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第四章 錆色の迷宮
56:交錯する想い1
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この時、私に僅かでも冷静さが残っていたら、蒼ちゃんの腕をとったのだろう。
もしそうできていたら、何の不自然さもなかったし、誰を傷つけることもなかった。
私たちの優しい関係も、まだ続いていたのだろうか。
たとえひた隠しにした私の本音が、誰へ向かっていたとしても――。
だけどそれは許されない、許されてはならない裏切りだったのだと、自分でも思う。
「千紗ちゃん……?」
蒼ちゃんが私を呼び、紅君がはっとしたように私の顔を見直した。
ひどく驚いたような、呆然とした表情だった。
握りしめていた私の手を放し、そのまま身を引く。
まるで蒼ちゃんに場所を譲るかのように、私の前から二、三歩後退る。
再会した時からずっと、紅君はそれぐらいの距離を置いていたのに、今はその動作の全てに、胸を抉られるかのようだった。
「大丈夫?」
いつもどおりの笑顔を浮かべ、蒼ちゃんは私へ問いかける。
きっとこれ以上ないほど酷い顔色をしているはずの私に、それでも優しく声をかけてくれる。
しかし私の脳裏には、先ほど一瞬だけ見た凍りついたような蒼ちゃんの表情が、しっかりと焼きついていた。
私が紅君の手を取った瞬間の、静かな驚愕の表情――。
(ごめんなさい……蒼ちゃん……!)
「うん……大丈夫……」
実際はまったく大丈夫などではない心理状態で、無理に口を開いたら涙が零れた。
ぽろぽろと零れ落ちる涙を必死に拭いながら、私は懸命に、目の前にいる人の名前を呼ぶ。
「蒼ちゃん……」
「なに?」
呼べばすぐに笑顔で返事をするこの人が、どれほど私を大切にしてくれているのか。
私はよく知っている。
「蒼ちゃん……」
「うん?」
分不相応なほど大切にされていると、自分でも思う。
「……お帰りなさい」
本当は真っ先に言うつもりだった言葉。
言いたかった言葉。
ぐちゃぐちゃになった感情をどうにか鎮め、せめてそれだけを伝えたら、やはり笑顔が返ってきた。
「うん。ただいま」
蒼ちゃんは少し身を屈め、私と目の高さをあわせ、眩しいほど笑ってくれた。
だが両手を膝に置いたその格好では、いつものようにポンと私の頭を叩くことはできない。
そう感じた瞬間、これまで自分へ広げられていた温かな両腕が、故意にか無意識にか閉じられたことを悟った。
(蒼ちゃん……)
あれほど無防備に、大きく開かれることはもうないだろう。
そうわかり、胸が痛かった。
もしそうできていたら、何の不自然さもなかったし、誰を傷つけることもなかった。
私たちの優しい関係も、まだ続いていたのだろうか。
たとえひた隠しにした私の本音が、誰へ向かっていたとしても――。
だけどそれは許されない、許されてはならない裏切りだったのだと、自分でも思う。
「千紗ちゃん……?」
蒼ちゃんが私を呼び、紅君がはっとしたように私の顔を見直した。
ひどく驚いたような、呆然とした表情だった。
握りしめていた私の手を放し、そのまま身を引く。
まるで蒼ちゃんに場所を譲るかのように、私の前から二、三歩後退る。
再会した時からずっと、紅君はそれぐらいの距離を置いていたのに、今はその動作の全てに、胸を抉られるかのようだった。
「大丈夫?」
いつもどおりの笑顔を浮かべ、蒼ちゃんは私へ問いかける。
きっとこれ以上ないほど酷い顔色をしているはずの私に、それでも優しく声をかけてくれる。
しかし私の脳裏には、先ほど一瞬だけ見た凍りついたような蒼ちゃんの表情が、しっかりと焼きついていた。
私が紅君の手を取った瞬間の、静かな驚愕の表情――。
(ごめんなさい……蒼ちゃん……!)
「うん……大丈夫……」
実際はまったく大丈夫などではない心理状態で、無理に口を開いたら涙が零れた。
ぽろぽろと零れ落ちる涙を必死に拭いながら、私は懸命に、目の前にいる人の名前を呼ぶ。
「蒼ちゃん……」
「なに?」
呼べばすぐに笑顔で返事をするこの人が、どれほど私を大切にしてくれているのか。
私はよく知っている。
「蒼ちゃん……」
「うん?」
分不相応なほど大切にされていると、自分でも思う。
「……お帰りなさい」
本当は真っ先に言うつもりだった言葉。
言いたかった言葉。
ぐちゃぐちゃになった感情をどうにか鎮め、せめてそれだけを伝えたら、やはり笑顔が返ってきた。
「うん。ただいま」
蒼ちゃんは少し身を屈め、私と目の高さをあわせ、眩しいほど笑ってくれた。
だが両手を膝に置いたその格好では、いつものようにポンと私の頭を叩くことはできない。
そう感じた瞬間、これまで自分へ広げられていた温かな両腕が、故意にか無意識にか閉じられたことを悟った。
(蒼ちゃん……)
あれほど無防備に、大きく開かれることはもうないだろう。
そうわかり、胸が痛かった。
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