【完結】一泊、泊めてください

加藤伊織

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冬の章

1

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 篤宏からは何度か留守電が入った。着信拒否にすることはどうしてもできず、ただ真珠を心配しているメッセージが消せないままで何件も残っている。
 メッセージの再生が終わった後にゴミ箱のアイコンを押せず、真珠はそのまま通話アプリを落とす。篤宏が恋しくてたまらないときには、繰り返しその声を聞いていた。

 久米に以前言った通り、真珠が自分から休みを求めることはない。以前よりももっと仕事に打ち込むようになっていた。
 今の真珠には、そうすることしかできなかった。

「海外産ミネラルウォーターのCMオーディションに通った」

 突然の久米の言葉に、真珠はミーティングブースのテーブルに肘をついたままで、怪訝な顔をした。

「CM? そんな話聞いてない」
「俺が独断で応募した」

 厳しい声で問いかけたが、返された久米の言葉は揺らぎなく、端的だった。

「俺はテレビタレントになった覚えはない。あんたは俺に何をさせたいんだ?」
「何をさせたい、だと? 今のお前はなんでもやるべきだ。どう見ても自分の在り方に迷ってる。今のお前は、自分に何が向いていて、自分が何を目指しているのか、はっきりと言えるのか?」

 沈鬱な面持ちで口をつぐんだ真珠に、久米は更に厳しい調子で言葉を重ねた。

「ファッションモデルとしての勉強のために海外に2年くらい行けと言われたら、お前はそれを受けることができるのか? 1年前のお前ならすぐにうなずいただろうが、田舎へ行くために休みを調整するようなお前が、イエスと言えるわけない」
「……そんな話があったのか?」
「お前に答える必要を感じない」

 酸素を求めて喘ぐ魚のように苦しげな真珠を一瞥すると、久米はファイルを置いて背を向けた。部屋を出る間際に、一言だけを言い残して。

「それが資料だ。打ち合わせの前に目を通しておけ」

 残された真珠は、ぺらりと紙をめくりながら小さく呟いた。

「海外でもどこへでも行くさ。……今の俺なら」


 真珠を抜擢した広告代理店の担当者とは、間もなく顔を合わせることになった。年の頃は40代の半ばだろうか。名刺を受け取って村井という名と役職を確認する。チーフプロデューサーという肩書きは年齢と釣り合っていたが、彼がひとりでふらりと事務所を訪れてきたことに真珠は驚いていた。

「本番の打ち合わせの前に、一緒に食事でもと誘いに来たんだよ」

 村井の言葉に、これは女性にあるという枕営業のことなのかと真珠が一瞬邪推をしていると、少し出っ張り気味の腹を揺らして彼は豪快に笑った。

「うちの家訓は、『いい仕事をしたいなら、一緒に飯を食え』と言うんだ」

 ――なんだそれは、面倒な家訓だな。
 内心で眉をひそめたが、真珠は顔には出さなかった。昔の自分なら断ったかもしれない。
 しかし、何事も仕事のためならば無駄にはならないと、これは顔を売って間口を広げるためなのだと、今の真珠は納得することができる。更に久米も同行することがわかって、真珠は安心した。

 タクシーで向かった先は、隠れ家的とも言えるような、こぢんまりとしたビストロだった。
 軽く見渡しても10席ほどの店内はテーブル席だけで、当たり前のように普通の席に着く。村井が人に聞かれて困る話などをするつもりはないと、それだけでよくわかった。
 既に予約とメニューの希望は伝えてあったのだろう。食べられないものはあるかと事務所を出る前に聞かれていたが、特にダメなものはないと答えていたため、ドリンクのメニューだけが出された。

 アルコールを飲むつもりはなかったのでスパークリングウォーターを注文すると、村井がニコニコとしていた。

「それ、今度やる商品と同じメーカーのでね。気を遣わせたみたいで悪いなあ」
「あ……」

 彼の言葉で、自分が商品のメーカーをきちんと覚えていないことに気付いてしまった。久米がちらりと真珠を見て、大仰にため息を吐いてみせる。

「こいつは忘れてましたね。ただ好きだから注文しただけですよ」
「そうなのかい? でも、自社の製品ってわけじゃないけど、自分の関わったものが選ばれるというのは嬉しいねえ。ああ、私は赤ワインで。久米さんもいけるならボトルで注文しようか」
「いただきます」

 遠慮なくきっぱりとした久米の返事に村井は顔をほころばせ、飲む体制に入ったふたりはいそいそとジャケットを脱いでネクタイを緩めた。

「今回は新ブランドの製品になるから、他のCMとかで特定のイメージが付いていない人が欲しくてね。ワイルドさとナチュラルさが同時にあって、これから伸びていきそうな勢いのあるキャラクターがよかった。氷坂くんはファッションモデルだけじゃなくて活躍の幅も広がってるし、こちらも新商品の顔として一からイメージを作っていくのに相応しいと思ったよ」
「……ありがとうございます」

 村井は確かに人が良さそうだが、ここまで褒められるとは思っていなかった。ちらりと頭をよぎったのは、このCMが流れるようになったら、あの村の人達はきっと喜んでくれるだろうということだ。

「君は声もいいんだよね。話すときも落ち着いてるし、媚びがない感じがいいよ。企画の段階ではナレーションはそっちのプロを使うつもりだったけど、君の出てるVTRを見て意見が変わってね。ナチュラルさを求めるなら、本人にそのまま話してもらった方がいいんじゃないかっていうことになった。……おっと、料理が来たね。食べながら話そうか。
 私の生まれは北海道で、叔父が狩猟をしていたんだ。エゾシカは子供の頃からたまに食べたけども、最近ではジビエブームで扱う店が東京でも増えたね」
「エゾシカですか。なるほど、赤ワインですね」

 料理と一緒に運ばれてきたボトルから、久米がふたつのグラスに深い色の赤ワインを注ぐ。グラスの中で揺れる伸びのある色合いは、それが良い品だということを示していた。
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