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さりげなく癒して【12】
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【12】
母が導いてくれたのだろう――
打ちひしがれた瞳子の前に、祖父が現れた。
瞳子は、生まれて初めて会った祖父に、母の側にいる時のような温かみを感じた。
血が、そうさせたのだろうか……
それとも、母が背中を押してくれたのだろうか……
恐怖心はなかった。
だた、悲しみを癒してくれる場所を、見つけたのだと思った。
祖父はかつて、会社をいくつも経営していたという資産家であった。
その時はすでに高齢のため、会社をすべて信用のおける部下に譲り渡し、隠居生活を送っていた。
祖父は瞳子の生い立ちを知ると、酷く自分を責めた。
あの時、若い二人の恋を反対しなければ、瞳子や母に辛い人生を強いる事などなかったかも知れない。
側に置いていれば、夫婦の生活が荒んでいくのを、救ってやれたかも知れない。
苦労の末、こんなにも早く、母を死なせる事もなかったかも知れない。
そんな哀惜の念を、祖父はすべて、瞳子への愛情に替えた。
その当時、祖父は山の手の高級住宅地に家屋敷を構えていた。
祖父の側で過ごす生活は豊かで穏やかで、愛情に満ちていた。
母を失った寂しさは拭いきれなかったが、それでも瞳子は癒された。
格式のある家柄ではあったが、祖父は瞳子を緑川の名前に縛り付けようとはしなかった。
その事が、母を追い詰める結果になってしまったと、祖父は後悔していたのだ。
ゆるやかに、優しさがいつも瞳子を包んでくれていた。
瞳子はその屋敷から高校へ通った。
明るさを取り戻した瞳子に、初めて親友が出来た。
友達と遊びに出掛けるという当たり前の楽しみを、瞳子は初めて知った。
ふたりで映画を見た帰り道――
同じ年頃の少年に声を掛けられた。
『彼女』の知り合いだという『彼』は、はにかんだような笑顔の素敵な男の子だった。
『彼』の話に、絶妙に突っ込みをいれる『彼女』。
そんな屈託のないやり取りが可笑しくて、瞳子に自然な微笑みが浮かぶ。
いつしか三人で会う事が多くなった。
『男』という存在と同席しても、楽しいと感じた。
最初は、そんな自分に戸惑った瞳子だったが、優しい眼差しに胸をときめかせている事に気付くのに、時間は掛からなかった。
しかし――
それと反比例するように、『彼女』は瞳子と距離を置くようになった。
悩んだ末、瞳子は『彼』を呼び出した。
他に、相談する人がいなかったのだ。
待ち合わせの場所で、瞳子は見てしまった。
そこには、すでに来ていた『彼』と、なぜか『彼女』がいた。
ふたりは言い争っていた。瞳子は出て行けず、物陰から様子を窺った。
私があなたを好きな事、気付いていたくせに!
『彼女』が言った。
俺がお前に近付いたのは、瞳子を手に入れたかったからだよ。
『彼』が鼻で笑った。
瞳子は笑顔を見せるようになった。俺に、心を許し始めている。
そう言った『彼』の瞳に、いつか見た事のある炎が揺らめいていた。
幼い自分を組み敷いた、あの教師と同じ瞳だった。
優しげな眼差しに惹かれたのに……
瞳子の心が冷えた。
許さないから……
『彼女』の泣き濡れた瞳が、嫉妬の光を放つ。
『彼』は相手にする気もないような顔で、その場を立ち去ろうとする。
待って!
『彼女』が追いすがる。
嫌悪感をあらわに表情を歪めた『彼』が、『彼女』の頬を払った。
まただ……
瞳子の心に氷の被膜が張る。
なぜ、『男』は、弱い者に向かって、容易くその腕力を振るうのか。
なぜ『男』は……私から大切なものを奪い去るのか。
重い足を引き摺るように、その場を逃げ出した。
瞳子は『親友』と『初恋』を同時に失った。
残ったのはただ、『男』への恐怖心と拒絶感だけだった。
癒えかけていた傷は、二度と修復出来ない程に深く、瞳子の胸を抉った。
私が微笑むと、邪気を呼び集めるのだ。
笑ってはいけない……
心を許してはいけない……
呪われた微笑を、決して他所へ向けてはいけないのだ。
安らげる場所は、祖父の側だけだった。
もう、それだけでいいと、瞳子は思った。
それだけがあれば、私は幸せなのだ……と。
しかし、瞳子が大学に合格したばかりの頃――
高齢の祖父が身体の不調を訴えるようになった。
医者は、空気の良い田舎で静養する事を勧めた。
瞳子はもちろんついて行くつもりであった。
けれど祖父は、瞳子に残るように言った。
せっかく受かった大学で、しっかり勉強して欲しい。
そして、きちんと卒業しなさい……と。
その代わり、休みの度に会いに来て欲しい。
元気な顔を見せに来て欲しい……。
瞳子は、祖父の想いを受け入れる事にした。
祖父は家屋敷を売り払い、ひとり残る瞳子のために、治安のいい住宅地にセキュリティーのしっかりしたマンションを購入した。
寂しい時は、いつでも帰って来なさい。
お前のためなら、夜中でも扉は開かれるんだよ。
祖父はそう言って、田舎の別荘へと移って行った。
初めての一人暮らし。
寂しさはもちろんあったが、瞳子は祖父との約束通り、勉学に励み、休みの度に田舎へと足を向けた。
天気のいい日には、自然の中を祖父とのんびり散歩をし、夜には祖父のために本を読み聞かせてやる。
穏やかな休日の時間が、瞳子の日常を支えた。
瞳子にとって、最後の心の拠り所だった祖父であったが――
別れは静かに訪れた。
祖父はその命の炎が消える瞬間まで、瞳子にありったけの愛情を注いだ。
瞳子もまた、湧き水のように溢れ出る祖父の愛を、一滴も零してはならないと、全身で受け止めた。
ごつごつした大きな掌から力が抜け落ちても、諦めきれず、瞳子はその手を握り続けた。
それは大きな喪失感だった。
本当に、ひとりぼっちになってしまった……
そう認識するのに、しばらくの時間が必要だった。
一生掛かっても使い切れない程の財産を、祖父は瞳子に残して逝った。
しかし、瞳子は大学を卒業すると、仕事に没頭した。
他に、する事がなかったからである。
誰にも干渉を受けたくなかった。
しかし皮肉な事に、大人になる毎に美貌は輝きを増し、惑わされて寄って来るのが『男』だけではない事も知った。
瞳子は心に益々厚い氷を張り、他人との関わりを拒絶した。
そうする事でしか、身を守る方法がなかった。
守ってくれる暖かい羽は、もう、ないのだ……。
生きている事に、何の目標も、楽しみもなかった。
母や祖父の待つ場所へ、いつか召される日を、指折り数えるように生きた。
それまでの時間を潰すためだけに、仕事に没頭した。
蝋燭が溶けて短くなるように、最後の日に向かってゆるゆると進む時間――
冷えた心で、ただ漂って生きていた。
仮面を被り続けて……
呪われた微笑を封印して……
ずっとひとりで、そんな風にしか、生きる術を知らなかった。
あなたに、出会うまで……。
長く辛い記憶――
話し終えた瞳子がついた吐息は、震えていた。
祐貴は掛けてやる言葉も見付からず、ただそっと、抱き締めた。
瞳子が抱えてきたものの重さを知れば、何を言っても薄っぺらな言葉になってしまう。
それが嫌だった。
ただ、抱き締めてやる事しか、祐貴には出来なかった。
「あなたは不思議なひと……」
口を開いたのは瞳子の方だった。
「私の心には、どこにも隙間なんてなかったはずなのに……あなたはいつの間にか、ここに居た……」
顔を上げると、あれほどまでに会いたいと願った人の、包み込むような眼差しがそこにある。
訊けずにいた事が、知らず口をついて出た。
「ずっと訊きたかったの……。あなたはなぜ、私にそんなに親切にしてくれるの……?」
祐貴の瞳は、驚いたように見開かれ、そして優しげに細められた。
「わからないの……?」
逆にそう訊かれ、瞳子は躊躇いがちに頷いた。
嘘ではない。予感がないわけではなかったが、自信は欠片もないのだ。
言ってもらわなければ、わからないのと同じであった。
瞳子の縋るような眼差しに、祐貴はくすっと笑った。
「親切にしているつもりなんて、ないですよ。俺は自分のやりたいようにやっているだけ。とーこさんが……好きだから」
瞳子の瞳が揺らいだ。
多分、無意識に、一番欲しいと思っていた言葉だった。
「お母さんやおじいさんが、とーこさんを愛したように、俺もそうしたいと言ったら……あなたは許してくれますか……?」
胸が震えた。
収拾のつかない幸福感と、ちぎれるような痛みとの狭間で、瞳子の心は木の葉のように揺さぶられた。
今ここで、命の火が消えてしまえばいいのにと思った。
そうすれば、少なくとも、この人の側で死ねるのに――
叶わぬ願いを自ら引き剥がす。
心に血が流れた。
瞳子は静かに、首を横に振った。
つづく
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