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春の章
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湯船に体を沈めると、肺の奥からため息が零れてくる。
夕食後の片付けが終わり、一息ついた頃に風呂を勧められた。これもまた真珠が見たことのないレバーが壁面についていて、湯沸かしはこれで操作するのだと教わった。
この家の風呂場は一般的なそこよりも少し広く、古めかしい。浴槽は真珠が見慣れている物と違って真四角で深さがあり、床も含めて水色のタイルで覆われていた。家庭の風呂というよりは、銭湯をそのまま小さくしたような趣がある。
完全にひとりになったのは、今日初めてかもしれない。一日を振り返ると、覚悟していた以上に色々なことが起こりすぎていて、既に午前中のことなど遙か昔のことに思えた。
篤宏とも随分長い間一緒にいるような気がしてしまうが、指折り数えてみれば10時間ほどしか経っていない。それが真珠には信じられなかった。
それは鳥の雛が初めて見た物を親と思うような刷り込みなのかもしれない。けれど彼がずっとそばにいてくれて助けられたと思うのは正直な気持ちだった。
深い風呂は、肩までよく温まるように湯が張られていた。十分に体が温まってほぐれると、一日の疲れも湯船から零れる湯と一緒に流れていくようだ。
湯上がりに用意してきたスウェットパンツと長袖のTシャツに袖を通し、居間へと戻る。
真珠に気付いた篤宏が手招きをしたのでそちらに寄ると、縁側に面した窓を篤宏が開いた。
流れ込む冷たい夜気が、ここは東京とは違うのだと殊更に言っているようだった。
「今日は天気が良かったから、星がよく見えるよ」
篤宏の背後には、子供の頃にプラネタリウムで見たような星空が広がっていた。数え切れないほどの星に言葉もなく真珠が見入っていると、明るい星々を指さして篤宏が星座を教えてくれた。
「周りが山だから、わかりやすいカシオペア座とかオリオン座はちょっと見えにくいね。あっちの凄く明るい星が木星で、その左上にある少し暗い星がしし座のデネボラ。その更に左下のうしかい座アルクトゥールスと、そこから右下のおとめ座のスピカで春の大三角形。目立つ星だけどわかるかな」
「わかる。本当に、星がたくさん見える。こんなの見たことなかった」
東京から4時間しか離れていないというのに、この違いはなんだろうかと真珠は驚きを通り越して呆れてしまう。田舎は真珠のイメージとは違って、遙かに色々な物が豊かだった。
川のせせらぎを聞きながら星空を眺めていると、時間を忘れてしまいそうだ。
「シロくん、冷えないかい?」
「少し冷えた」
「ホットミルク飲む?」
「飲む」
くるりと振り向いた真珠を見て、君も今日から牛乳教だねと篤宏が軽く笑った。
「布団敷いておいたよ。ゆっくり休んで」
奥まった和室に案内されると、そこには篤宏が言うように既に布団が一組敷かれていた。
さらさらとした肌触りのシーツと布団カバーには皺もなく、取り替えたばかりだとわかる。
「ありがとう、篤宏。今日は本当に助かった」
「そんなに畏まられるようなことはしてないよ。まだ明日もあるんだし、お礼は早いんじゃないかな」
布団の横に正座して篤宏に頭を下げると、篤宏が慌てたような声を上げる。
「そうだな、明日はきちんとお返しをする」
「いいっていいって。……って、それがお約束だったね。うん、それじゃ、それは明日ありがたく受けさせてもらうよ。――おやすみ、シロくん」
「ああ、おやすみ」
静かに襖が閉まっていく。カメラもその向こうに消えていった。
「明日は何時頃お邪魔していいですか」
「いつも7時頃起きるから、それ以降なら」
「わかりました、篤宏さんもおやすみなさい。氷坂くんをよろしく」
襖の向こうでディレクターと篤宏が話す声が真珠のところにも聞こえてきた。一度閉まった襖が少し開けられて、そこからディレクターが顔を出す。
「氷坂くん、今日はお疲れ様。また明日頑張ってね。おやすみなさい」
