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二章
声にならない想い
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──闇が、広がっていた。
杖を握る自分の手が、震えている。
フィリシアは叫んでいた。けれど、声は誰にも届かない。
「リュミエール!ルシアン様に何をした!こっちへ来い!」
剣技学科の男子生徒たちが、怒鳴りながら彼女の腕を引っ張る。
痛い。痛い。けれど、それ以上に怖い。
ライナーが、遠くに立っている。
その瞳が、冷たく揺れていた。
「違います!私じゃない!先生!信じてください!」
フィリシアは必死に叫ぶ。
けれど、教師たちは眉をひそめ、杖を取り上げようとする。
「なんてことをしたんだ、リュミエール嬢!」
その言葉が、刃のように胸に突き刺さる。
魔力が暴走していた。
黒い光が、ライナーに向かって伸びていく。
彼は動かない。
フィリシアの手から、何かが離れていく──
---
「……っ!」
フィリシアは、息を呑んで目を覚ました。
夜明け前の寮室。空気は冷たく、シーツは汗で湿っている。
心臓が、痛いほどに脈打っていた。
夢だった。
でも、あれは確かに──あの時の記憶だった。
ここ五日間、ライナーとは一言も話していない。
すれ違っても、彼は目を合わせない。
ルシアンと話す時も、ライナーはそっとその場を離れる。
監督生としての業務も、彼は必要なことだけを告げて、すぐに姿を消す。
フィリシアは、何度も声をかけようとして、言葉が喉に詰まった。
「……ライナー」
名前を呼ぶだけで、胸が締めつけられる。
---
「……ライナーとは、結局話せなかったの?」
セシルの声は、優しくて、少しだけ心配そうだった。
フィリシアは湯気の立つカップを見つめながら、小さく頷いた。
「うん……ここ数日、避けられてるみたい」
言葉にすると、胸の奥が少し痛んだ。
カラン──
軽い音がして、フィリシアはそちらに目を向ける。
テーブルの端に置いていた杖が、床に転がっていた。
マクセル先生から借りている杖。
彼女は静かにそれを拾い上げる。
銀色の軸に、青い文様が流れるように刻まれている。
自分の杖とは違う。
触れた瞬間、少しだけ冷たい。
──あの時のことを思い出す。
「杖の検査がどれくらいかかるか分からないので、この杖をフィリシアさんに渡しておきます。
もし、杖に何らかの異変がある場合、少し検査が長くなると思いますので……」
マクセル先生は、いつも通り穏やかだった。
けれど、その言葉の奥に、何かを探るような気配があった気がする。
フィリシアは、借りた杖をじっと見つめた。
魔力の流れが、少し違う。
自分の手に馴染まない感覚が、ずっと残っている。
「早く検査結果、分かるといいね……」
セシルがそっと言った。
フィリシアは、静かに頷いた。
「そうね……」
カップの中の紅茶が、ゆっくりと揺れていた。
---
レオンハルト家の屋敷は、昼間でも薄暗く、石造りの壁が冷気を孕んでいた。
廊下に敷かれた深紅の絨毯は、足音を吸い込むように静かで、ライナーの心をさらに沈ませる。
執務室の扉を開けると、重厚な木の香りと、古い書物の匂いが鼻をかすめた。
壁には先祖の肖像画が並び、どれも厳しい顔つきをしていた。
部屋の奥、重厚な机の向こうにクロードが座っていた。
赤髪はライナーと同じだが、灰色の瞳は冷たく、感情の色を持たない。
「ライナー……久し振りだな」
低く響く声が、石壁に反響する。
「ここのところ、頑張ってるそうだな」
ライナーは一歩前に出て、静かに会釈した。
「…まあ、そうですね。ご要件は何でしょうか」
クロードは椅子にもたれ、指先で書類を軽く叩いた。
「実は……近々、ルシアン様の妹君が帰って来るそうでな。国王陛下、その護衛をお前に任せたいらしい」
ライナーは眉をひそめた。
空気が一瞬、重くなる。
「……なぜ俺に?」
「剣技学科で一番の腕だからだそうだ。まあ、この国で唯一の王女だ。陛下も心配なのだろう」
「でも俺は、ルシアン殿下の側にずっといました。それはどうしろと?」
「問題ない。ルシアン殿下もすでにご了承されている」
その言葉に、ライナーは目を伏せた。
ルシアンが──了承した?
