【完結】一泊、泊めてください

加藤伊織

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夏の章

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「ああ、もう、君ってさ……凄いよね。だから、そんな君と一緒なら、僕も自分と切り離してこの光景を楽しめる気がしたんだよ。君とここに来て良かった」

 やっと篤宏が笑った。肩から力を抜いた様子で、篤宏が無理をして笑っているのではないと真珠にもわかる。篤宏の手を離すと、真珠は手を伸ばして彼の頭をぐしゃりと撫でた。

「ははっ、誰かに頭を撫でられたのなんて何年ぶりだろう。――シロくん」
「なんだ」
「キスしていい?」

 篤宏の言葉は唐突すぎて、真珠は理解が一瞬遅れた。ぽかんとしている真珠の頬にそっと手を添えると、篤宏は低く落ち着いた声でもう一度繰り返した。

「キス、していい?」
「……振り切りすぎておかしくなったのか」
「そうじゃない。君があんまり綺麗で、格好いいなと思って。自分でも不思議だけど、自分から誰かにキスしたいって思ったのって初めてだ。嫌なら正直に言って。断られたから泊めないとか、僕はそんなに心狭くないからね」

 笑顔のままの篤宏は、彼が冗談を言っているのではないとわかる。真珠は、篤宏の手を今度は振り払うことができなかった。
 混乱しながら自分の心を探る。頬に触れる篤宏の手の感触を、何故か嫌だとは思えなかった。

「……嫌じゃない気がして、悩んでる」

 考え考え口に出した言葉で、篤宏の顔が近づいて来た。
 嫌なら、押し返せばいい。抵抗すればいい。けれど、そうする気にならないのは――。
 真珠がなおも悩んでいると、篤宏の柔らかな唇が遠慮がちにそっと真珠の唇に降りてきた。

 ただ、本当に触れるだけの軽いキスだった。

 それで終わりかと思ったら、少し角度を変えて軽く啄むようなキスが続いた。触れているだけのものから、篤宏の唇の内側を感じられるようなものへと変わっていく。
 首の後ろがぞわぞわとした。嫌悪感ではなくて、胸の奥が焼けるような感覚に真珠は戸惑いながら、それをただ受け入れていた。

 ふと、違和感を感じて真珠は篤宏の胸を押した。篤宏は離れながら、ごめんと一言呟く。

「違う。蚊に刺された」
「……え? ええ? 蚊に刺された? キスが嫌だったんじゃなくて?」
「悔しいが、キスは気持ちよかった。……あんたの服がでかいから、隙間からやられたんだぞ」

 掻いてしまわないように、痒みを我慢しながら、真珠は自分の手首をぎゅっと握った。口をへの字に曲げた真珠の顔を見て、篤宏が堪えきれずに吹き出す。

「あー、酷い。僕がしてきたキスの中で最低の終わり方だ」
「蚊のいないところにすれば良かったんだ」
「ははっ、そうだね。じゃあ、早く帰って薬を塗ろう。虫刺されの痕が残ったら大変だ」

 篤宏に促されて、真珠は再び懐中電灯を手に取った。どちらからともなく手を繋ぎ、元来た道を少し足早に戻る。家の灯りが見えたとき、篤宏が手を引かれたままで一歩後ろからシロくんと呼びかけてきた。

「また、キスしてもいいかい?」

 篤宏の甘さを含んだ声に動揺する自分を感じながら、真珠は前を向いて篤宏に顔を見せないままで返した。

「蚊のいないところならな」

 帰宅してすぐ、篤宏は救急箱を持ってきてくれた。明るいところで手首を見ると、掻くのを我慢はしていたがぷくりと小さな腫れができている。厳しい目つきで手首を見つめて痒み止めを塗る真珠に、篤宏は小さな保冷剤を手渡した。
 痛いほどの冷たさに、痒みがいくらか引いていく。
 ほっとして深く息を吐いた真珠を見て、篤宏は急に笑い始めた。笑いが止まらないようで、肩を震わせながら腹を押さえている。

「……何がおかしいんだ」
「ご、ごめ……んんっ。急に来た。蚊に刺された、って! すっごいドキドキしながらキスしてさ、君が抵抗しなかったから、オッケーなのかな、本当にいいのかなって悩みながら続けてたら、胸を押されたじゃないか。すっと背筋が冷たくなる感じがして離れたら、君が見たことないくらい真面目な顔で『蚊に刺された』って言ったんだよ!」
「刺されたんだから仕方ないじゃないか」

 篤宏がドキドキしていたと自分から言ったことに驚きつつ、それを見せないように真珠は殊更にむすりと言ってみせた。んんっ、と咳払いをして笑い声を収め、篤宏は立ち上がる。

「遅くなったけどご飯にしよう。吸われた血の分取り返さないとね」

 その言葉で、急に真珠は空腹感を感じ始めた。篤宏の料理は折り紙付きだ。ご飯にしようという一言で、不機嫌さを装いきれなくなる。自分の現金さがおかしくなるほどだ。
 篤宏が背中を向けてキッチンに向かったのを見ながら、真珠は篤宏と重ね合った自分の唇にそっと指を当てた。
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