一泊、泊めてください

加藤伊織

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春の章

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 大きな両手鍋がガスコンロの上に乗っている。その中に篤宏は牛乳を全て入れてしまい、カチカチという音を立てて火を付けると、真珠に長い温度計を渡してきた。 受け取りながら怪訝な顔をする真珠に向かって、爽やかな笑顔で軽く篤宏が言い放つ。

「63度から65度の間で30分。これが低温殺菌だよ。頑張ってね」
「えっ、はぁ?」
「その間に僕は火を使わない下ごしらえとかするからね」
「63度から65度……シビアじゃないのか、調整が」

 顔をこわばらせる真珠に、そうだね、と篤宏は頷いた。
 そうだねじゃないだろう、と文句を言いたかったがぐっと堪える。なにせ泊めてもらう身なのだ。手伝いをするのは当然で、文句を言うことはしたくない。

「まあまあ、頑張ったらその分ちゃんとご褒美があるよ」
「……やらないとは言ってない」

 鼻歌を歌いながら上機嫌に野菜を刻む篤宏を横目に見ながら、真珠は四苦八苦しながらも火加減の調節を続ける。
 何度か素人にはシビアすぎる範囲から温度が外れてしまったが、なんとか30分の殺菌をやりきった。終わった頃には慣れぬことに集中していたせいか、妙に疲れ切ってしまっていた。

 もういいよと言われて、ふらりとした足取りで居間に戻って座り込む。不ぞろいなふたつのマグカップに牛乳を注ぐと、篤宏はそれを手に居間へとやってきた。

「ごめん、マグカップはこれしかなくて。スタッフさんにはもう少し冷めたらコップに入れてあげるよ」

 勧められるままにマグカップを受け取り、口元に運ぶ。少し吹き冷まさないと熱さを感じる程度のホットミルクだった。
 最初に唇に触れた熱さに驚いて、両手で包み込むようにマグカップを持つと、真珠はふうふうと息を吹きかけた。そんな真珠の姿を篤宏は目を細くして見ている。

「シロくん、可愛いね」

 突然言われた脈絡のない一言に、真珠は口元からカップを離して篤宏を睨んだ。格好いいと言われるのはそれなりに慣れているが、可愛いと言われたことなど子供の頃から覚えがなかった。にこにことした篤宏の顔を見れば他意がない言葉なのかもしれないが、成人男子としてはあまり言われて嬉しさを感じない。

「もしかして、俺は子供扱いされてるのか?」
「えっ、思ったことを言っただけだよ」

 ディレクターが口を押さえて必死で笑いを耐えているのが目の端に映る。カメラマンも小刻みに肩を震わせていて、ついカメラに向かって厳しい目を向けてしまった。

「言われないの? へえ。僕の感性は他の人と違うのかなあ。それより、早く飲んでごらんよ」

 どうも篤宏といると真珠はペースが狂わされる気がした。恐らく、今まで真珠が見せたことのない表情の数々をプロデューサーは喜ぶだろう。
 いっそのことこいつは作家じゃなくてタレントになった方がいいんじゃないかと、真珠は少々腹を立てながら思う。
 しかし、僅かに感じていた苛立ちは、牛乳を一口飲み下した途端に吹き飛んだ。今日何度目かわからない真珠の驚いた顔に、視線が集まるのを感じる。

「なんだ、これ。飲んだことない味がする」

 うまく表現する言葉が見つからないのが、自分でももどかしい。食レポのような仕事が回ってくることなど考えたこともなかったが、言葉の表現を学ぶことを今まで疎かにしていたことを悔いるほどだ。

「凄く濃くて、甘い。薄めてないからか?」
「低温殺菌にしたからだよ。市販の牛乳は高温短時間殺菌がほとんどだけど、熱でタンパク質が変性してしまって味が変わってしまうし。ホモジナイズもされてるから。味が全然違うだろう?」

 身を乗り出して勢いよく話す篤宏に、意味のわからない単語があったのを聞き流しながらも真珠は無言でこくこくと頷き、またマグカップを口に運んだ。今まで飲んでいた牛乳と同じ物とは思えない程美味だった。
 なるほど、これは牛乳教というのも頷ける。一般的にあまり売られていないなら、確かに「趣味」でこうして飲みたくなるだろう。

「30分以上、頑張った甲斐があっただろう? これがご褒美って奴だよ」
「どうしてこのやり方のを売らないのかが不思議だ」
「スーパーにもあるけど少ないね。高温殺菌に比べて日持ちしないんだ。その上手間も掛かるし、大量生産して流通に乗せるのは廃棄のリスクが高くなるから厳しいんだろうね」

 篤宏の説明に真珠もすぐに納得した。探せば東京でも売られているのだろうが、きっと様々な理由で目の前の牛乳程は美味しく感じないだろう。そう思うと、一杯のホットミルクがとても貴重な物に思えてくる。

 マグカップをしっかりと抱えて真剣な顔で牛乳を味わう真珠を見て篤宏は満足げだ。彼が何か言おうとしてから口を閉じたところを見ると、また可愛いと言おうとしたのかもしれない。
 そう思っても今度は腹が立たなかった。
 美味しい物を飲みながら怒ることは難しいと真珠は知ったのだ。
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