朝よりもずっと穏やかな顔をしたディレクターが挨拶を残していく。お疲れ様と返す真珠も、自分がいつもより柔らかな表情をしているとわかっていた。
夕食後の片付けが終わり、一息ついた頃に風呂を勧められた。これもまた真珠が見たことのないレバーが壁面についていて、湯沸かしはこれで操作するのだと教わった。
この家の風呂場は一般的なそこよりも少し広く、古めかしい。浴槽は真珠が見慣れている物と違って真四角で深さがあり、床も含めて水色のタイルで覆われていた。家庭の風呂というよりは、銭湯をそのまま小さくしたような趣がある。
完全にひとりになったのは、今日初めてかもしれない。一日を振り返ると、覚悟していた以上に色々なことが起こりすぎていて、既に午前中のことなど遙か昔のことに思えた。
篤宏とも随分長い間一緒にいるような気がしてしまうが、指折り数えてみれば10時間ほどしか経っていない。それが真珠には信じられなかった。
それは鳥の雛が初めて見た物を親と思うような刷り込みなのかもしれない。けれど彼がずっとそばにいてくれて助けられたと思うのは正直な気持ちだった。
深い風呂は、肩までよく温まるように湯が張られていた。十分に体が温まってほぐれると、一日の疲れも湯船から零れる湯と一緒に流れていくようだ。
湯上がりに用意してきたスウェットパンツと長袖のTシャツに袖を通し、居間へと戻る。
真珠に気付いた篤宏が手招きをしたのでそちらに寄ると、縁側に面した窓を篤宏が開いた。
流れ込む冷たい夜気が、ここは東京とは違うのだと殊更に言っているようだった。
「今日は天気が良かったから、星がよく見えるよ」
篤宏の背後には、子供の頃にプラネタリウムで見たような星空が広がっていた。数え切れないほどの星に言葉もなく真珠が見入っていると、明るい星々を指さして篤宏が星座を教えてくれた。
「周りが山だから、わかりやすいカシオペア座とかオリオン座はちょっと見えにくいね。あっちの凄く明るい星が木星で、その左上にある少し暗い星がしし座のデネボラ。その更に左下のうしかい座アルクトゥールスと、そこから右下のおとめ座のスピカで春の大三角形。目立つ星だけどわかるかな」
「わかる。本当に、星がたくさん見える。こんなの見たことなかった」
東京から4時間しか離れていないというのに、この違いはなんだろうかと真珠は驚きを通り越して呆れてしまう。田舎は真珠のイメージとは違って、遙かに色々な物が豊かだった。
川のせせらぎを聞きながら星空を眺めていると、時間を忘れてしまいそうだ。
「シロくん、冷えないかい?」
「少し冷えた」
「ホットミルク飲む?」
「飲む」
くるりと振り向いた真珠を見て、君も今日から牛乳教だねと篤宏が軽く笑った。
「布団敷いておいたよ。ゆっくり休んで」
奥まった和室に案内されると、そこには篤宏が言うように既に布団が一組敷かれていた。
さらさらとした肌触りのシーツと布団カバーには皺もなく、取り替えたばかりだとわかる。
「ありがとう、篤宏。今日は本当に助かった」
「そんなに畏まられるようなことはしてないよ。まだ明日もあるんだし、お礼は早いんじゃないかな」
布団の横に正座して篤宏に頭を下げると、篤宏が慌てたような声を上げる。
「そうだな、明日はきちんとお返しをする」
「いいっていいって。……って、それがお約束だったね。うん、それじゃ、それは明日ありがたく受けさせてもらうよ。――おやすみ、シロくん」
「ああ、おやすみ」
静かに襖が閉まっていく。カメラもその向こうに消えていった。
「明日は何時頃お邪魔していいですか」
「いつも7時頃起きるから、それ以降なら」
「わかりました、篤宏さんもおやすみなさい。氷坂くんをよろしく」
襖の向こうでディレクターと篤宏が話す声が真珠のところにも聞こえてきた。一度閉まった襖が少し開けられて、そこからディレクターが顔を出す。
「氷坂くん、今日はお疲れ様。また明日頑張ってね。おやすみなさい」
朝よりもずっと穏やかな顔をしたディレクターが挨拶を残していく。お疲れ様と返す真珠も、自分がいつもより柔らかな表情をしているとわかっていた。
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