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冬の章
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そこからの撮影は順調に進んだ。以前よりも繊細さと深みを増した真珠の表情に、池田は次々と指示を出しながら数え切れないほどシャッターを切る。
その場で一度確認したが、久々に会心のショットが撮れたと真珠は思った。編集者も池田も久米も、満足げに頷いている。
お疲れ様でした、と編集者の声が響いたときには、やりきったという満足感で胸が満たされていた。
「調子は戻ったか?」
「ああ、和也にも心配を掛けた。悪かったな」
憑き物が落ちたように穏やかな顔をした真珠を、久米はじっと見つめている。
「確かに調子は戻ったようだが、昔のお前と同じわけじゃない。それは成長したと思っておくことにするか……。仕事に支障はだすな。俺が言うのはそれだけだ」
「ああ、プロだからな。累にも、あんたをあまり心配させるなって言われたぞ。早々に禿げそうだから、って」
「なんだそれは。あいつはいつも一言多いな! ともあれ、累にも後で礼を言わないといけないな。ああ、これはお前にやる。クリスマスプレゼントだと思って取っておけ」
久米に押しつけられたのは、書店の名前がプリントされたネイビーの袋だ。久米からものをもらうこと自体が珍しいが、クリスマスプレゼントと言われたら更に驚きを通り越して不信感すら覚える。
その場で袋を開けて中を確認すると、ハードカバーの本が一冊入っていた。それを見た瞬間、真珠の心臓は急に生きていることを思い出したように、激しく音を立て始めた。
震える手で引き出した本は、榊原篤宏という著者の名前が入っている。
「読んでないだろう。厚さの割りには読むのに時間がかからない本だ。ここを出たらすぐに読め」
声も出せずに、ただ真珠は本を抱いて頷いた。もう二度と関わることができないと思っていた篤宏の存在が、急に間近に感じられたようだった。
スタジオを出てから、真珠は目の前のコーヒーショップに駆け込んだ。一番安いハウスブレンドを注文して席に着き、はやる気持ちを抑えながら袋を開けて、手触りの良い紙を繰る。
読書など、とんでもなく久しぶりだった。けれども活字はすんなりと目に入ってきて、文章は身近な言葉で綴られている。すぐに真珠は、本の世界に没頭していった。
物語は「私」の目線を通して描かれていた。様々なことに傷つき、仕事としがらみに疲れ果てた「私」は半ば逃げるように先を急ぎながら当て処のない旅をしていた。
そんな「私」が辿り着いた場所は、もうじき冬を迎える山間の村。通り過ぎるだけのつもりだったが、雪に閉ざされた村で一冬を過ごし、図らずも人々と深く関わり合う中で徐々に人間らしい感情を取り戻していく。
これは、篤宏の経験から編み出された物語なのだ。
ノンフィクションではなかった。真珠の知る限りでも、あくまであの村と篤宏はモデルの一部ではあるが、完全に同一ではない。
生きることに意味を見いだせなくなっていた「私」は、この場所で暮らすうちに生きていくことが本当はどれだけ大変なのか、日々の労働が何をもたらすのかの意味を自分なりに感じるようになっていった。子供の頃に読んだアメリカの開拓時代を描いた小説のような、生きることと働くこと、そして食べることが全て繋がった暮らしは、厳しくはあったが確かな意味を持って「私」の心に根ざす。
そして、雪解けの頃には、初めて「世界で一番大事」だと思えた人が隣にいて、「私」は生まれ変わったような心持ちで、この場所で生きていくことを決める――。
ストーリーだけを追えば、重い話にも思えた。けれど、「私」の目から見る様々なものは優しさに満ちていて、決して読んでいる人間を苦しい気持ちにはさせない。
いつの間にか真珠は、「私」と同化して物語の季節の中を歩んでいた。慈しまれ、人と関わり合う中で、「私」は再生していった。自分の内側に抱えた傷すらも、意識が飛んだ先の村の空気を吸うことで癒やされていく。
最後のページに辿り着いて、それを読み終わると、現実と物語の境界が揺らいでいて、今自分がどこにいるのかすぐにはわからなくなっていた。
既に、一口飲んだだけのコーヒーは冷め切っている。店内の時計を見ると、2時間半も経っていて、真珠は驚いた。冷めて苦いだけのコーヒーを喉に流し込むと、慌ただしく席を立つ。
目の端に浮いた涙を手の甲でぐいと拭いて、真珠は毅然と顔を上げた。
篤宏に謝らなければ。
自分が活躍することが恩返しなのだと、勝手に理屈を付けて自分の都合だけで切り捨てようとした。篤宏の気持ちを考えずに。
世界で一番大事だと、何度も繰り返し言ってくれた。その言葉を信じ切ることもできずに、それなのにただ甘えようとした。
足早に歩きながら、スマホを取り出す。一度しか呼び出したことのない番号をコールすると、一度収まった涙がまた出るほど懐かしく穏やかな声が耳に飛び込んできた。
「もしもし、シロくん?」
「篤宏……」
その名を声に出すと、胸がぎゅっと潰れそうだった。ただ黙って、篤宏の優しい声を聞いていたかった。何度も繰り返した留守電のメッセージではなくて、今篤宏が話してくれる声を。
けれど、伝えたいことがあるのは真珠の方だった。喉を詰まらせながら、真珠はなんとか言葉を絞り出す。
「あんたに謝りたい。勝手に飛び出して、あんなことを言った後で、許してもらえるかどうかわからない。でも、春になったら会いに行くから、待っていてくれるか?」
「僕が今どこにいると思う? びっくりするよ」
彼の声は軽く笑いを含んでいて、怒っている様子は全くなかった。その声の後ろには、がやがやというざわめきがある。何かを感じ取った真珠の体は、先へ先へと勝手に急ごうとしていた。
その場で一度確認したが、久々に会心のショットが撮れたと真珠は思った。編集者も池田も久米も、満足げに頷いている。
お疲れ様でした、と編集者の声が響いたときには、やりきったという満足感で胸が満たされていた。
「調子は戻ったか?」
「ああ、和也にも心配を掛けた。悪かったな」
憑き物が落ちたように穏やかな顔をした真珠を、久米はじっと見つめている。
「確かに調子は戻ったようだが、昔のお前と同じわけじゃない。それは成長したと思っておくことにするか……。仕事に支障はだすな。俺が言うのはそれだけだ」
「ああ、プロだからな。累にも、あんたをあまり心配させるなって言われたぞ。早々に禿げそうだから、って」
「なんだそれは。あいつはいつも一言多いな! ともあれ、累にも後で礼を言わないといけないな。ああ、これはお前にやる。クリスマスプレゼントだと思って取っておけ」
久米に押しつけられたのは、書店の名前がプリントされたネイビーの袋だ。久米からものをもらうこと自体が珍しいが、クリスマスプレゼントと言われたら更に驚きを通り越して不信感すら覚える。
その場で袋を開けて中を確認すると、ハードカバーの本が一冊入っていた。それを見た瞬間、真珠の心臓は急に生きていることを思い出したように、激しく音を立て始めた。
震える手で引き出した本は、榊原篤宏という著者の名前が入っている。
「読んでないだろう。厚さの割りには読むのに時間がかからない本だ。ここを出たらすぐに読め」
声も出せずに、ただ真珠は本を抱いて頷いた。もう二度と関わることができないと思っていた篤宏の存在が、急に間近に感じられたようだった。
スタジオを出てから、真珠は目の前のコーヒーショップに駆け込んだ。一番安いハウスブレンドを注文して席に着き、はやる気持ちを抑えながら袋を開けて、手触りの良い紙を繰る。
読書など、とんでもなく久しぶりだった。けれども活字はすんなりと目に入ってきて、文章は身近な言葉で綴られている。すぐに真珠は、本の世界に没頭していった。
物語は「私」の目線を通して描かれていた。様々なことに傷つき、仕事としがらみに疲れ果てた「私」は半ば逃げるように先を急ぎながら当て処のない旅をしていた。
そんな「私」が辿り着いた場所は、もうじき冬を迎える山間の村。通り過ぎるだけのつもりだったが、雪に閉ざされた村で一冬を過ごし、図らずも人々と深く関わり合う中で徐々に人間らしい感情を取り戻していく。
これは、篤宏の経験から編み出された物語なのだ。
ノンフィクションではなかった。真珠の知る限りでも、あくまであの村と篤宏はモデルの一部ではあるが、完全に同一ではない。
生きることに意味を見いだせなくなっていた「私」は、この場所で暮らすうちに生きていくことが本当はどれだけ大変なのか、日々の労働が何をもたらすのかの意味を自分なりに感じるようになっていった。子供の頃に読んだアメリカの開拓時代を描いた小説のような、生きることと働くこと、そして食べることが全て繋がった暮らしは、厳しくはあったが確かな意味を持って「私」の心に根ざす。
そして、雪解けの頃には、初めて「世界で一番大事」だと思えた人が隣にいて、「私」は生まれ変わったような心持ちで、この場所で生きていくことを決める――。
ストーリーだけを追えば、重い話にも思えた。けれど、「私」の目から見る様々なものは優しさに満ちていて、決して読んでいる人間を苦しい気持ちにはさせない。
いつの間にか真珠は、「私」と同化して物語の季節の中を歩んでいた。慈しまれ、人と関わり合う中で、「私」は再生していった。自分の内側に抱えた傷すらも、意識が飛んだ先の村の空気を吸うことで癒やされていく。
最後のページに辿り着いて、それを読み終わると、現実と物語の境界が揺らいでいて、今自分がどこにいるのかすぐにはわからなくなっていた。
既に、一口飲んだだけのコーヒーは冷め切っている。店内の時計を見ると、2時間半も経っていて、真珠は驚いた。冷めて苦いだけのコーヒーを喉に流し込むと、慌ただしく席を立つ。
目の端に浮いた涙を手の甲でぐいと拭いて、真珠は毅然と顔を上げた。
篤宏に謝らなければ。
自分が活躍することが恩返しなのだと、勝手に理屈を付けて自分の都合だけで切り捨てようとした。篤宏の気持ちを考えずに。
世界で一番大事だと、何度も繰り返し言ってくれた。その言葉を信じ切ることもできずに、それなのにただ甘えようとした。
足早に歩きながら、スマホを取り出す。一度しか呼び出したことのない番号をコールすると、一度収まった涙がまた出るほど懐かしく穏やかな声が耳に飛び込んできた。
「もしもし、シロくん?」
「篤宏……」
その名を声に出すと、胸がぎゅっと潰れそうだった。ただ黙って、篤宏の優しい声を聞いていたかった。何度も繰り返した留守電のメッセージではなくて、今篤宏が話してくれる声を。
けれど、伝えたいことがあるのは真珠の方だった。喉を詰まらせながら、真珠はなんとか言葉を絞り出す。
「あんたに謝りたい。勝手に飛び出して、あんなことを言った後で、許してもらえるかどうかわからない。でも、春になったら会いに行くから、待っていてくれるか?」
「僕が今どこにいると思う? びっくりするよ」
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