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第四章 錆色の迷宮
54:心傷2
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「千紗、そろそろ時間だよ。もう上がりな……時計よりも正確な蒼ちゃんが来ないと、やっぱり調子がおかしくなっちゃうねぇ……」
厨房からかけられた叔母の声にはっと時計に目を向ければ、もう七時が回るところだった。
学校は休みなのでこのまま店を手伝うことに支障はないが、「休みの間くらいゆっくりと過ごしな」と笑う叔母の好意に甘え、私は短い夏休みの間も、普段の時間に弁当屋での仕事を終えることにしている。
ぼんやりしていて今日はいつもより遅くなってしまった。
目を向ければ、ガラス扉の向こうの町はもう暮れゆこうとしている。
「うん。じゃあ、帰るね……」
のろのろとエプロンを外し、いつものように弁当を一つ下げ、裏口の扉を開いた。
高い塀の前でひょろっと背の高い人影が、私を待っていないことが、これほど寂しいとは自分でも思っていなかった。
扉の開く音にどこからともなく集まってきた野良猫たちも、大好きな蒼ちゃんを探し、キョロキョロととまどっているようだ。
「まだ帰ってこないよ……寂しいね……」
まるで自分の心に話しかけるかのように呟き、しゃがみこんで手をさし伸べたら、猫たちは代わる代わる私の手や足に体をすり寄せる。
いつも蒼ちゃんがそうしていたように食事を準備してあげてから、自分も壊れかけた椅子に座り、弁当を開いた。
叔母が私のために詰めこんでくれた特製弁当には、今日も美味しそうなおかずが並んでいるのに、なかなか箸が進まない。
普段より時間が遅いからばかりではなく、夕暮れの町も、薄闇に包まれ始めた空も、今日はやけに暗い気がした。
蒼ちゃんや紅君に会っていない上、学校の友人たちとも顔を会わせていないからだろうか。
ふいにとてつもなく寂しくなり、誰からも背を向けられて一人ぼっちだった放課後の教室を思い出す。
小学校の教室。
机に突っ伏して、泣くのを必死にこらえていた私に声をかけてくれたのは、紅君だった。
(紅君……)
蒼ちゃんの笑顔を思い出した時とはまた違った痛みが、私の胸を切り裂く。
紅君に会えなかった四年間、思い出を辿るように反芻していた彼の子供の頃の笑顔ではなく、最近のどこか寂しそうな笑い顔が頭に浮かんだことが、自分でも意外だった。
私の心の中で、大好きだった少年の面影を大切にしまっている場所には、今一緒に蒼ちゃんの笑顔が輝いている。
それは宝物のように大切で、私をいつでも優しい気持ちにする。
だが今の紅君は違う。
再会してから初めて見た、これまで知らなかったような彼の様々な表情は、心の中の違う場所に焼きついている。
思い出すと瞼の裏が熱くなるほど、どうしようもなく息が苦しくなるほど――。
毎日彼を見るたび、どうにかして昔の笑顔をとり戻してほしいと願う。
それ以上に、昔彼が私にしてくれたように、今度は私が彼を助けたいと思う。
何ができるだろう。
何をしたらいいのだろう。
それすらわからないのに、湧きあがる思いだけは固くて強い。
こういう深くて暗い思いは迷惑だとわかるのに、抑えられない。
自分の中の静かな情熱を、無視することは難しい。
(紅君にとって私は、もう単なる蒼ちゃんの知りあいでしかないのにね……)
自分を戒めるように、何度も心の中でくり返しておかなければ、望む資格もない夢を見てしまいそうだった。
守られるはずのない約束を、また大事に抱えこんでしまいそうだった。
(遠くで見ているだけでいい……昔みたいに、ただそれだけでいいから……どうかもっと幸せになってほしい……あの笑顔をとり戻してほしい……)
まるで味のしない弁当を少しずつ口へ運びながら、一人きりでそういうことを考えていた。
暗くなった空に輝き始めた星を見上げながら、強く願った。
厨房からかけられた叔母の声にはっと時計に目を向ければ、もう七時が回るところだった。
学校は休みなのでこのまま店を手伝うことに支障はないが、「休みの間くらいゆっくりと過ごしな」と笑う叔母の好意に甘え、私は短い夏休みの間も、普段の時間に弁当屋での仕事を終えることにしている。
ぼんやりしていて今日はいつもより遅くなってしまった。
目を向ければ、ガラス扉の向こうの町はもう暮れゆこうとしている。
「うん。じゃあ、帰るね……」
のろのろとエプロンを外し、いつものように弁当を一つ下げ、裏口の扉を開いた。
高い塀の前でひょろっと背の高い人影が、私を待っていないことが、これほど寂しいとは自分でも思っていなかった。
扉の開く音にどこからともなく集まってきた野良猫たちも、大好きな蒼ちゃんを探し、キョロキョロととまどっているようだ。
「まだ帰ってこないよ……寂しいね……」
まるで自分の心に話しかけるかのように呟き、しゃがみこんで手をさし伸べたら、猫たちは代わる代わる私の手や足に体をすり寄せる。
いつも蒼ちゃんがそうしていたように食事を準備してあげてから、自分も壊れかけた椅子に座り、弁当を開いた。
叔母が私のために詰めこんでくれた特製弁当には、今日も美味しそうなおかずが並んでいるのに、なかなか箸が進まない。
普段より時間が遅いからばかりではなく、夕暮れの町も、薄闇に包まれ始めた空も、今日はやけに暗い気がした。
蒼ちゃんや紅君に会っていない上、学校の友人たちとも顔を会わせていないからだろうか。
ふいにとてつもなく寂しくなり、誰からも背を向けられて一人ぼっちだった放課後の教室を思い出す。
小学校の教室。
机に突っ伏して、泣くのを必死にこらえていた私に声をかけてくれたのは、紅君だった。
(紅君……)
蒼ちゃんの笑顔を思い出した時とはまた違った痛みが、私の胸を切り裂く。
紅君に会えなかった四年間、思い出を辿るように反芻していた彼の子供の頃の笑顔ではなく、最近のどこか寂しそうな笑い顔が頭に浮かんだことが、自分でも意外だった。
私の心の中で、大好きだった少年の面影を大切にしまっている場所には、今一緒に蒼ちゃんの笑顔が輝いている。
それは宝物のように大切で、私をいつでも優しい気持ちにする。
だが今の紅君は違う。
再会してから初めて見た、これまで知らなかったような彼の様々な表情は、心の中の違う場所に焼きついている。
思い出すと瞼の裏が熱くなるほど、どうしようもなく息が苦しくなるほど――。
毎日彼を見るたび、どうにかして昔の笑顔をとり戻してほしいと願う。
それ以上に、昔彼が私にしてくれたように、今度は私が彼を助けたいと思う。
何ができるだろう。
何をしたらいいのだろう。
それすらわからないのに、湧きあがる思いだけは固くて強い。
こういう深くて暗い思いは迷惑だとわかるのに、抑えられない。
自分の中の静かな情熱を、無視することは難しい。
(紅君にとって私は、もう単なる蒼ちゃんの知りあいでしかないのにね……)
自分を戒めるように、何度も心の中でくり返しておかなければ、望む資格もない夢を見てしまいそうだった。
守られるはずのない約束を、また大事に抱えこんでしまいそうだった。
(遠くで見ているだけでいい……昔みたいに、ただそれだけでいいから……どうかもっと幸せになってほしい……あの笑顔をとり戻してほしい……)
まるで味のしない弁当を少しずつ口へ運びながら、一人きりでそういうことを考えていた。
暗くなった空に輝き始めた星を見上げながら、強く願った。
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