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夏の章
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「そこの川で蛍が見られるんだよ」
篤宏がそんな事を言い出したのは5月のことだった。風呂上がりに冷蔵庫から出した牛乳を飲もうとしていた真珠の手がぴたりと止まる。
「蛍……?」
「そう。6月の中旬くらいかな。その辺なら間違いないと思う。君は見たこと……ないみたいだね」
真珠が目を輝かせているのがすぐわかったのか、篤宏は真珠の手から瓶を受け取りながら苦笑した。
「見てみたい」
「その頃来られるなら、一緒に見に行こうよ。実は僕もまだ一度も見たことないんだ」
「そうなのか? あんたが好きそうなことじゃないか」
「まあね。ただ、僕は右目が見えない上に、左目も凄く視力がいいってわけじゃないんだよ。
日常生活に支障はないけど、灯りもない道を川までひとりで歩くのはさすがに自殺行為だからね。舗装されている道ならなんとかいけるけど。君もよくわかってると思うけどここは本当に夜は真っ暗だから」
「ああ、そういうことか」
篤宏の説明に、なるほどと真珠は納得する。
篤宏が目のことを理由にしても、真珠はただ頷くだけで同情を見せたりはしない。篤宏が自分の目のことをさほど気にしていないことを、真珠は既に知っていた。
篤宏の家から川はたいして遠くないが、きちんとした道があるわけではない。そればかりか、川と家の間には高低差があり、川の周りには大きな石がごろごろとしている。確かにひとりで夜に出歩くのは危険そうだ。
月や星が明るく出ているときならともかく、そうではないときには篤宏の家の周りは恐ろしい程真っ暗になる。夜の闇が恐ろしいものだと真珠は思ったことはなかったが、街灯もろくにないこの村に来て初めて、真の暗闇というものを知った。
学生時代に教師が「人間は夜の闇を恐れて文明を発達させた」と言っていたことを思い出すほどで、本能的にそれに恐怖や畏怖を感じたのは確かだ。
けれど、その闇の中で見る蛍はきっと幻想的なのだろう。篤宏が説明してくれたところによると、村でも蛍の舞う川辺というものを観光的に打ち出そうとしているらしい。蛍の餌になるカワニナを増やしたり、人工飼育した蛍を放したりしているそうだ。
惜しむべきは、広報力のなさとアクセスの悪さか。その上で村の狙いもずれてるんだよ、と篤宏は肩をすくめる。近隣地域でも蛍を見ることのできる場所はあるし、宿泊施設もそれほどあるわけでもないのに、都会から数時間を掛けて来る酔狂もいない。
真珠は数少ない「都会から数時間を掛けて村を訪れる」酔狂だった。けれどそれも、篤宏の家という宿泊先があるからだ。
真珠にとっては珍しいことに、ふたりの間にはあまり遠慮というものがなかった。篤宏からしても、既にコンプレックスを打ち明け、同じ布団で寝ることまでした真珠は殊更に気安くできる相手らしい。年配者の多い村の住民と、真珠に対する態度では若干違うということに真珠は気付いていた。
篤宏は最初こそ真珠の世話を過剰に焼いたが、真珠の来訪も3回目ともなれば、その存在に慣れきったように真珠が煩わしがるようなお節介はしなくなった。真珠がこの家の様々なシステムに慣れたというのも一因だろう。
この家では好きにしていいと言われて真珠も戸惑ったが、篤宏は真珠を客ではなく家族のように扱うことにしたようだ。真珠も自分の家でするように、冷蔵庫を好きに開けて飲み物を出すし、コップは自分で洗って仕舞うようになった。
真珠がいても、篤宏は普段通りの生活を送る。真珠も、無言で読書をする篤宏が傍にいても居心地の悪さは感じない。
ここは都会で感じてしまった煩わしさから逃れられる、貴重な場所だった。
篤宏がそんな事を言い出したのは5月のことだった。風呂上がりに冷蔵庫から出した牛乳を飲もうとしていた真珠の手がぴたりと止まる。
「蛍……?」
「そう。6月の中旬くらいかな。その辺なら間違いないと思う。君は見たこと……ないみたいだね」
真珠が目を輝かせているのがすぐわかったのか、篤宏は真珠の手から瓶を受け取りながら苦笑した。
「見てみたい」
「その頃来られるなら、一緒に見に行こうよ。実は僕もまだ一度も見たことないんだ」
「そうなのか? あんたが好きそうなことじゃないか」
「まあね。ただ、僕は右目が見えない上に、左目も凄く視力がいいってわけじゃないんだよ。
日常生活に支障はないけど、灯りもない道を川までひとりで歩くのはさすがに自殺行為だからね。舗装されている道ならなんとかいけるけど。君もよくわかってると思うけどここは本当に夜は真っ暗だから」
「ああ、そういうことか」
篤宏の説明に、なるほどと真珠は納得する。
篤宏が目のことを理由にしても、真珠はただ頷くだけで同情を見せたりはしない。篤宏が自分の目のことをさほど気にしていないことを、真珠は既に知っていた。
篤宏の家から川はたいして遠くないが、きちんとした道があるわけではない。そればかりか、川と家の間には高低差があり、川の周りには大きな石がごろごろとしている。確かにひとりで夜に出歩くのは危険そうだ。
月や星が明るく出ているときならともかく、そうではないときには篤宏の家の周りは恐ろしい程真っ暗になる。夜の闇が恐ろしいものだと真珠は思ったことはなかったが、街灯もろくにないこの村に来て初めて、真の暗闇というものを知った。
学生時代に教師が「人間は夜の闇を恐れて文明を発達させた」と言っていたことを思い出すほどで、本能的にそれに恐怖や畏怖を感じたのは確かだ。
けれど、その闇の中で見る蛍はきっと幻想的なのだろう。篤宏が説明してくれたところによると、村でも蛍の舞う川辺というものを観光的に打ち出そうとしているらしい。蛍の餌になるカワニナを増やしたり、人工飼育した蛍を放したりしているそうだ。
惜しむべきは、広報力のなさとアクセスの悪さか。その上で村の狙いもずれてるんだよ、と篤宏は肩をすくめる。近隣地域でも蛍を見ることのできる場所はあるし、宿泊施設もそれほどあるわけでもないのに、都会から数時間を掛けて来る酔狂もいない。
真珠は数少ない「都会から数時間を掛けて村を訪れる」酔狂だった。けれどそれも、篤宏の家という宿泊先があるからだ。
真珠にとっては珍しいことに、ふたりの間にはあまり遠慮というものがなかった。篤宏からしても、既にコンプレックスを打ち明け、同じ布団で寝ることまでした真珠は殊更に気安くできる相手らしい。年配者の多い村の住民と、真珠に対する態度では若干違うということに真珠は気付いていた。
篤宏は最初こそ真珠の世話を過剰に焼いたが、真珠の来訪も3回目ともなれば、その存在に慣れきったように真珠が煩わしがるようなお節介はしなくなった。真珠がこの家の様々なシステムに慣れたというのも一因だろう。
この家では好きにしていいと言われて真珠も戸惑ったが、篤宏は真珠を客ではなく家族のように扱うことにしたようだ。真珠も自分の家でするように、冷蔵庫を好きに開けて飲み物を出すし、コップは自分で洗って仕舞うようになった。
真珠がいても、篤宏は普段通りの生活を送る。真珠も、無言で読書をする篤宏が傍にいても居心地の悪さは感じない。
ここは都会で感じてしまった煩わしさから逃れられる、貴重な場所だった。
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