97 / 103
第七章 紅色の夕風
97:還る場所3
しおりを挟む
二人で歩いた土手の道にも、問題の国道にも、紅君の姿はなかった。
柔らかな春の陽射しが次第に傾き、西の空へと沈みかけ、タイムリミットが近いことを私に教えている。
母と暮らしたアパートにも、紅君も通っていた小学校にも、足を運んでみたが収穫はない。限界を越えて歩き回ると、本当に足が痛くて歩くことも困難になるのだと、身を以って初めて知った。
(やっぱり……この街じゃなかったんだ……)
そもそもどうしてここだと思ったのか。
その根拠でさえ今は、危うい。
(目を覚まして……それでまだ紅君に記憶があったなら……今度こそは私のことも思い出してくれそうな気がした……)
だからこの街へ来た。
二人の思い出が詰まったこの街を巡りながら、欠けた記憶を確かなものにし、それから私のところへ帰って来てくれるような気がした。
(だから、先回りして追いかけてくるなんて……やっぱりこんなの……私の勝手な思いこみだ)
落胆してその場にしゃがみこんだら、そこから一歩も動けなくなった。
気力だけを頼りに動かし続けた足は、とうに限界を超えている。
紅君に会いたい、もうすぐきっと会えるはずだと、信じる気持ちがなくなってしまったら、もう動くはずもない。
(やっぱり会えない……もう会えないかもしれない……!)
私の想像もつかないような理由で、紅君が動きだしてしまったのなら、いったい何を信じて待てばいいのだろう。
もう一度会おうと、私は約束を交わしたわけでもないし、彼が私を覚えているのかさえわからない。
「紅君!」
うな垂れた私の頬を伝った涙が、ポツリと地面に黒い染みを作った瞬間――風が吹いた。
伸ばしっぱなしの私の長い髪を巻き上げるように、夕焼けに染まった空に向かって一直線に風が駆け上がったので、つられて顔を上げた。
涙で滲んだ視界の中で、小さな何かが、私に向かってヒラリヒラリと降りてくる。
今は夕陽に染まって赤く見えるその小さな『何か』が、淡いピンク色の花びらだと見て取り、私の目から涙が零れ落ちた。
いくつもいくつも零れ落ちた。
「さくら……」
あの遠い春の日。
紅君と二人で見た景色のように、空から降ってくる花びらを、そっと両手で受ける。
握り潰してしまわないように、大切に受け止める。
気がつけばいつの間にか、私は桜の大木のすぐ近くにいた。
どこをどう歩いて辿り着いたのかさえ、記憶にない。
大きな桜の木の傍に、しゃがみこんでいた。
瞬間、背後で声がした。
「いつも見てたんだ……気がつくとその子のことばっかり見てた。あまり目立つ子じゃなかったし、男の子と話すタイプでもなかったから、なかなか話すタイミングが見つからなくて……そうこうしているうちに、その子がある日、パッタリと学校に来なくなった……」
聞き違えようのないその声に、ふり返ろうと思うのにできない。
一気に駆け上ってきた震えるような驚きに、大きくしゃくりあげて咽び泣いているような状態では、とてもふり向けない。
「……義理の父親に殴られて、大怪我をしたって聞いた……事実、数日後に学校に出てきたその子は松葉杖で……顔にもいっぱい怪我してた……」
必死に嗚咽を堪えていると息を吸うことさえ難しい。
頭も胸も、たった一つの思いで満たされているのに、それを口に出すことができない。
ただぽろぽろと涙を零し、彼の言葉を背中で聞き続けるしかない。
「なんで守ってやれなかったんだろうって、いっぱいいっぱい後悔した。恥ずかしいとか、みんなにからかわれるかもとか、そんなちっぽけな思い……あの子が傷つくことに比べたら、なんでもなかったのに!」
背中からふわっと私の肩を包むように回された両手が、座りこんだままの私の体を抱きしめた。
先ほどまでよりずっと近く、私の頭のすぐうしろで、優しい声が聞こえる。
「守りたいって思った。他の誰からも、何からも、俺が絶対守るんだって自分に誓った。それなのに、その思いさえ忘れて……一番大切な君のことを忘れて……!」
力をこめて自分を抱きしめる腕に、私は恐る恐る指先で触れた。
確かに感触があっても、背中で彼の体温を感じても、夢じゃないかと疑う気持ちがどうしても拭えない。
もう六年間も、何度も何度もくり返し見てきた、優しくて残酷な夢の続きなのではないかと思える。
だが――。
「ゴメン、ちい……それでも好きだよ……誰よりもやっぱり……君が好きだよ」
私の頭に自分の頭を押しつけるようにして、一番近い場所で彼が囁いた言葉だけは、嘘にしたくない。
夢でも幻でもいい。
彼が私を思い出してくれたのがたとえ今この一瞬だけでも、私にとっては一番大切な宝物として、ずっとずっと心の中にしまっておきたい。
「紅君――!」
叫ぶように名前を呼んだ私を、彼はかき抱くようにもう一度強く背後から抱きしめた。
もう決して放さないという意思表示のように、自分は確かにここに居るということを私に知らしめるかのように――。
(この腕を信じる……抱きしめる強さを信じる……たとえ運命が、もう一度彼から私の記憶を奪っても、私だけは決して忘れない!)
