【完結】一泊、泊めてください

加藤伊織

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秋の章

1

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 家中に漂う香ばしい匂いに、大根をおろす手を止めて真珠は玄関に目をやった。
匂いの元は、篤宏が七輪で焼いているサンマだ。
 ガスコンロにグリルがついているのだからそれで焼けばいいのではと真珠は思ったが、篤宏のこういったこだわりには口を出さないに限る。

 迂闊な事を言うと、この前のように静かな怒りを見ることになりかねない。

「たとえ雨が降っても、サンマは七輪で焼かないとダメだよ」

 音を立てて降っている雨に挑戦するように、篤宏は断固として言い切った。キッチンには火災報知器がついているので、脚立を出してわざわざその電池を抜き、濡れることのない土間――つまりは玄関で七輪に火を起こしたのだ。
 真珠もさすがに最初は呆れていたが、炭火に脂が滴って時折ジュッと音がし、白い煙が焼き魚の匂いとともにキッチンに流れるようになると、ゴクリと唾を飲み込むようになった。

 雨が降っても七輪。まるで何かの格言のようだ。篤宏がそこまで言うのならきっとうまいに違いないと、真珠はわくわくとしながら魚が焼き上がるのを眺める。

「シロくん、手が止まってる」
「ごめん」

 篤宏に指摘されて、慌てて残りの大根をおろしてしまうと、篤宏はその大根おろしを少し強めに絞った。そしてそわそわとしている真珠に炊飯器を居間へ持って行くように指示をする。

「僕がいいと言うまで、この襖は開けないでください」
「鶴の恩返しか?」
「まあ、似たようなものだよ。ちょっと待ってて」

 含み笑いをした篤宏にキッチンから追い出され、真珠は炊飯器を持って居間へと引っ込んだ。ふたつの茶碗に白いご飯をよそい、篤宏の声が掛かるのを待つ。

「お待たせ! 開けていいよ」

 襖を勢いよく開けると、両手に皿を持った篤宏が得意げな顔をして立っていた。彼が手にしているサンマの塩焼きを乗せた皿には、茶色のブチのある小さな猫が乗っていて、思わず真珠は歓声を上げた。

「……凄い!」

 篤宏は大根おろしアートを作っていたのだ。写真でなら見たことがあるが、実物を目にしたのは初めてだった。

「どうだい? 僕って凄い?」
「可愛い。猫が」
「うーん、まあ、その答えも予想の範囲内かな」

 真珠の目は皿に釘付けになっていた。各々の茶碗の前に皿を置くと、篤宏も真珠の向かいに座る。

「いただきます」
「いただきます」

 手を合わせてから箸を取るが、猫を崩せずに真珠はため息を吐いた。

「猫が崩せない、って言うんだろう?」
「どうしてわかったんだ」
「君の顔に書いてあるからね」

 けんちん汁の入った椀を持ったままで篤宏は笑った。君のことならわかってるよと言わんばかりの勝ち誇ったような彼の表情に、真珠は小さく舌打ちをした。

「そんなに難しくなかったよ。君が喜ぶなら何度でも作ってあげるから、気にしないで食べて」
「……わかった」

 渋々うなずいたものの、篤宏が器用に作った猫には箸を付けず、真珠はサンマだけを口に運んだ。一口だけで口の中にじわりと脂が広がって、まるで燻製のような風味すら感じた。

「う、うまい。こんなサンマ、初めて食べた。これなら三匹くらい食える」

 目の色を変えてぱくぱくとサンマを食べ始めた真珠に、大真面目に篤宏はうなずいた。

「煙が重要なんだよ。だから、無煙グリルじゃダメだ。家は魚臭くなるけど、雨さえ降ってなければ外でできるしね。
 最初の秋にミネさんがガスコンロで魚焼き網を使ってサンマを焼いてくれて、僕も凄く驚いたんだ。煙が凄いものって、だいたい家ではやらないじゃないか。もちろん僕も、ここまで味に違いが出るなんて知らなかったしね。七輪はその後でミネさんからもらった。これならもっと美味しいけど、炭を熾すのが面倒になったからって」

 真珠はただうなずいて、無言で箸を進めた。小骨も気にならないし、脂は甘く、塩味とのバランスが絶妙だ。

「シロくん、気に入った?」
「意味がわからないくらいうまい」
「そこに、大根おろしと醤油を乗せるとね……」
「悪魔か!?」
「そうそう。君を誘惑して堕落させようとしてる悪魔だよ」
「くっ。悪魔の誘惑なら仕方ないな」

 思い切って大根おろしアートを崩して、サンマの上に乗せて一緒に口に入れた。さっぱりとした大根の風味と醤油の香りが加わると、脂が弱まってまた別の味わいがある。どちらがより良いと決めることはできなくて、真珠は唸りながらふたつの味を交互に食べ続けた。

 はっと真珠が我に返ったときには、サンマは中骨を残して綺麗に無くなっていた。大根おろしも含めて無くなった皿を見て、呆然とつぶやく。

「ご飯が進まない焼き魚……だと?」
「ああー、やっぱりなあ。でも塩分強くするのは心配だしね。ご飯も新米だから、そのままで十分行けると思うけど」

 篤宏に勧められるままに、白いご飯だけを味わってみる。これも香りがあって、甘い。噛みしめるごとに、うまさが増していった。

「ここで食べる篤宏の料理は、本当に何でもうまいな……」

しみじみと言う真珠に、篤宏は笑って言葉を返した。

「僕も、君と食べるご飯が一番美味しいよ。何を作っても全部食べてくれるし、美味しそうに食べてくれる」
「そんなに顔に出てるものなのか?」
「他の人にわかるレベルなのかどうかは知らないけど、僕が見る限りは目尻が下がってるよ」

 篤宏が出す料理に驚くのは、知っているはずの食べ物が、知らない美味しさで出てくるからだ。少なくとも東京にいても真珠にとってうまいと思う食べ物はあるが、ここでの食事のように喜んで食べているかと思い返したら、ここまで心を満たすものではない気がした。
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