人が何をやっているんだろう。
「山下さん、痛いよ……」
 優人も床に尻もちをついていた。
「……先輩の方こそ、石頭なんて知らなかった……自信あったのに……」
「もう、僕の絵は描かないんだね」
 亜子は自分の画板を指差した。
「それが答えです」
 優人がゆっくりと立ち上がって回り込むと。
 そこに描いてあったのは赤く染まった教室と、涼やかな青い絵が留められている画板。
「私は、先輩の絵が好きだったんです」
「うん」
「恋をしていました。先輩じゃなくて、先輩の絵に」
「うん」
「先輩も先輩の先輩の絵、好きでしたか? 自分の絵じゃなくて?」
「うん」
「これからも、描き続けるんですよね?」
「……うん」
 私は小さくため息をついた。
(先輩は、バカだ)
 息を吸って、質問を続けた。
「でも、私はもう先輩の絵は描きません。私の心が赤いから、先輩の青が好きなんです」
「うん」
「先輩の絵と先輩の心は違う」
「たぶん」
「でも。私が先輩の絵を好きなままでいられるように、先輩は先輩の先輩の絵を描き続けてください」
「はは……」
 優人が苦笑した。
「山下さんはずるいね」
「はい、私はずるいです。でも、私より絵が上手いくせに、銀賞だった先輩は、もっとずるいです」
「……うん」
 ここからは、画板に隠れて優人の顔は見えなかったけれど、しばらくして彼は戻ってきた。
「でもやっぱり、山下さんはずるいよ」
 優人はそう言いながら私を起こすと、顔を近づけた。
「山下さんは僕のことを好きじゃない」
 コツン。
 優人が亜子の額に自分の額を当てた。
「僕は山下さんのことを好きじゃない」
 コツン。
 それから、長い時間が開いて、彼は最後にこう言った。
「僕たちは、別々の道を歩んでいく」
 ……コツン。

 先輩は笑っていた。
 私も笑っていた。
 笑いながら、涙を流していた。
 私たちの道はきっとこの先も交わらない。
 ほどよく離れた川岸で、お互いの姿を横目で見つつ、歩いていく。
 私たちまだ源流を下り始めたばかりだ。
 途中で湖や、最後に海に辿り着くこともあるかもしれないけれど。
 でも、今の私たちが考えても仕方のないことだ。
 私たちは歩いていくことを決めた。
 私は西岸を、先輩は東岸を。
 夕日と、朝日に照らされながら。
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