その思いをこめ、私は萎えていた足に力を入れて体を捻り、自分から彼の腕に飛びこんだ。
「紅君!」
夢でも幻でもなく確かに夕焼けの中に、大好きな人は存在していた。
「ちい」
呼ばれるままに上げた私の顔に、紅君の顔が近づいてくる。
「ただいま」
囁かれた言葉に、私も「おかえり」と返したら、そのまま唇で唇を塞がれる。
(ああ、紅君だ……本物の紅君に……もう一度会えた……!)
溢れる涙は、やはり止まらなかった。
柔らかな春の陽射しが次第に傾き、西の空へと沈みかけ、タイムリミットが近いことを私に教えている。
母と暮らしたアパートにも、紅君も通っていた小学校にも、足を運んでみたが収穫はない。限界を越えて歩き回ると、本当に足が痛くて歩くことも困難になるのだと、身を以って初めて知った。
(やっぱり……この街じゃなかったんだ……)
そもそもどうしてここだと思ったのか。
その根拠でさえ今は、危うい。
(目を覚まして……それでまだ紅君に記憶があったなら……今度こそは私のことも思い出してくれそうな気がした……)
だからこの街へ来た。
二人の思い出が詰まったこの街を巡りながら、欠けた記憶を確かなものにし、それから私のところへ帰って来てくれるような気がした。
(だから、先回りして追いかけてくるなんて……やっぱりこんなの……私の勝手な思いこみだ)
落胆してその場にしゃがみこんだら、そこから一歩も動けなくなった。
気力だけを頼りに動かし続けた足は、とうに限界を超えている。
紅君に会いたい、もうすぐきっと会えるはずだと、信じる気持ちがなくなってしまったら、もう動くはずもない。
(やっぱり会えない……もう会えないかもしれない……!)
私の想像もつかないような理由で、紅君が動きだしてしまったのなら、いったい何を信じて待てばいいのだろう。
もう一度会おうと、私は約束を交わしたわけでもないし、彼が私を覚えているのかさえわからない。
「紅君!」
うな垂れた私の頬を伝った涙が、ポツリと地面に黒い染みを作った瞬間――風が吹いた。
伸ばしっぱなしの私の長い髪を巻き上げるように、夕焼けに染まった空に向かって一直線に風が駆け上がったので、つられて顔を上げた。
涙で滲んだ視界の中で、小さな何かが、私に向かってヒラリヒラリと降りてくる。
今は夕陽に染まって赤く見えるその小さな『何か』が、淡いピンク色の花びらだと見て取り、私の目から涙が零れ落ちた。
いくつもいくつも零れ落ちた。
「さくら……」
あの遠い春の日。
紅君と二人で見た景色のように、空から降ってくる花びらを、そっと両手で受ける。
握り潰してしまわないように、大切に受け止める。
気がつけばいつの間にか、私は桜の大木のすぐ近くにいた。
どこをどう歩いて辿り着いたのかさえ、記憶にない。
大きな桜の木の傍に、しゃがみこんでいた。
瞬間、背後で声がした。
「いつも見てたんだ……気がつくとその子のことばっかり見てた。あまり目立つ子じゃなかったし、男の子と話すタイプでもなかったから、なかなか話すタイミングが見つからなくて……そうこうしているうちに、その子がある日、パッタリと学校に来なくなった……」
聞き違えようのないその声に、ふり返ろうと思うのにできない。
一気に駆け上ってきた震えるような驚きに、大きくしゃくりあげて咽び泣いているような状態では、とてもふり向けない。
「……義理の父親に殴られて、大怪我をしたって聞いた……事実、数日後に学校に出てきたその子は松葉杖で……顔にもいっぱい怪我してた……」
必死に嗚咽を堪えていると息を吸うことさえ難しい。
頭も胸も、たった一つの思いで満たされているのに、それを口に出すことができない。
