【完結】一泊、泊めてください

加藤伊織

文字の大きさ
46 / 51
冬の章

2

しおりを挟む
「久米さんはいける口かな」
「そうですね。まし……氷坂が飲まない分は俺がしっかりいただきます」
「親しいんだねえ」
「親戚なので。お互いこの仕事を始める前からの付き合いですから」

 大皿に盛られた料理を、取り分けて食べるのがこの店のスタイルだった。久米がすぐに小皿に肉を取り分けてくれる。ローストは箸で食べられるようなサイズに既に切られていて、黒いソースがかかっていた。
 厚めに切られたエゾシカのローストは、噛むとじわりと口の中で肉汁が広がった。赤ワインとカシスのソースは肉とよく合っていて、癖もないので鹿と言わなければわからなかったかもしれない。

 ただ、切り口の色だけが篤宏の作ったローストと同じだった。真珠があの時に食べたのがエゾシカだったのかどうかはわからなかったが、こうして同じ料理を出されると、どうしても比べてしまう。

 こんなに洒落た料理でなくていい。今は硬い焼き肉でも懐かしい。
 篤宏の料理が食べたかった。

「氷坂くん、鹿肉は初めてかな?」

 真珠が肉をしげしげと見ていたので、村井にそんな疑問を持たせてしまったらしい。真珠は素直に答えることにした。

「田舎で食べました」
「へえ、田舎で。君の田舎ってどこなんだい?」
「俺は……東京です。田舎というのは、その、友人のところで」
「ああ、番組で行ってたところか。凄く田舎だったね。何もないと思っただろう?」

 相変わらずニコニコとした村井の言葉には他意はなかったのだろう。けれど、真珠はそこにひっかかりを覚えてしまった。

 なんにもない――そんなことはない。
 あそこには川のせせらぎも、軽やかに歌う鳥の声も、緑の匂いも、心落ち着く空間も、何もかもあった。なかったのは、煩わしい人間関係くらいだ。

 声を荒げて反論したくなったが、ぐっとこらえた。
 あの場所が恋しい。篤宏のいるあそこに帰りたい。

 でも、もう帰れない。
 そもそも元からあそこは「帰る」場所ではないはずだった。

「田舎を何もないところだと、思ってません。東京より、ずっといろいろなものが豊かでした」

 苦しげな真珠の声の中に田舎への憧憬を感じ取ったのか、村井は目を細くして微笑んだ。

「そう思えたなら、君にとってはそこは良いところだったんだろう。都会の若者は田舎にあるものに価値を感じにくいからね。――良い人達に会ってきたんだね」

 まるであの村で出会った人達のような、目の前の相手を慈しむような眼差し。それを村井は真珠に向けていた。クライアントという立場ではなく、今の彼は年長者として真珠を見守るような顔をしている。
 目頭が熱くなるのを感じながら、真珠はうなずいた。

「……はい」


 村井がトイレへと立ったときに、真珠は赤ワインをぐいぐいと飲んでいる久米に声を掛けた。

「いきなり真珠と呼ぼうとするなんて、あんたにしては珍しく口を滑らせたな」
「気さくなタイプには親近感をアピールしろ。向こうもそれは織り込み済みだからな。あの笑顔はひとつの武器だぞ。相手の警戒心を緩めて自分に引き込むためのな」

 急に冷静な声が返ってきて、真珠は驚いて久米の横顔を見つめた。酒で上機嫌な男ではなくて、いつもの久米がそこにはいる。

「狙ってやったのか」
「お前もこれからはそういうことを考える必要があるぞ。服と同じだ。相応しいところで相応しいものを使え。まあ、今日のお前は素直だったからな。世間の多くに広まってる一匹狼イメージじゃなくて、素の氷坂真珠を見られたと村井さんは思ってくれる。お前が田舎というものを嫌っていないのもポイントが高いな、なにせ自然が売りのミネラルウォーターだ」
「俺は、そういうのが」
「苦手なのはわかってる。だったらせめて、好感を得たポイントを忘れないようにしろ」
「ああ……」

 村井が帰ってくる前にと、真珠はそっとため息を吐いた。
 ここでは、笑顔ひとつにも裏の意味を探られてしまう。誰にでも心を開いていけるならば多くの人を引き込めるだろう。だが真珠にはそんなことはできない。
 ただ楽しいときに笑い、多少の打算はあっても人を思いやることで地域の生活を成り立たせているあの場所とは、何もかもがあまりに遠い。

 帰りたい。

 心の底から真珠はそう思った。
しおりを挟む
感想 10

あなたにおすすめの小説

ブラック企業で倒れた私を、ネトゲ仲間の社長が強制保護して溺愛しています

紅 与一
恋愛
過労で倒れた私を救ったのは、 ネトゲ仲間――そしてIT企業の若き社長。 「もう君は、僕の管理下だよ」 退院と同時に退職手続きは完了。 住む場所も、生活も、すべて彼に囲われた。 外出制限、健康管理、過保護な独占欲。 甘くて危険な“保護生活”の中で、 私は少しずつ彼に心を奪われていく――。 元社畜OL×執着気味の溺愛社長 囲い込み同棲ラブストーリー。

完結 辺境伯様に嫁いで半年、完全に忘れられているようです   

ヴァンドール
恋愛
実家でも忘れられた存在で 嫁いだ辺境伯様にも離れに追いやられ、それすら 忘れ去られて早、半年が過ぎました。

異世界転生したおっさんが普通に生きる

カジキカジキ
ファンタジー
 第18回 ファンタジー小説大賞 読者投票93位 応援頂きありがとうございました!  異世界転生したおっさんが唯一のチートだけで生き抜く世界  主人公のゴウは異世界転生した元冒険者  引退して狩をして過ごしていたが、ある日、ギルドで雇った子どもに出会い思い出す。  知識チートで町の食と環境を改善します!! ユルくのんびり過ごしたいのに、何故にこんなに忙しい!?