「期待してるぞ、ライナー。お前は王族方から信頼されているからな」
机の上の燭台が、微かに揺れていた。
蝋の匂いが、妙に鼻につく。
「アイツが我が家の汚点となった分、お前には将来の騎士として頑張ってもらわねば」
ライナーは、拳を握りしめた。
それでも、言葉は返さない。
「お前も、あいつのようにはなるなよ」
そう言って、クロードはガハハと笑った。
その笑いは、石壁に反響し、冷たい空気をさらに冷やした。
ライナーは無言のまま部屋を後にする。
廊下に出た瞬間、胸の奥に溜まっていたものが爆ぜた。
拳を振り上げ、壁に叩きつける。
ゴンッ──
鈍い音が響き、石壁に小さな亀裂が走った。
「誰が……あんな奴のようになるかよ……!」
その瞳には、怒りと悔しさ、そして微かな痛みが滲んでいた。
---
夜の空気は、昼間よりもずっと冷たく、静かだった。
フィリシアは、ひとりで寮へ向かう石畳の道を歩いていた。
頭の中では、ずっと同じことが繰り返されていた。
──ライナーに、避けられている。
セシルと話してから、何度も勇気を出して声をかけた。
けれど、彼は振り返らない。
目も合わせない。
まるで、彼女の存在が見えていないかのように。
「……どうして、こんなに苦しいの」
誰にも聞こえない声が、夜に溶けていく。
寮の分かれ道に差し掛かったとき、フィリシアはふと足を止めた。
そこは、剣技学科と魔法学科の寮へと分かれる場所。
灯りが少なく、木々の影が揺れている。
その時──
遠くに、数人の男子生徒が歩いているのが見えた。
その中に、赤い髪が月明かりに照らされている人物がいた。
ライナー。
フィリシアの心臓が、跳ねた。
彼は、友人たちと並んで歩いていた。
笑っているわけではない。
けれど、彼女が知っている“監督生の顔”ではない、少しだけ柔らかい表情だった。
フィリシアは、息を吸った。
胸の奥に溜まっていた不安と、言葉にならない想いが、波のように押し寄せる。
──今度こそ、話さなければ。
逃げてばかりじゃ、何も変わらない。
このままじゃ、ずっと届かない。
「……ライナー!」
声が震えていた。
でも、届いた。
ライナーが、ゆっくりと振り返る。
月明かりの下で、彼の瞳がフィリシアを捉えた。
周囲の友人たちが、気まずそうに視線を逸らす。
空気が、少しだけ張り詰めた。
フィリシアは、胸の奥で何かが軋むのを感じながら、もう一歩近づいた。
「話したいことがあるの」
フィリシアの声は、夜の空気を震わせた。
ライナーは、ほんの一瞬だけ彼女を見た。
その瞳に、怒りとも困惑ともつかない感情が浮かぶ。
「……話すことなんか、何もねぇよ」
低く、鋭い声。
フィリシアの胸が、ぎゅっと締めつけられる。
ライナーは、隣の友人に目を向けると「行こうぜ」と言い、歩き始めた。
フィリシアは、反射的に駆け出した。
「待ちなさいよ!」
彼の肩を掴む。
その手に、震えはなかった。
だが──
ライナーは振り返らず、肩を振りほどくようにして走り出した。
「……あっ!」
フィリシアは、思わず声を漏らす。
「おい、ライナー!」
友人の声が背後から飛ぶ。
けれど、ライナーの耳には届いていないようだった。
フィリシアは、迷わなかった。
制服の裾を押さえ、全速力で彼の背を追う。
石畳を蹴る音。
夜風が髪を乱す。
心臓が、痛いほどに脈打つ。
──逃がさない。
今度こそ、ちゃんと話すんだから。
「待ちなさいよ!ライナー!」
叫ぶ声に、ライナーがようやく振り返った。
「はぁ!?お前、ついてくんなよ!」
驚きと苛立ちが混ざった声。
「剣技学科の男子寮だぞ!」
フィリシアは、息を切らしながらも足を止めない。
その姿に、ライナーは目を見開いた。
さすがに、ドン引きしていた。
「……マジかよ」
彼の声は、誰にも聞こえないほど小さかった。
寮の門が見えてきた。
剣技学科の男子寮──魔法学科の女子が踏み込むには、あまりにも場違いな場所。
けれど、フィリシアの足は止まらない。
ライナーの背は、遠ざかっていく。
フィリシアは、全力で走っていた。
けれど──
(……追いつかない)
彼の脚力は、訓練された剣技学科のそれ。
魔法学科の彼女では、どうしても距離が縮まらない。
フィリシアは、息を荒げながら手を前に突き出した。
指先に、青白い光が集まる。
「……ごめん、ちょっとだけ痛いわよ」
