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夏の章
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大きめの石をよけ、照らし出された木を目印に小川を目指す。繋いだ手からは確かな温もりが伝わってきて、何もかも魔法のようにできると思っていた篤宏を、真珠が導いているのだと思うと不思議な気分になる。
不意に、くすりと小さな笑いが耳元に落ちてきた。
「頼もしいなあ、シロくん」
笑いを含んだ低い篤宏の声が間近で聞こえて、それが本当に真珠を頼りにして心を許しているのがわかる。いつもと全く逆の関係だと気付いて、思わず顔が熱くなった。きっと耳まで赤くなっているのだろう。
暗くて篤宏からは見えないのが救いだ。
「あ」
小さな緑色の光が明滅しているのに気付いたのはそのときだった。
「蛍だ。もう少し行ってみようか」
さらさらというせせらぎの音がはっきりと大きくなっていく。篤宏の言葉のとおりに川へとさらに近づくと、ひとつ、またひとつとゆらりと舞う光が増えていった。
月は山際の低い位置で細い弧を描いていて、懐中電灯を消すと明かりは星と蛍だけになった。足元も見えぬほどの暗さは、しばらく目を慣らさないと歩くのにも危なっかしい。
暗さに目が慣れた頃には、か細い蛍の光は随分とその数を増やしていた。苔むした石の上、細い草の葉先、そして、低い位置を移動しながらふわりふわりと光が揺れている。
繋いだ手を離すことも忘れたまま、ふたりは並んで言葉もなく淡い光の乱舞を見つめていた。
普段お喋りな篤宏も、一言も話さない。真珠も何かを話そうとは思わなかった。
静かな光景の中で、誰かと並んで何かを見ているのは初めてだった。わくわくとしていた気持ちは楽しさだけを微かに残したままいつの間にか落ち着いていた。沈黙が心地よさを感じさせる相手は、真珠にはそういない。
「綺麗だね……もっと早く、見てみれば良かった」
しばらくして篤宏がぽつりと呟いた。
「ひとりじゃ来られなかったんだろう?」
「そうだね。うん、もちろんそれもあった」
篤宏の言葉に滲む後悔に真珠は気付いた。視線を隣の篤宏に投げかけると、彼は人形のような静かな表情で川を眺めていた。
「蛍って、成虫になると口が退化して、水を舐めるくらいしかできなくなるんだって。成虫になったら、幼虫の頃に蓄えた栄養で死ぬまでを過ごす――それは僕と同じじゃないかと思ったら、足がここに向かなかった。少しの間だけ光って、それで死んでいく虫を見る気になれなかったんだよ」
「篤宏……」
真珠は篤宏の手を強く握った。篤宏は蛍に自分を重ねていたのだ。
作家になるという夢を叶え、けれどその先へ進むことができなかった自分自身を重ね、それを苦しく思うが故にこの光景を見ることをためらっていたのだろう。
「どうして、俺に蛍が見られることを教えたんだ」
「君にこの村の綺麗な場所をたくさん見せたかった。君となら、僕も蛍を見れる気がした。
ああ、僕のすぐ近くに、こんなに綺麗なところがあったんだね。本当に僕ってくだらないことをたくさん気にしてたんだ」
「あんたは蛍じゃない」
更に手に力を込めて引き、真珠は篤宏を振り向かせた。はっとしたような顔で篤宏がこちらを見つめる。
「あんたは人間で、小説家で、何もかもまだ終わったわけじゃない。初めて会ったときに言ってたじゃないか。小説家であろうとするうちは、経験する全ては無駄にならないと思ってるって。今でも栄養を取り続けてるんだろう? 俺は、篤宏の言葉に色々教わった。俺がここに来て体験したことは何も無駄にならなかった。それは、あの時篤宏が一緒にいてくれたからだ」
強い眼差しで篤宏の目を見つめながら話す真珠に、篤宏はふうとため息を吐いた。それで張り詰めていた空気が消える。
不意に、くすりと小さな笑いが耳元に落ちてきた。
「頼もしいなあ、シロくん」
笑いを含んだ低い篤宏の声が間近で聞こえて、それが本当に真珠を頼りにして心を許しているのがわかる。いつもと全く逆の関係だと気付いて、思わず顔が熱くなった。きっと耳まで赤くなっているのだろう。
暗くて篤宏からは見えないのが救いだ。
「あ」
小さな緑色の光が明滅しているのに気付いたのはそのときだった。
「蛍だ。もう少し行ってみようか」
さらさらというせせらぎの音がはっきりと大きくなっていく。篤宏の言葉のとおりに川へとさらに近づくと、ひとつ、またひとつとゆらりと舞う光が増えていった。
月は山際の低い位置で細い弧を描いていて、懐中電灯を消すと明かりは星と蛍だけになった。足元も見えぬほどの暗さは、しばらく目を慣らさないと歩くのにも危なっかしい。
暗さに目が慣れた頃には、か細い蛍の光は随分とその数を増やしていた。苔むした石の上、細い草の葉先、そして、低い位置を移動しながらふわりふわりと光が揺れている。
繋いだ手を離すことも忘れたまま、ふたりは並んで言葉もなく淡い光の乱舞を見つめていた。
普段お喋りな篤宏も、一言も話さない。真珠も何かを話そうとは思わなかった。
静かな光景の中で、誰かと並んで何かを見ているのは初めてだった。わくわくとしていた気持ちは楽しさだけを微かに残したままいつの間にか落ち着いていた。沈黙が心地よさを感じさせる相手は、真珠にはそういない。
「綺麗だね……もっと早く、見てみれば良かった」
しばらくして篤宏がぽつりと呟いた。
「ひとりじゃ来られなかったんだろう?」
「そうだね。うん、もちろんそれもあった」
篤宏の言葉に滲む後悔に真珠は気付いた。視線を隣の篤宏に投げかけると、彼は人形のような静かな表情で川を眺めていた。
「蛍って、成虫になると口が退化して、水を舐めるくらいしかできなくなるんだって。成虫になったら、幼虫の頃に蓄えた栄養で死ぬまでを過ごす――それは僕と同じじゃないかと思ったら、足がここに向かなかった。少しの間だけ光って、それで死んでいく虫を見る気になれなかったんだよ」
「篤宏……」
真珠は篤宏の手を強く握った。篤宏は蛍に自分を重ねていたのだ。
作家になるという夢を叶え、けれどその先へ進むことができなかった自分自身を重ね、それを苦しく思うが故にこの光景を見ることをためらっていたのだろう。
「どうして、俺に蛍が見られることを教えたんだ」
「君にこの村の綺麗な場所をたくさん見せたかった。君となら、僕も蛍を見れる気がした。
ああ、僕のすぐ近くに、こんなに綺麗なところがあったんだね。本当に僕ってくだらないことをたくさん気にしてたんだ」
「あんたは蛍じゃない」
更に手に力を込めて引き、真珠は篤宏を振り向かせた。はっとしたような顔で篤宏がこちらを見つめる。
「あんたは人間で、小説家で、何もかもまだ終わったわけじゃない。初めて会ったときに言ってたじゃないか。小説家であろうとするうちは、経験する全ては無駄にならないと思ってるって。今でも栄養を取り続けてるんだろう? 俺は、篤宏の言葉に色々教わった。俺がここに来て体験したことは何も無駄にならなかった。それは、あの時篤宏が一緒にいてくれたからだ」
強い眼差しで篤宏の目を見つめながら話す真珠に、篤宏はふうとため息を吐いた。それで張り詰めていた空気が消える。
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