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春の章
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田舎は嫌だと思っていたのに、たった一日を過ごしただけで真珠の世界は逆転してしまった。
東京に戻ってきたら、無事に仕事を終えてほっとするよりも雑音の多さに今更気付いて辟易する。仕事の合間に思い出すのは、近くて遠いようなあの村のことだ。
「最近ぼんやりしてるな。もっとシャキっとしろ」
また知らぬ間に遠い場所に思いを馳せていたのか、丸めた雑誌で久米に頭を叩かれた。
親戚でもあるマネージャーは、真珠に対して遠慮がない。
「すまない」
「お前の売りは自分でよくわかってるはずだろう。今のお前はワイルドでもないし、シャープでも狼でもない。ラブラドールレトリバーみたいな顔になってたぞ」
「あんたの例えは時々意味がわからない」
ぴしゃりと頬を自分で叩くと、表情を意識して引き締める。まだシェパードレベルだともう一度微妙な評価が下されて、狼と心の中で連呼しながらイメージを作る。
都会では他人が自分に無関心でいてくれる感じが好きだったが、実際はあまりそうでもないと改めて気付く。大抵いつでも人目があって、仕事モードに入っているときならそれは気にならないが、日常生活の中では煩わしく思うときがあった。
収録した番組の放映日は、撮影がタイムスケジュール通りに進んだので、夜の8時にはテレビの前にいることができた。リアルタイムで画面の中の自分を見ることができるのは珍しい。
もしかするとあの村で出会った人々も、離れた場所でこうしてテレビの前で座っているのかもしれないと思うと楽しくなる。きっとミネは正座して、篤宏と真珠が画面に映るのを心待ちにしているはずだ。
液晶画面の中の、青い空とそよぐ若葉。そして忘れられない村の駅に、篤宏の笑顔。強ばっていた自分の顔が、時間を経るにつれて徐々にほぐれていくのがよくわかった。
あの一日を僅か30分に満たない時間に切り取られていたが、映し出された全てが懐かしさを呼び起こして胸が締め付けられた。
最後に篤宏と別れたときには、自分でも驚くほど柔らかい表情をしていて、どこか満足げに見えた。車もろくに通らない道路をひとりで歩いて行く真珠の後ろ姿はだんだんと小さくなり、「一匹狼が懐いたようです」というテロップで締めくくられていた。
「一匹狼、か……」
ひとりごちた自分の声は、部屋の中に寂しく散っていく。自分が求められているのはそういったキャラクターなのだと再認識しつつも、篤宏はそんなことは言わなかったなと、ふと思い出す。
彼に言われたことといったら、「格好いい」はともかくとして「可愛い」に「綺
麗」に「いい子」だ。普段の真珠のイメージとかけ離れていること甚だしい。
ああ、あそこでは呼吸が楽にできたんだ。
真珠を知る人間が少ない場所。固定されたイメージを真珠に重ねる人がいない場所。そして、とびきりお節介で心優しい小説家が、いつでも待ってると言ってくれた家がたまらなく恋しくなった。
慌ただしくスマホを操作して、真珠は村への行き方を調べた。一日に3本しか走っていないという最寄り駅からのバスが心配だったが、本数が少ない分電車の時間に合わせてあるらしく、早朝に東京を出る電車に乗れば昼には村に着くことができる。
幸い明日からは2日連続のオフだ。始発に間に合うようにアラームをセットすると、バックパックに着替えと日用品だけを詰めて早々にベッドに潜り込んだ。真珠の心は既にあの村へと飛んでいて、夢の中で乗り込んだ電車は葉桜が作るアーチの中をくぐり抜けて走っていた。
バスを終点の村役場前で降りると、そこははっきりと見覚えのある道だった。自転車を押した篤宏と並んでここを歩いた。それほど前ではないはずなのに、とても懐かしい。
記憶を辿りながら、緩やかな坂道を登る。傾斜のきつい屋根の古民家が目に入ってきて、真珠は走り出していた。
インターホンを探したが、見当たらない。仕方なく真珠が引き戸の玄関をコンコンとノックすると、家の中から懐かしい声が返事をするのがわかった。
がらりと音を立てて扉が開き、背の高い青年が驚いて目を見開く。走ったせいで真珠の心臓は跳ねていた。
肩で息をしている真珠に、篤宏は満面の笑みを向けて短い言葉を掛けた。真珠も柔らかな笑顔で言葉を返す。
「おかえり」