小声で呟き、魔法を放つ。
ピリッとした電気が、夜の空気を裂いた。
ライナーの足元に命中。
「ぐっ……!」
彼は、走りながらバランスを崩し、片膝をついた。
その背に、フィリシアの足音が迫る。
ライナーが顔を上げた瞬間──
「捕まえたわ!」
フィリシアが、彼の前に立っていた。
肩で息をしながら、ニヤッと笑う。
月明かりに照らされたその笑みは、勝ち誇っていて、どこか楽しげだった。
ライナーは、呆然と彼女を見上げる。
その瞳に、驚きと……ほんの少しだけ、諦めが混ざっていた。
そして──
「捕まえたじゃねぇよ!」
突然、声を張り上げた。
「何ちゃっかり魔法使ってんだテメェ!授業外で使うの禁止だろ!」
フィリシアは、はっとして口元に手を当てる。
「あっ……!たしかに!それはそうね!」
ライナーは、さらに目を見開いた。
「……バカなのか!?」
そのツッコミは、怒鳴りというより、呆れと困惑が混ざったものだった。
フィリシアは、肩をすくめてため息をつく。
「でも、逃げる方が悪いと思うのよね。」
ライナーは、しばらく彼女を見つめたまま、言葉を失っていた。
そして、ふっと目を逸らす。
「ここまでしてほんっと……しつけぇよ、お前……」
ライナーは目を逸らしながら、ぼそりと吐き捨てるように言った。
フィリシアは、その言葉に少しだけ眉を下げて、静かに答えた。
「ごめんなさい……でも、あの時のこと、あなたに謝りたくて……」
その言葉に、ライナーの肩がわずかに揺れた。
脳裏に、あの瞬間がよみがえる。
怒り、混乱、そして──孤独。
「……謝るってなんだよ!」
声が少しだけ震えた。
「もうあんなこと、二度としねぇよ!だから……」
言いかけて、また目を逸らす。
その横顔に、フィリシアはそっと声をかけた。
「ライナー」
その一言に、彼はゆっくりと顔を向ける。
すると──
フィリシアが、すっと顔を近づけてきた。
距離が一気に縮まる。
月明かりが彼女の横顔を淡く照らし、瞳がまっすぐにライナーを見つめていた。
ライナーは、目を丸くした。
動けない。
心臓が、ひとつ跳ねた。
「ちゃんと、あなたと話したい」
その声は、静かで、でも確かに彼の胸に届いた。
月が、二人の影をそっと重ねていた。
杖を握る自分の手が、震えている。
フィリシアは叫んでいた。けれど、声は誰にも届かない。
「リュミエール!ルシアン様に何をした!こっちへ来い!」
剣技学科の男子生徒たちが、怒鳴りながら彼女の腕を引っ張る。
痛い。痛い。けれど、それ以上に怖い。
ライナーが、遠くに立っている。
その瞳が、冷たく揺れていた。
「違います!私じゃない!先生!信じてください!」
フィリシアは必死に叫ぶ。
けれど、教師たちは眉をひそめ、杖を取り上げようとする。
「なんてことをしたんだ、リュミエール嬢!」
その言葉が、刃のように胸に突き刺さる。
魔力が暴走していた。
黒い光が、ライナーに向かって伸びていく。
彼は動かない。
フィリシアの手から、何かが離れていく──
---
「……っ!」
フィリシアは、息を呑んで目を覚ました。
夜明け前の寮室。空気は冷たく、シーツは汗で湿っている。
心臓が、痛いほどに脈打っていた。
夢だった。
でも、あれは確かに──あの時の記憶だった。
ここ五日間、ライナーとは一言も話していない。
すれ違っても、彼は目を合わせない。
ルシアンと話す時も、ライナーはそっとその場を離れる。
監督生としての業務も、彼は必要なことだけを告げて、すぐに姿を消す。
フィリシアは、何度も声をかけようとして、言葉が喉に詰まった。
「……ライナー」
名前を呼ぶだけで、胸が締めつけられる。
---
「……ライナーとは、結局話せなかったの?」
セシルの声は、優しくて、少しだけ心配そうだった。
フィリシアは湯気の立つカップを見つめながら、小さく頷いた。
「うん……ここ数日、避けられてるみたい」
言葉にすると、胸の奥が少し痛んだ。
カラン──
軽い音がして、フィリシアはそちらに目を向ける。
テーブルの端に置いていた杖が、床に転がっていた。
マクセル先生から借りている杖。
彼女は静かにそれを拾い上げる。
銀色の軸に、青い文様が流れるように刻まれている。
自分の杖とは違う。
触れた瞬間、少しだけ冷たい。
──あの時のことを思い出す。
