【完結】一泊、泊めてください

加藤伊織

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春の章

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「もしこれアウトだったら、あとでカットしてくださいね」

 何かを切るようなジェスチャーをして、篤宏は牛舎へと踏み込んでいく。真珠が続いて中に入ると、白黒のまだらの牛が5頭ほどその中にいた。

「こんにちはー。牛乳お願いしまーす」
「はいよー」

 ひょっこりと顔を出したのは中年の男性だ。カメラに驚いていたが、真珠が自己紹介をすると納得した顔をしていた。篤宏が達雄たつおさんと呼ぶこの男性は、番組のことを知っているらしい。

「これ、後でカットしておいてな」

 篤宏と同じくおどけた様子で達雄は指をチョキにして見せる。彼がふたりを連れて行ったのはタンクの前だった。篤宏から瓶を受け取ると、柄杓で中身をすくい漏斗を使って瓶の中に注ぎ込む。流れ込む白い液体は牛乳だ。

「これは生乳。ここで直接買ってるんだ。もちろん、ちゃんと後で殺菌して飲むよ」
「そうそう、ちゃんと殺菌してな。自己責任だからな。まいどあり」

 牛を飼っているところから直接牛乳を買う。凄まじいカルチャーショックをうけて、真珠はぽかりと口を開けた。あまりの彼の驚きように、篤宏が逆に驚いて慌てて説明を始める。

「これは僕の趣味でね。ここの村の人が皆ここで牛乳を買うわけじゃないよ! さっきの村の駅にもちゃんと牛乳は売ってるからね」
「牛乳を買うのが、趣味?」

 真珠にはますますわけがわからない。複雑を極めた真珠の表情に眉を下げて笑うと、達雄は生温かい笑顔で篤宏の肩を叩いた。

「教えてやってな」
「もちろんですよ。ビバ、牛乳教」
「ビバ、牛乳教」

 ハイタッチをするふたりを見て、真珠は更に眉間の皺を深くした。堆肥の匂いで思考が麻痺しているのだろうか。何度今の会話を振り返っても、真珠には理解しがたい。
 悩む真珠をよそに、達雄は一度奥へ行き、ビニール袋を持って戻ってきた。

「ところであっちゃん、この後ミネさんのところに行くかい?」
「行きますよ。お遣いですか」
「ミネさんのところにこれ持ってって。これはあっちゃんの分な」

 ごっそりと渡されたのは袋にいっぱいに詰められた椎茸だ。声を上げて喜ぶ篤宏に釣られて真珠も身を乗り出して袋の中を覗き込む。
 思わず唸ってしまうほど、そうそうお目に掛からない肉厚で立派な椎茸だ。達雄は得意げに胸を張り、うちの椎茸はうまいぞとカラカラと笑った。

 先ほど篤宏が言っていた言葉を真珠は思い出していた。お裾分けが当たり前で、貨幣経済だけで回っているのではないという生活。
 なんとなく、田舎が排他的に見える理由がわかってきた気がする。排他的なのではなくて、もしかしたら単純に結束が固いのではないかと、真珠には見えた。

 牛乳と椎茸を手に自転車に戻ると、カゴはいっぱいになった。牛乳は元々空き瓶が入っていたのだが、ビニール袋ふたつ分の椎茸のかさばり方が半端ではない。
 真珠が黙ったままで袋をひとつ持つと、篤宏は朗らかな笑顔を向けてありがとうと言った。

 キラキラと、周りに何か散っているのではないかという眩しい笑顔だ。俗に言われるイケメンパウダーが舞っているのだろう。春の日差しの下で笑っているのが、彼にはよく似合う。

「寄り道は一応次で最後。時計の電池が切れちゃったから交換してくれって、家を出る前に電話が来て」
「蛍光灯の次は電池なのか……」

 真珠の声にもさすがに呆れた響きが滲む。頷いて、背が高いのは便利だろうと篤宏はまた笑う。

「……ミネさんの亡くなったご主人はね、雪下ろしをしようとして屋根に上がって、落ちたときに骨折したんだって」

 笑顔をすっと消して抑えた声で話す篤宏の表情は、どこか切なげだ。彼の言葉の続きを待って、真珠は黙ったままで篤宏の横顔を見つめた。

「下に雪があるのに、って思うだろう? それでも折れてしまうくらい骨が脆くなってたってことさ。
 そして、怪我が原因で寝たきりになって、そのままどんどん弱って亡くなったそうだよ。
 怪我をする前は元気だったのに、動けなくなってからは急に認知症が進んだりしてね。
寝たきりになる原因は、怪我がきっかけのことが多いんだ。しかも一旦寝たきりになったら、まず回復することはない。
 だから、できるだけ危ないことはして欲しくないって僕は思うよ。電池交換なんて僕からしてみたら手間とも言えないくらいだ。ここは買い物に行けば必ず通る道だしね。
 お節介と言われてもいい。たとえ知らない人でも、怪我をしたと聞いていい気分にはならないだろう?」

 篤宏の話を聞きながら、真珠はぐっと心臓が握られたような息苦しさを覚えていた。

 ああ、こいつはただのお節介じゃない。
 優しいのだ。真珠が今まで見たこともないほど、とてつもなく優しい。困っている人を決して見捨てておけない人間だ。そのために自分が走り回ることになっても、その労苦を厭うことはないのだろう。

 そんな彼だから、この村の人々は彼を温かく迎え入れ、孫のように愛おしむのだ。
 榊原篤宏という人間は、真珠にはとても眩しく見えた。
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