「……ただいま」
誰かにただいまと言うのは、とても温かいことだと真珠は初めて知ることができた。
東京に戻ってきたら、無事に仕事を終えてほっとするよりも雑音の多さに今更気付いて辟易する。仕事の合間に思い出すのは、近くて遠いようなあの村のことだ。
「最近ぼんやりしてるな。もっとシャキっとしろ」
また知らぬ間に遠い場所に思いを馳せていたのか、丸めた雑誌で久米に頭を叩かれた。
親戚でもあるマネージャーは、真珠に対して遠慮がない。
「すまない」
「お前の売りは自分でよくわかってるはずだろう。今のお前はワイルドでもないし、シャープでも狼でもない。ラブラドールレトリバーみたいな顔になってたぞ」
「あんたの例えは時々意味がわからない」
ぴしゃりと頬を自分で叩くと、表情を意識して引き締める。まだシェパードレベルだともう一度微妙な評価が下されて、狼と心の中で連呼しながらイメージを作る。
都会では他人が自分に無関心でいてくれる感じが好きだったが、実際はあまりそうでもないと改めて気付く。大抵いつでも人目があって、仕事モードに入っているときならそれは気にならないが、日常生活の中では煩わしく思うときがあった。
収録した番組の放映日は、撮影がタイムスケジュール通りに進んだので、夜の8時にはテレビの前にいることができた。リアルタイムで画面の中の自分を見ることができるのは珍しい。
もしかするとあの村で出会った人々も、離れた場所でこうしてテレビの前で座っているのかもしれないと思うと楽しくなる。きっとミネは正座して、篤宏と真珠が画面に映るのを心待ちにしているはずだ。
液晶画面の中の、青い空とそよぐ若葉。そして忘れられない村の駅に、篤宏の笑顔。強ばっていた自分の顔が、時間を経るにつれて徐々にほぐれていくのがよくわかった。
あの一日を僅か30分に満たない時間に切り取られていたが、映し出された全てが懐かしさを呼び起こして胸が締め付けられた。
最後に篤宏と別れたときには、自分でも驚くほど柔らかい表情をしていて、どこか満足げに見えた。車もろくに通らない道路をひとりで歩いて行く真珠の後ろ姿はだんだんと小さくなり、「一匹狼が懐いたようです」というテロップで締めくくられていた。
「一匹狼、か……」
ひとりごちた自分の声は、部屋の中に寂しく散っていく。自分が求められているのはそういったキャラクターなのだと再認識しつつも、篤宏はそんなことは言わなかったなと、ふと思い出す。
彼に言われたことといったら、「格好いい」はともかくとして「可愛い」に「綺
麗」に「いい子」だ。普段の真珠のイメージとかけ離れていること甚だしい。
ああ、あそこでは呼吸が楽にできたんだ。
真珠を知る人間が少ない場所。固定されたイメージを真珠に重ねる人がいない場所。そして、とびきりお節介で心優しい小説家が、いつでも待ってると言ってくれた家がたまらなく恋しくなった。
慌ただしくスマホを操作して、真珠は村への行き方を調べた。一日に3本しか走っていないという最寄り駅からのバスが心配だったが、本数が少ない分電車の時間に合わせてあるらしく、早朝に東京を出る電車に乗れば昼には村に着くことができる。
幸い明日からは2日連続のオフだ。始発に間に合うようにアラームをセットすると、バックパックに着替えと日用品だけを詰めて早々にベッドに潜り込んだ。真珠の心は既にあの村へと飛んでいて、夢の中で乗り込んだ電車は葉桜が作るアーチの中をくぐり抜けて走っていた。
バスを終点の村役場前で降りると、そこははっきりと見覚えのある道だった。自転車を押した篤宏と並んでここを歩いた。それほど前ではないはずなのに、とても懐かしい。
記憶を辿りながら、緩やかな坂道を登る。傾斜のきつい屋根の古民家が目に入ってきて、真珠は走り出していた。
インターホンを探したが、見当たらない。仕方なく真珠が引き戸の玄関をコンコンとノックすると、家の中から懐かしい声が返事をするのがわかった。
がらりと音を立てて扉が開き、背の高い青年が驚いて目を見開く。走ったせいで真珠の心臓は跳ねていた。
肩で息をしている真珠に、篤宏は満面の笑みを向けて短い言葉を掛けた。真珠も柔らかな笑顔で言葉を返す。
「おかえり」
「……ただいま」
誰かにただいまと言うのは、とても温かいことだと真珠は初めて知ることができた。
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