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冬の章
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「久米さんはいける口かな」
「そうですね。まし……氷坂が飲まない分は俺がしっかりいただきます」
「親しいんだねえ」
「親戚なので。お互いこの仕事を始める前からの付き合いですから」
大皿に盛られた料理を、取り分けて食べるのがこの店のスタイルだった。久米がすぐに小皿に肉を取り分けてくれる。ローストは箸で食べられるようなサイズに既に切られていて、黒いソースがかかっていた。
厚めに切られたエゾシカのローストは、噛むとじわりと口の中で肉汁が広がった。赤ワインとカシスのソースは肉とよく合っていて、癖もないので鹿と言わなければわからなかったかもしれない。
ただ、切り口の色だけが篤宏の作ったローストと同じだった。真珠があの時に食べたのがエゾシカだったのかどうかはわからなかったが、こうして同じ料理を出されると、どうしても比べてしまう。
こんなに洒落た料理でなくていい。今は硬い焼き肉でも懐かしい。
篤宏の料理が食べたかった。
「氷坂くん、鹿肉は初めてかな?」
真珠が肉をしげしげと見ていたので、村井にそんな疑問を持たせてしまったらしい。真珠は素直に答えることにした。
「田舎で食べました」
「へえ、田舎で。君の田舎ってどこなんだい?」
「俺は……東京です。田舎というのは、その、友人のところで」
「ああ、番組で行ってたところか。凄く田舎だったね。何もないと思っただろう?」
相変わらずニコニコとした村井の言葉には他意はなかったのだろう。けれど、真珠はそこにひっかかりを覚えてしまった。
なんにもない――そんなことはない。
あそこには川のせせらぎも、軽やかに歌う鳥の声も、緑の匂いも、心落ち着く空間も、何もかもあった。なかったのは、煩わしい人間関係くらいだ。
声を荒げて反論したくなったが、ぐっとこらえた。
あの場所が恋しい。篤宏のいるあそこに帰りたい。
でも、もう帰れない。
そもそも元からあそこは「帰る」場所ではないはずだった。
「田舎を何もないところだと、思ってません。東京より、ずっといろいろなものが豊かでした」
苦しげな真珠の声の中に田舎への憧憬を感じ取ったのか、村井は目を細くして微笑んだ。
「そう思えたなら、君にとってはそこは良いところだったんだろう。都会の若者は田舎にあるものに価値を感じにくいからね。――良い人達に会ってきたんだね」
まるであの村で出会った人達のような、目の前の相手を慈しむような眼差し。それを村井は真珠に向けていた。クライアントという立場ではなく、今の彼は年長者として真珠を見守るような顔をしている。
目頭が熱くなるのを感じながら、真珠はうなずいた。
「……はい」
村井がトイレへと立ったときに、真珠は赤ワインをぐいぐいと飲んでいる久米に声を掛けた。
「いきなり真珠と呼ぼうとするなんて、あんたにしては珍しく口を滑らせたな」
「気さくなタイプには親近感をアピールしろ。向こうもそれは織り込み済みだからな。あの笑顔はひとつの武器だぞ。相手の警戒心を緩めて自分に引き込むためのな」
急に冷静な声が返ってきて、真珠は驚いて久米の横顔を見つめた。酒で上機嫌な男ではなくて、いつもの久米がそこにはいる。
「狙ってやったのか」
「お前もこれからはそういうことを考える必要があるぞ。服と同じだ。相応しいところで相応しいものを使え。まあ、今日のお前は素直だったからな。世間の多くに広まってる一匹狼イメージじゃなくて、素の氷坂真珠を見られたと村井さんは思ってくれる。お前が田舎というものを嫌っていないのもポイントが高いな、なにせ自然が売りのミネラルウォーターだ」
「俺は、そういうのが」
「苦手なのはわかってる。だったらせめて、好感を得たポイントを忘れないようにしろ」
「ああ……」
村井が帰ってくる前にと、真珠はそっとため息を吐いた。
ここでは、笑顔ひとつにも裏の意味を探られてしまう。誰にでも心を開いていけるならば多くの人を引き込めるだろう。だが真珠にはそんなことはできない。
ただ楽しいときに笑い、多少の打算はあっても人を思いやることで地域の生活を成り立たせているあの場所とは、何もかもがあまりに遠い。