ただぽろぽろと涙を零し、彼の言葉を背中で聞き続けるしかない。
「なんで守ってやれなかったんだろうって、いっぱいいっぱい後悔した。恥ずかしいとか、みんなにからかわれるかもとか、そんなちっぽけな思い……あの子が傷つくことに比べたら、なんでもなかったのに!」
背中からふわっと私の肩を包むように回された両手が、座りこんだままの私の体を抱きしめた。
先ほどまでよりずっと近く、私の頭のすぐうしろで、優しい声が聞こえる。
「守りたいって思った。他の誰からも、何からも、俺が絶対守るんだって自分に誓った。それなのに、その思いさえ忘れて……一番大切な君のことを忘れて……!」
力をこめて自分を抱きしめる腕に、私は恐る恐る指先で触れた。
確かに感触があっても、背中で彼の体温を感じても、夢じゃないかと疑う気持ちがどうしても拭えない。
もう六年間も、何度も何度もくり返し見てきた、優しくて残酷な夢の続きなのではないかと思える。
だが――。
「ゴメン、ちい……それでも好きだよ……誰よりもやっぱり……君が好きだよ」
私の頭に自分の頭を押しつけるようにして、一番近い場所で彼が囁いた言葉だけは、嘘にしたくない。
夢でも幻でもいい。
彼が私を思い出してくれたのがたとえ今この一瞬だけでも、私にとっては一番大切な宝物として、ずっとずっと心の中にしまっておきたい。
「紅君――!」
叫ぶように名前を呼んだ私を、彼はかき抱くようにもう一度強く背後から抱きしめた。
もう決して放さないという意思表示のように、自分は確かにここに居るということを私に知らしめるかのように――。
(この腕を信じる……抱きしめる強さを信じる……たとえ運命が、もう一度彼から私の記憶を奪っても、私だけは決して忘れない!)
その思いをこめ、私は萎えていた足に力を入れて体を捻り、自分から彼の腕に飛びこんだ。
「紅君!」
夢でも幻でもなく確かに夕焼けの中に、大好きな人は存在していた。
「ちい」
呼ばれるままに上げた私の顔に、紅君の顔が近づいてくる。
「ただいま」
囁かれた言葉に、私も「おかえり」と返したら、そのまま唇で唇を塞がれる。
(ああ、紅君だ……本物の紅君に……もう一度会えた……!)
溢れる涙は、やはり止まらなかった。
0
あなたにおすすめの小説
Blue Bird ―初恋の人に再会したのに奔放な同級生が甘すぎるっ‼【完結】
remo
恋愛
「…溶けろよ」 甘く響くかすれた声と奔放な舌にどこまでも落とされた。
本宮 のい。新社会人1年目。
永遠に出来そうもない彼氏を夢見つつ、目の前の仕事に奮闘中。
なんだけど。
青井 奏。
高校時代の同級生に再会した。 と思う間もなく、
和泉 碧。
初恋の相手らしき人も現れた。
幸せの青い鳥は一体どこに。
【完結】 ありがとうございました‼︎
結婚相手は、初恋相手~一途な恋の手ほどき~
馬村 はくあ
ライト文芸
「久しぶりだね、ちとせちゃん」
入社した会社の社長に
息子と結婚するように言われて
「ま、なぶくん……」
指示された家で出迎えてくれたのは
ずっとずっと好きだった初恋相手だった。
◌⑅◌┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈◌⑅◌
ちょっぴり照れ屋な新人保険師
鈴野 ちとせ -Chitose Suzuno-
×
俺様なイケメン副社長
遊佐 学 -Manabu Yusa-
◌⑅◌┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈◌⑅◌
「これからよろくね、ちとせ」
ずっと人生を諦めてたちとせにとって
これは好きな人と幸せになれる
大大大チャンス到来!