「杖の検査がどれくらいかかるか分からないので、この杖をフィリシアさんに渡しておきます。
もし、杖に何らかの異変がある場合、少し検査が長くなると思いますので……」
マクセル先生は、いつも通り穏やかだった。
けれど、その言葉の奥に、何かを探るような気配があった気がする。
フィリシアは、借りた杖をじっと見つめた。
魔力の流れが、少し違う。
自分の手に馴染まない感覚が、ずっと残っている。
「早く検査結果、分かるといいね……」
セシルがそっと言った。
フィリシアは、静かに頷いた。
「そうね……」
カップの中の紅茶が、ゆっくりと揺れていた。
---
レオンハルト家の屋敷は、昼間でも薄暗く、石造りの壁が冷気を孕んでいた。
廊下に敷かれた深紅の絨毯は、足音を吸い込むように静かで、ライナーの心をさらに沈ませる。
執務室の扉を開けると、重厚な木の香りと、古い書物の匂いが鼻をかすめた。
壁には先祖の肖像画が並び、どれも厳しい顔つきをしていた。
部屋の奥、重厚な机の向こうにクロードが座っていた。
赤髪はライナーと同じだが、灰色の瞳は冷たく、感情の色を持たない。
「ライナー……久し振りだな」
低く響く声が、石壁に反響する。
「ここのところ、頑張ってるそうだな」
ライナーは一歩前に出て、静かに会釈した。
「…まあ、そうですね。ご要件は何でしょうか」
クロードは椅子にもたれ、指先で書類を軽く叩いた。
「実は……近々、ルシアン様の妹君が帰って来るそうでな。国王陛下、その護衛をお前に任せたいらしい」
ライナーは眉をひそめた。
空気が一瞬、重くなる。
「……なぜ俺に?」
「剣技学科で一番の腕だからだそうだ。まあ、この国で唯一の王女だ。陛下も心配なのだろう」
「でも俺は、ルシアン殿下の側にずっといました。それはどうしろと?」
「問題ない。ルシアン殿下もすでにご了承されている」
その言葉に、ライナーは目を伏せた。
ルシアンが──了承した?
「期待してるぞ、ライナー。お前は王族方から信頼されているからな」
机の上の燭台が、微かに揺れていた。
蝋の匂いが、妙に鼻につく。
「アイツが我が家の汚点となった分、お前には将来の騎士として頑張ってもらわねば」
ライナーは、拳を握りしめた。
それでも、言葉は返さない。
「お前も、あいつのようにはなるなよ」
そう言って、クロードはガハハと笑った。
その笑いは、石壁に反響し、冷たい空気をさらに冷やした。
ライナーは無言のまま部屋を後にする。
廊下に出た瞬間、胸の奥に溜まっていたものが爆ぜた。
拳を振り上げ、壁に叩きつける。
ゴンッ──
鈍い音が響き、石壁に小さな亀裂が走った。
「誰が……あんな奴のようになるかよ……!」
その瞳には、怒りと悔しさ、そして微かな痛みが滲んでいた。
---
夜の空気は、昼間よりもずっと冷たく、静かだった。
フィリシアは、ひとりで寮へ向かう石畳の道を歩いていた。
頭の中では、ずっと同じことが繰り返されていた。
──ライナーに、避けられている。
セシルと話してから、何度も勇気を出して声をかけた。
けれど、彼は振り返らない。
目も合わせない。
まるで、彼女の存在が見えていないかのように。
「……どうして、こんなに苦しいの」
誰にも聞こえない声が、夜に溶けていく。
寮の分かれ道に差し掛かったとき、フィリシアはふと足を止めた。
そこは、剣技学科と魔法学科の寮へと分かれる場所。
灯りが少なく、木々の影が揺れている。
その時──
遠くに、数人の男子生徒が歩いているのが見えた。
その中に、赤い髪が月明かりに照らされている人物がいた。
ライナー。
フィリシアの心臓が、跳ねた。
彼は、友人たちと並んで歩いていた。
笑っているわけではない。
けれど、彼女が知っている“監督生の顔”ではない、少しだけ柔らかい表情だった。
フィリシアは、息を吸った。
胸の奥に溜まっていた不安と、言葉にならない想いが、波のように押し寄せる。
──今度こそ、話さなければ。
逃げてばかりじゃ、何も変わらない。
このままじゃ、ずっと届かない。
「……ライナー!」
声が震えていた。
でも、届いた。
ライナーが、ゆっくりと振り返る。
月明かりの下で、彼の瞳がフィリシアを捉えた。
周囲の友人たちが、気まずそうに視線を逸らす。
空気が、少しだけ張り詰めた。
フィリシアは、胸の奥で何かが軋むのを感じながら、もう一歩近づいた。