『冷徹社長の秘書をしていたら、いつの間にか専属の妻に選ばれました』

鍛高譚
恋愛
秘書課に異動してきた相沢結衣は、 仕事一筋で冷徹と噂される社長・西園寺蓮の専属秘書を務めることになる。 厳しい指示、膨大な業務、容赦のない会議―― 最初はただ必死に食らいつくだけの日々だった。 だが、誰よりも真剣に仕事と向き合う蓮の姿に触れるうち、 結衣は秘書としての誇りを胸に、確かな成長を遂げていく。 そして、蓮もまた陰で彼女を支える姿勢と誠実な仕事ぶりに心を動かされ、 次第に結衣は“ただの秘書”ではなく、唯一無二の存在になっていく。 同期の嫉妬による妨害、ライバル会社の不正、社内の疑惑。 数々の試練が二人を襲うが―― 蓮は揺るがない意志で結衣を守り抜き、 結衣もまた社長としてではなく、一人の男性として蓮を信じ続けた。 そしてある夜、蓮がようやく口にした言葉は、 秘書と社長の関係を静かに越えていく。 「これからの人生も、そばで支えてほしい。」 それは、彼が初めて見せた弱さであり、 結衣だけに向けた真剣な想いだった。 秘書として。 一人の女性として。 結衣は蓮の差し伸べた未来を、涙と共に受け取る――。 仕事も恋も全力で駆け抜ける、 “冷徹社長×秘書”のじれ甘オフィスラブストーリー、ここに完結。

異世界ママ、今日も元気に無双中!

チャチャ
ファンタジー
> 地球で5人の子どもを育てていた明るく元気な主婦・春子。 ある日、建設現場の事故で命を落としたと思ったら――なんと剣と魔法の異世界に転生!? 目が覚めたら村の片隅、魔法も戦闘知識もゼロ……でも家事スキルは超一流! 「洗濯魔法? お掃除召喚? いえいえ、ただの生活の知恵です!」 おせっかい上等! お節介で世界を変える異世界ママ、今日も笑顔で大奮闘! 魔法も剣もぶっ飛ばせ♪ ほんわかテンポの“無双系ほんわかファンタジー”開幕!

身を引いたのに、皇帝からの溺愛が止まりません ~秘された珠の還る場所~

ささゆき細雪
恋愛
五年前、内乱の混乱のなかで姿を消した最愛の妃・白瑤華(はくようか)。 彼女を失った皇帝・景玄耀(けいげんよう)は、その後ただ一人を想い続けながら執務に追われていた。そんなある日、書類に彼女の名前を発見し、居ても立っても居られなくなる。 ――死んだはずの彼女が、生きている? 同姓同名かもしれないが確かめずにいられなくなった彼は地方巡察を決行。そこで、彼によく似た幼子とともに彼女と再会、地方官吏として働く瑤華と、珠児(しゅじ)を見て、皇帝は決意する――もう二度と、逃がさないと。 「今さら、逃げ道があると思うなよ」 瑤華を玄耀は責めずに、待ちの姿勢で包み込み、囲い込んでいく。 秘された皇子と、選び直した愛。 三人で食卓を囲む幸福が、国をも動かすことになるなんて――?    * * * 後宮から逃げ出して身を引いたのに、皇帝の溺愛は止まらない――これはそんな、中華風異世界ロマンス。

押しつけられた身代わり婚のはずが、最上級の溺愛生活が待っていました

cheeery
恋愛
名家・御堂家の次女・澪は、一卵性双生の双子の姉・零と常に比較され、冷遇されて育った。社交界で華やかに振る舞う姉とは対照的に、澪は人前に出されることもなく、ひっそりと生きてきた。 そんなある日、姉の零のもとに日本有数の財閥・凰条一真との縁談が舞い込む。しかし凰条一真の悪いウワサを聞きつけた零は、「ブサイクとの結婚なんて嫌」と当日に逃亡。 双子の妹、澪に縁談を押し付ける。 両親はこんな機会を逃すわけにはいかないと、顔が同じ澪に姉の代わりになるよう言って送り出す。 「はじめまして」 そうして出会った凰条一真は、冷徹で金に汚いという噂とは異なり、端正な顔立ちで品位のある落ち着いた物腰の男性だった。 なんてカッコイイ人なの……。 戸惑いながらも、澪は姉の零として振る舞うが……澪は一真を好きになってしまって──。 「澪、キミを探していたんだ」 「キミ以外はいらない」

捨てられた王妃は情熱王子に攫われて

きぬがやあきら
恋愛
厳しい外交、敵対勢力の鎮圧――あなたと共に歩む未来の為に手を取り頑張って来て、やっと王位継承をしたと思ったら、祝賀の夜に他の女の元へ通うフィリップを目撃するエミリア。 貴方と共に国の繁栄を願って来たのに。即位が叶ったらポイなのですか?  猛烈な抗議と共に実家へ帰ると啖呵を切った直後、エミリアは隣国ヴァルデリアの王子に攫われてしまう。ヴァルデリア王子の、エドワードは影のある容姿に似合わず、強い情熱を秘めていた。私を愛しているって、本当ですか? でも、もうわたくしは誰の愛も信じたくないのです。  疑心暗鬼のエミリアに、エドワードは誠心誠意向に向き合い、愛を得ようと少しずつ寄り添う。一方でエミリアの失踪により国政が立ち行かなくなるヴォルティア王国。フィリップは自分の功績がエミリアの内助であると思い知り―― ざまあ系の物語です。

処理中です...