「結婚したい人ができたら、いつでも離婚してあげるから」
この先には幸せな未来しかないと思っていたのに。
「感謝してるよ、ちとせのおかげで俺の将来も安泰だ」
自分の立場しか考えてなくて
いつだってそこに愛はないんだと
覚悟して臨んだ結婚生活
「お前の頭にあいつがいるのが、ムカつく」
「あいつと仲良くするのはやめろ」
「違わねぇんだよ。俺のことだけ見てろよ」
好きじゃないって言うくせに
いつだって、強引で、惑わせてくる。
「かわいい、ちとせ」
溺れる日はすぐそこかもしれない
◌⑅◌┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈◌⑅◌
俺様なイケメン副社長と
そんな彼がずっとすきなウブな女の子
愛が本物になる日は……
10年引きこもりの私が外に出たら、御曹司の妻になりました
専業プウタ
恋愛
25歳の桜田未来は中学生から10年以上引きこもりだったが、2人暮らしの母親の死により外に出なくてはならなくなる。城ヶ崎冬馬は女遊びの激しい大手アパレルブランドの副社長。彼をストーカーから身を張って助けた事で未来は一時的に記憶喪失に陥る。冬馬はちょっとした興味から、未来は自分の恋人だったと偽る。冬馬は未来の純粋さと直向きさに惹かれていき、嘘が明らかになる日を恐れながらも未来の為に自分を変えていく。そして、未来は恐れもなくし、愛する人の胸に飛び込み夢を叶える扉を自ら開くのだった。
【完結】悪の尋問令嬢、″捨てられ王子″の妻になる。
Y(ワイ)
ファンタジー
尋問を生業にする侯爵家に婿入りしたのは、恋愛戦略に敗れた腹黒王子。
白い結婚から始まる、腹黒VS腹黒の執着恋愛コメディ(シリアス有り)です。
椿の国の後宮のはなし
犬噛 クロ
キャラ文芸
架空の国の後宮物語。
若き皇帝と、彼に囚われた娘の話です。
有力政治家の娘・羽村 雪樹(はねむら せつじゅ)は「男子」だと性別を間違われたまま、自国の皇帝・蓮と固い絆で結ばれていた。
しかしとうとう少女であることを気づかれてしまった雪樹は、蓮に乱暴された挙句、後宮に幽閉されてしまう。
幼なじみとして慕っていた青年からの裏切りに、雪樹は混乱し、蓮に憎しみを抱き、そして……?
あまり暗くなり過ぎない後宮物語。
雪樹と蓮、ふたりの関係がどう変化していくのか見守っていただければ嬉しいです。
※2017年完結作品をタイトルとカテゴリを変更+全面改稿しております。
15年目のホンネ ~今も愛していると言えますか?~
深冬 芽以
恋愛
交際2年、結婚15年の柚葉《ゆずは》と和輝《かずき》。
2人の子供に恵まれて、どこにでもある普通の家族の普通の毎日を過ごしていた。
愚痴は言い切れないほどあるけれど、それなりに幸せ……のはずだった。
「その時計、気に入ってるのね」
「ああ、初ボーナスで買ったから思い出深くて」
『お揃いで』ね?
夫は知らない。
私が知っていることを。
結婚指輪はしないのに、その時計はつけるのね?
私の名前は呼ばないのに、あの女の名前は呼ぶのね?
今も私を好きですか?
後悔していませんか?
私は今もあなたが好きです。
だから、ずっと、後悔しているの……。
妻になり、強くなった。
母になり、逞しくなった。
だけど、傷つかないわけじゃない。
自信家CEOは花嫁を略奪する
朝陽ゆりね
恋愛
「あなたとは、一夜限りの関係です」
そのはずだったのに、
そう言ったはずなのに――
私には婚約者がいて、あなたと交際することはできない。
それにあなたは特定の女とはつきあわないのでしょ?
だったら、なぜ?
お願いだからもうかまわないで――
松坂和眞は特定の相手とは交際しないと宣言し、言い寄る女と一時を愉しむ男だ。
だが、経営者としての手腕は世間に広く知られている。
璃桜はそんな和眞に憧れて入社したが、親からもらった自由な時間は3年だった。
そしてその期間が来てしまった。
半年後、親が決めた相手と結婚する。
退職する前日、和眞を誘惑する決意をし、成功するが――
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる