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春の章
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ふたりがすっかり身支度を整えて布団を押し入れに仕舞った頃、昨夜予告した通りの時間にスタッフがやってきた。
「おはようございます。よく眠れましたか?」
マイクに入らないディレクターの朝の挨拶は、後々テロップになるとわかっている。
「たっぷり眠った。すごくすっきりした。今日は、泊めてもらったお礼をしっかりやるつもりだ」
カメラに向かって宣言すると、キッチンで朝食の準備を始めていた篤宏が振り返ったのが見えた。
一夜の宿の恩返しとして、何をしたらいいか。昨日この家に着いたときからそれを真珠は考え続けていた。
畑を手伝おうかと最初は思ったが、水遣り以外に何をしたらいいか見当もつかないし、いちいち篤宏に聞いて作業をするのもかえって彼の手を煩わせるだろう。
考えた末の結論は、掃除をして、床と柱を磨くことだった。一夜の礼は、篤宏だけではなくこの家に対してもするべきだと、一晩を過ごして思うようになっていた。
篤宏から畳は目に沿って箒で掃くのがいいと教わり、実際にやってみる。なるほど、日本家屋はそれに合った道具が長年使われ続けていたのだと実感した。掃除機ではなくて、はたきと箒と雑巾が、合理的なのだ。
床にはワックスを掛けようとしたが、別の方法で手入れすることになった。人が住んでいなかった間に一度は傷んだこの古い家は、伝統的な方法で手入れをされているらしい。この方法はミネから教わったのだと篤宏から説明され、その通りに米ぬかの入った袋を使って、床と柱を丁寧に磨き上げた。
力を込めて擦るたびに艶が増していくのがわかって、じわりと達成感が増していく。
家を支える大黒柱を磨きながら、真珠は心から祈った。
どうか、この心落ち着く家が、これからも永くあり続けてほしい、と。
掃除を終えると、冷えた牛乳が振る舞われた。一晩のうちにクリーム層が瓶の上の方にできていて、篤宏が瓶を振って混ぜているのを見ると物珍しさに心が弾む。
コップ一杯の甘い牛乳は、昨日よりも更に貴重な物に思えて、真珠は惜しみながらそれを飲んだ。
いよいよ篤宏の家を離れるという時間になると真珠も篤宏も言葉少なになっていて、真珠だけではなく篤宏も一緒に過ごした時間を惜しんでくれているのだと、彼の表情からわかる。
玄関を出たところで向かい合うと、篤宏になんと言葉を掛けたらいいのか考えあぐね、真珠は篤宏の顔を見られずに俯いた。
ありがとうございましたと言うべきなのだろう。しかしそれだけでは足りない。
「また……来てもいいか?」
俯いたままで呟いた言葉は、真珠の名残惜しさを篤宏に伝えるものだ。彼にはどれだけの感謝の言葉を連ねても、真珠の思いは伝わらない気がする。
「もちろん。田舎のおじいちゃんの家みたいに思ってくれていいよ。いつでも待ってる」
顔を上げると穏やかに篤宏が笑っていた。きっとこれが放映されたら、彼にはファンができるのだろう。そして、「小説家」としての榊原篤宏も、再び注目されるのだ。そうであって欲しかった。
「……さしずめあんたは、田舎のじいさんの家を引き継いだ従兄ってところか。……ありがとう」
「またね、シロくん」
「ああ、また」
別れの言葉ではなく再会を約した言葉を交わすと、晴れ晴れとした気持ちになった。
昨日と同じくらいに晴れ渡った春空の下を、村の中心に向かって歩く。振り返ると篤宏が手を振っているのが見えて、真珠は彼の姿が見えなくなるまで何度も振り返った。
「おはようございます。よく眠れましたか?」
マイクに入らないディレクターの朝の挨拶は、後々テロップになるとわかっている。
「たっぷり眠った。すごくすっきりした。今日は、泊めてもらったお礼をしっかりやるつもりだ」
カメラに向かって宣言すると、キッチンで朝食の準備を始めていた篤宏が振り返ったのが見えた。
一夜の宿の恩返しとして、何をしたらいいか。昨日この家に着いたときからそれを真珠は考え続けていた。
畑を手伝おうかと最初は思ったが、水遣り以外に何をしたらいいか見当もつかないし、いちいち篤宏に聞いて作業をするのもかえって彼の手を煩わせるだろう。
考えた末の結論は、掃除をして、床と柱を磨くことだった。一夜の礼は、篤宏だけではなくこの家に対してもするべきだと、一晩を過ごして思うようになっていた。
篤宏から畳は目に沿って箒で掃くのがいいと教わり、実際にやってみる。なるほど、日本家屋はそれに合った道具が長年使われ続けていたのだと実感した。掃除機ではなくて、はたきと箒と雑巾が、合理的なのだ。
床にはワックスを掛けようとしたが、別の方法で手入れすることになった。人が住んでいなかった間に一度は傷んだこの古い家は、伝統的な方法で手入れをされているらしい。この方法はミネから教わったのだと篤宏から説明され、その通りに米ぬかの入った袋を使って、床と柱を丁寧に磨き上げた。
力を込めて擦るたびに艶が増していくのがわかって、じわりと達成感が増していく。
家を支える大黒柱を磨きながら、真珠は心から祈った。
どうか、この心落ち着く家が、これからも永くあり続けてほしい、と。
掃除を終えると、冷えた牛乳が振る舞われた。一晩のうちにクリーム層が瓶の上の方にできていて、篤宏が瓶を振って混ぜているのを見ると物珍しさに心が弾む。
コップ一杯の甘い牛乳は、昨日よりも更に貴重な物に思えて、真珠は惜しみながらそれを飲んだ。
いよいよ篤宏の家を離れるという時間になると真珠も篤宏も言葉少なになっていて、真珠だけではなく篤宏も一緒に過ごした時間を惜しんでくれているのだと、彼の表情からわかる。
玄関を出たところで向かい合うと、篤宏になんと言葉を掛けたらいいのか考えあぐね、真珠は篤宏の顔を見られずに俯いた。
ありがとうございましたと言うべきなのだろう。しかしそれだけでは足りない。
「また……来てもいいか?」
俯いたままで呟いた言葉は、真珠の名残惜しさを篤宏に伝えるものだ。彼にはどれだけの感謝の言葉を連ねても、真珠の思いは伝わらない気がする。
「もちろん。田舎のおじいちゃんの家みたいに思ってくれていいよ。いつでも待ってる」
顔を上げると穏やかに篤宏が笑っていた。きっとこれが放映されたら、彼にはファンができるのだろう。そして、「小説家」としての榊原篤宏も、再び注目されるのだ。そうであって欲しかった。
「……さしずめあんたは、田舎のじいさんの家を引き継いだ従兄ってところか。……ありがとう」
「またね、シロくん」
「ああ、また」
別れの言葉ではなく再会を約した言葉を交わすと、晴れ晴れとした気持ちになった。
昨日と同じくらいに晴れ渡った春空の下を、村の中心に向かって歩く。振り返ると篤宏が手を振っているのが見えて、真珠は彼の姿が見えなくなるまで何度も振り返った。
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