「話したいことがあるの」
フィリシアの声は、夜の空気を震わせた。
ライナーは、ほんの一瞬だけ彼女を見た。
その瞳に、怒りとも困惑ともつかない感情が浮かぶ。
「……話すことなんか、何もねぇよ」
低く、鋭い声。
フィリシアの胸が、ぎゅっと締めつけられる。
ライナーは、隣の友人に目を向けると「行こうぜ」と言い、歩き始めた。
フィリシアは、反射的に駆け出した。
「待ちなさいよ!」
彼の肩を掴む。
その手に、震えはなかった。
だが──
ライナーは振り返らず、肩を振りほどくようにして走り出した。
「……あっ!」
フィリシアは、思わず声を漏らす。
「おい、ライナー!」
友人の声が背後から飛ぶ。
けれど、ライナーの耳には届いていないようだった。
フィリシアは、迷わなかった。
制服の裾を押さえ、全速力で彼の背を追う。
石畳を蹴る音。
夜風が髪を乱す。
心臓が、痛いほどに脈打つ。
──逃がさない。
今度こそ、ちゃんと話すんだから。
「待ちなさいよ!ライナー!」
叫ぶ声に、ライナーがようやく振り返った。
「はぁ!?お前、ついてくんなよ!」
驚きと苛立ちが混ざった声。
「剣技学科の男子寮だぞ!」
フィリシアは、息を切らしながらも足を止めない。
その姿に、ライナーは目を見開いた。
さすがに、ドン引きしていた。
「……マジかよ」
彼の声は、誰にも聞こえないほど小さかった。
寮の門が見えてきた。
剣技学科の男子寮──魔法学科の女子が踏み込むには、あまりにも場違いな場所。
けれど、フィリシアの足は止まらない。
ライナーの背は、遠ざかっていく。
フィリシアは、全力で走っていた。
けれど──
(……追いつかない)
彼の脚力は、訓練された剣技学科のそれ。
魔法学科の彼女では、どうしても距離が縮まらない。
フィリシアは、息を荒げながら手を前に突き出した。
指先に、青白い光が集まる。
「……ごめん、ちょっとだけ痛いわよ」
小声で呟き、魔法を放つ。
ピリッとした電気が、夜の空気を裂いた。
ライナーの足元に命中。
「ぐっ……!」
彼は、走りながらバランスを崩し、片膝をついた。
その背に、フィリシアの足音が迫る。
ライナーが顔を上げた瞬間──
「捕まえたわ!」
フィリシアが、彼の前に立っていた。
肩で息をしながら、ニヤッと笑う。
月明かりに照らされたその笑みは、勝ち誇っていて、どこか楽しげだった。
ライナーは、呆然と彼女を見上げる。
その瞳に、驚きと……ほんの少しだけ、諦めが混ざっていた。
そして──
「捕まえたじゃねぇよ!」
突然、声を張り上げた。
「何ちゃっかり魔法使ってんだテメェ!授業外で使うの禁止だろ!」
フィリシアは、はっとして口元に手を当てる。
「あっ……!たしかに!それはそうね!」
ライナーは、さらに目を見開いた。
「……バカなのか!?」
そのツッコミは、怒鳴りというより、呆れと困惑が混ざったものだった。
フィリシアは、肩をすくめてため息をつく。
「でも、逃げる方が悪いと思うのよね。」
ライナーは、しばらく彼女を見つめたまま、言葉を失っていた。
そして、ふっと目を逸らす。
「ここまでしてほんっと……しつけぇよ、お前……」
ライナーは目を逸らしながら、ぼそりと吐き捨てるように言った。
フィリシアは、その言葉に少しだけ眉を下げて、静かに答えた。
「ごめんなさい……でも、あの時のこと、あなたに謝りたくて……」
その言葉に、ライナーの肩がわずかに揺れた。
脳裏に、あの瞬間がよみがえる。
怒り、混乱、そして──孤独。
「……謝るってなんだよ!」
声が少しだけ震えた。
「もうあんなこと、二度としねぇよ!だから……」
言いかけて、また目を逸らす。
その横顔に、フィリシアはそっと声をかけた。
「ライナー」
その一言に、彼はゆっくりと顔を向ける。
すると──
フィリシアが、すっと顔を近づけてきた。
距離が一気に縮まる。
月明かりが彼女の横顔を淡く照らし、瞳がまっすぐにライナーを見つめていた。
ライナーは、目を丸くした。
動けない。
心臓が、ひとつ跳ねた。
「ちゃんと、あなたと話したい」
その声は、静かで、でも確かに彼の胸に届いた。
月が、二人の影をそっと重ねていた。
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