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秋の章
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「わ、悪かった」
「いや、僕が悪い! 気にしないで! ……あっ、そうそう、鹿肉! 達雄さんに鹿肉もらったんだよ!」
あたふたと身を起こして、篤宏は気恥ずかしさを誤魔化すように話題を変えると冷蔵庫に向かった。
「し、鹿肉?」
話題の転換方向が予想外すぎて真珠が呆然としていると、レバーのように濃い血の色をした肉の塊が冷凍庫から取り出された。
どれほどの重さがあるかはわからないが、かなり大きい。
「今年の猟期が始まったんだけど、冷凍庫見たら去年もらったのがまだ入ってたんだって。高タンパク低脂肪で美容にいいから、君に食べさせてやれって」
「美容にいい……くっ。美容、俺に、美容にいいって」
思わぬ言葉がツボに入って、真珠は笑いが止まらなくなった。真珠が笑うのを見てあからさまにほっとした顔の篤宏は、わざと肩をすくめてみせる。
「君、モデルだろう。気にしないのかい?」
「その単語に、美肌とかアンチエイジングのイメージが、くくっ」
「いや、美肌はともかく、お肌の曲がり角前の人間にアンチエイジングとか言わないから。
シロくんは結構筋肉がついてるし、食べるなら赤身肉がいいって知ってるだろう?」
「ああ、そうだな。それはさすがに気をつけてる。……それで、どういう料理にするんだ?」
「僕が前に食べたのは煮込みだったけど、どうせなら肉らしく食べたいよね。ローストと、焼き肉にしようか」
「いいな。楽しみにしてる」
笑いすぎて滲んだ涙を拭いながら頷いた真珠に、篤宏はやっといつもの笑顔で笑いかけてきた。
篤宏の男らしい手が、細々とした動きをするのを見るのが真珠は好きだ。一昔前のキッチンは長身の篤宏には使い勝手が悪いのだろう。前屈みになってまな板に向かっているのも、捲った袖から筋肉のついた腕が剥き出しになっているのも好きだった。
鹿肉をパックごとぬるま湯につけて解凍してから、篤宏は刃渡りが長い細身の包丁を使って、血の滲んだ塊を切り分けた。
ビニール袋の中に下ろしたニンニクと塩と鹿肉を入れて揉む。これで手に匂いを付けずに下味を擦り込めるという。下味を付けた肉はフライパンで周りを焼き固めてから、ジッパーの付いた調理パックにスパイスの入った調味液ごと漬け込まれた。
それを湯を張った炊飯器に入れて保温のボタンを押すと、篤宏は一仕事終わったと言って他の料理にかかり始めた。出汁と醤油を使ってキノコとジャガイモを煮て、その間に焼き肉用に鹿肉を切り分ける。炊飯器がローストに使われているので、一口余っているガスコンロを使って鍋でご飯を炊き始めたのにも驚いた。
「炊飯器でご飯を炊いて、鍋で肉を加熱じゃダメなのか?」
驚いて尋ねると、料理をしながら振り向かずに篤宏が答える。
「ご飯を鍋で炊くのは難しくないんだよ。でも、鍋で一定の温度をキープするのは大変だからね。君も低温殺菌の時に身に染みたろう?」
「ああ、そうか。……それじゃあ、炊飯器で殺菌したら楽にできるんじゃないのか?」
「残念! 炊飯器の保温温度が70度ちょっとあるんだよね。低温殺菌の温度を超えてるんだ」
「そうなのか……」
名案だと思ったのだが、やはり簡単にはいかないらしい。真珠ががっかりした声を出しているのに気付いて、篤宏は肩を揺らして笑うと冷蔵庫を指した。
「牛乳なら入ってるよ。よく振ってから飲んで」
「飲む」
真珠はいそいそとコップを取り出してきて、クリームの浮いた牛乳をよく振ってからそこに注いだ。一口飲んでほっと息を吐く。東京でも低温殺菌の牛乳を買うようになっていたが、やはりここで飲む牛乳は味が違った。
「シンプルに塩胡椒で焼いたのと……あとロースト。そっちは粗熱を取ってるから、先に焼き肉の方を食べちゃおうか。いただきます」
炊きたてのご飯と、ひとかけらのバターをのせた芋とキノコの煮っ転がし、そして鹿の焼き肉がテーブルに並んでいた。箸を取って手を合わせてから、真珠はまだ篤宏に告げていなかったことを口に出す。
「いただきます。そうだ、今回は休みが3日取れたんだ。だから、いつもより一日長くいられる」
篤宏が喜んでくれると思って言った一言は、逆に彼の眉を曇らせた。
「大丈夫なのかい?」
「何がだ」
篤宏の問いかけの意図がわからず、焼き肉に箸を伸ばしかけて真珠は手を止めた。真珠の表情を見た篤宏は首を振る。
「……いや、君が不安を感じてないなら、僕には何も言えることはないよ」
「不安……」
篤宏の一言がつきりと胸を刺す。それと同時に、無理をしてまで篤宏と一緒にいたくて休みを取ったのに、それを彼が素直に喜んでくれないことに腹立たしさを感じた。