帰りたい。
心の底から真珠はそう思った。
「そうですね。まし……氷坂が飲まない分は俺がしっかりいただきます」
「親しいんだねえ」
「親戚なので。お互いこの仕事を始める前からの付き合いですから」
大皿に盛られた料理を、取り分けて食べるのがこの店のスタイルだった。久米がすぐに小皿に肉を取り分けてくれる。ローストは箸で食べられるようなサイズに既に切られていて、黒いソースがかかっていた。
厚めに切られたエゾシカのローストは、噛むとじわりと口の中で肉汁が広がった。赤ワインとカシスのソースは肉とよく合っていて、癖もないので鹿と言わなければわからなかったかもしれない。
ただ、切り口の色だけが篤宏の作ったローストと同じだった。真珠があの時に食べたのがエゾシカだったのかどうかはわからなかったが、こうして同じ料理を出されると、どうしても比べてしまう。
こんなに洒落た料理でなくていい。今は硬い焼き肉でも懐かしい。
篤宏の料理が食べたかった。
「氷坂くん、鹿肉は初めてかな?」
真珠が肉をしげしげと見ていたので、村井にそんな疑問を持たせてしまったらしい。真珠は素直に答えることにした。
「田舎で食べました」
「へえ、田舎で。君の田舎ってどこなんだい?」
「俺は……東京です。田舎というのは、その、友人のところで」
「ああ、番組で行ってたところか。凄く田舎だったね。何もないと思っただろう?」
相変わらずニコニコとした村井の言葉には他意はなかったのだろう。けれど、真珠はそこにひっかかりを覚えてしまった。
なんにもない――そんなことはない。
あそこには川のせせらぎも、軽やかに歌う鳥の声も、緑の匂いも、心落ち着く空間も、何もかもあった。なかったのは、煩わしい人間関係くらいだ。
声を荒げて反論したくなったが、ぐっとこらえた。
あの場所が恋しい。篤宏のいるあそこに帰りたい。
でも、もう帰れない。
そもそも元からあそこは「帰る」場所ではないはずだった。
「田舎を何もないところだと、思ってません。東京より、ずっといろいろなものが豊かでした」
苦しげな真珠の声の中に田舎への憧憬を感じ取ったのか、村井は目を細くして微笑んだ。
「そう思えたなら、君にとってはそこは良いところだったんだろう。都会の若者は田舎にあるものに価値を感じにくいからね。――良い人達に会ってきたんだね」
まるであの村で出会った人達のような、目の前の相手を慈しむような眼差し。それを村井は真珠に向けていた。クライアントという立場ではなく、今の彼は年長者として真珠を見守るような顔をしている。
目頭が熱くなるのを感じながら、真珠はうなずいた。
「……はい」
村井がトイレへと立ったときに、真珠は赤ワインをぐいぐいと飲んでいる久米に声を掛けた。
「いきなり真珠と呼ぼうとするなんて、あんたにしては珍しく口を滑らせたな」
「気さくなタイプには親近感をアピールしろ。向こうもそれは織り込み済みだからな。あの笑顔はひとつの武器だぞ。相手の警戒心を緩めて自分に引き込むためのな」
急に冷静な声が返ってきて、真珠は驚いて久米の横顔を見つめた。酒で上機嫌な男ではなくて、いつもの久米がそこにはいる。
「狙ってやったのか」
「お前もこれからはそういうことを考える必要があるぞ。服と同じだ。相応しいところで相応しいものを使え。まあ、今日のお前は素直だったからな。世間の多くに広まってる一匹狼イメージじゃなくて、素の氷坂真珠を見られたと村井さんは思ってくれる。お前が田舎というものを嫌っていないのもポイントが高いな、なにせ自然が売りのミネラルウォーターだ」
「俺は、そういうのが」
「苦手なのはわかってる。だったらせめて、好感を得たポイントを忘れないようにしろ」
「ああ……」
村井が帰ってくる前にと、真珠はそっとため息を吐いた。
ここでは、笑顔ひとつにも裏の意味を探られてしまう。誰にでも心を開いていけるならば多くの人を引き込めるだろう。だが真珠にはそんなことはできない。
ただ楽しいときに笑い、多少の打算はあっても人を思いやることで地域の生活を成り立たせているあの場所とは、何もかもがあまりに遠い。
帰りたい。
心の底から真珠はそう思った。
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