「いや、僕が悪い! 気にしないで! ……あっ、そうそう、鹿肉! 達雄さんに鹿肉もらったんだよ!」
あたふたと身を起こして、篤宏は気恥ずかしさを誤魔化すように話題を変えると冷蔵庫に向かった。
「し、鹿肉?」
話題の転換方向が予想外すぎて真珠が呆然としていると、レバーのように濃い血の色をした肉の塊が冷凍庫から取り出された。
どれほどの重さがあるかはわからないが、かなり大きい。
「今年の猟期が始まったんだけど、冷凍庫見たら去年もらったのがまだ入ってたんだって。高タンパク低脂肪で美容にいいから、君に食べさせてやれって」
「美容にいい……くっ。美容、俺に、美容にいいって」
思わぬ言葉がツボに入って、真珠は笑いが止まらなくなった。真珠が笑うのを見てあからさまにほっとした顔の篤宏は、わざと肩をすくめてみせる。
「君、モデルだろう。気にしないのかい?」
「その単語に、美肌とかアンチエイジングのイメージが、くくっ」
「いや、美肌はともかく、お肌の曲がり角前の人間にアンチエイジングとか言わないから。
シロくんは結構筋肉がついてるし、食べるなら赤身肉がいいって知ってるだろう?」
「ああ、そうだな。それはさすがに気をつけてる。……それで、どういう料理にするんだ?」
「僕が前に食べたのは煮込みだったけど、どうせなら肉らしく食べたいよね。ローストと、焼き肉にしようか」
「いいな。楽しみにしてる」
笑いすぎて滲んだ涙を拭いながら頷いた真珠に、篤宏はやっといつもの笑顔で笑いかけてきた。
篤宏の男らしい手が、細々とした動きをするのを見るのが真珠は好きだ。一昔前のキッチンは長身の篤宏には使い勝手が悪いのだろう。前屈みになってまな板に向かっているのも、捲った袖から筋肉のついた腕が剥き出しになっているのも好きだった。
鹿肉をパックごとぬるま湯につけて解凍してから、篤宏は刃渡りが長い細身の包丁を使って、血の滲んだ塊を切り分けた。
ビニール袋の中に下ろしたニンニクと塩と鹿肉を入れて揉む。これで手に匂いを付けずに下味を擦り込めるという。下味を付けた肉はフライパンで周りを焼き固めてから、ジッパーの付いた調理パックにスパイスの入った調味液ごと漬け込まれた。
それを湯を張った炊飯器に入れて保温のボタンを押すと、篤宏は一仕事終わったと言って他の料理にかかり始めた。出汁と醤油を使ってキノコとジャガイモを煮て、その間に焼き肉用に鹿肉を切り分ける。炊飯器がローストに使われているので、一口余っているガスコンロを使って鍋でご飯を炊き始めたのにも驚いた。
「炊飯器でご飯を炊いて、鍋で肉を加熱じゃダメなのか?」
驚いて尋ねると、料理をしながら振り向かずに篤宏が答える。
「ご飯を鍋で炊くのは難しくないんだよ。でも、鍋で一定の温度をキープするのは大変だからね。君も低温殺菌の時に身に染みたろう?」
「ああ、そうか。……それじゃあ、炊飯器で殺菌したら楽にできるんじゃないのか?」
「残念! 炊飯器の保温温度が70度ちょっとあるんだよね。低温殺菌の温度を超えてるんだ」
「そうなのか……」
名案だと思ったのだが、やはり簡単にはいかないらしい。真珠ががっかりした声を出しているのに気付いて、篤宏は肩を揺らして笑うと冷蔵庫を指した。
「牛乳なら入ってるよ。よく振ってから飲んで」
「飲む」
真珠はいそいそとコップを取り出してきて、クリームの浮いた牛乳をよく振ってからそこに注いだ。一口飲んでほっと息を吐く。東京でも低温殺菌の牛乳を買うようになっていたが、やはりここで飲む牛乳は味が違った。
「シンプルに塩胡椒で焼いたのと……あとロースト。そっちは粗熱を取ってるから、先に焼き肉の方を食べちゃおうか。いただきます」
炊きたてのご飯と、ひとかけらのバターをのせた芋とキノコの煮っ転がし、そして鹿の焼き肉がテーブルに並んでいた。箸を取って手を合わせてから、真珠はまだ篤宏に告げていなかったことを口に出す。
「いただきます。そうだ、今回は休みが3日取れたんだ。だから、いつもより一日長くいられる」
篤宏が喜んでくれると思って言った一言は、逆に彼の眉を曇らせた。
「大丈夫なのかい?」
「何がだ」
篤宏の問いかけの意図がわからず、焼き肉に箸を伸ばしかけて真珠は手を止めた。真珠の表情を見た篤宏は首を振る。
「……いや、君が不安を感じてないなら、僕には何も言えることはないよ」
「不安……」
篤宏の一言がつきりと胸を刺す。それと同時に、無理をしてまで篤宏と一緒にいたくて休みを取ったのに、それを彼が素直に喜んでくれないことに腹立たしさを感じた。
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