さりげなく癒して

幾月柑凪

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さりげなく癒して【13】

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さりげなく癒して

【13】



「どうして……?」
 祐貴が言って、瞳子の瞳を覗き込んだ。
 それが辛くて、瞳子は視線を逸らせた。

「とーこさん……」
 畳み掛けるように名前を呼ばれて、瞳子は俯いた。
「言ったでしょう……? 私は、ただの男嫌いじゃない。男の人が恐いの」

「……俺も……恐いの……?」
 躊躇いがちに訊かれて、瞳子は弾かれたように顔を上げた。
 激しくかぶりを振る。

「違う……。あなたは違うとわかってる」
「じゃあ、どうして……」
 じっと見詰められて、瞳子の決心が揺らぎそうになる。
 それを振り払うように、瞳子はまたかぶりを振った。

「頭ではわかっていても、だめなの。私の意思ではどうにもならない所で、恐怖心は勝手に私を支配してしまう……。あなたがいつか欲しがるものを……私は、与えて上げられないかも知れない。あなたは優しい人だから、きっと私に酷い事はしない。だからこそ、恐いの。きっとあなたは待てなくなって……いつか私の前からいなくなってしまう……」

 とうとう……言ってしまった。

 最後の審判が下されるだろう。
 祐貴が男である限り、それを望まないはずはないのだ。
 瞳子は覚悟をしたように、唇を噛み締めた。



「待てるよ」
 しかし、それは予期しなかった言葉であった。

 瞳子は見開いた瞳を向けた。
「まさか……待てるわけないわ……」
「待てますよ、俺は……」
「簡単に言わないで……! 失う事がどんなに辛いか……あなたは知らないから!」
 瞳子の声は、ほとんど悲鳴だった。

「失う辛さは知っています。だから、とーこさんを失いたくない」
 真摯な瞳が、瞳子を見詰めていた。
「そのためなら、何だってする。何年だって待つ」
 瞳子は言葉を失って、その瞳から目を離せないでいた。

「俺は待てますよ……。知ってる? とーこさん。俺、あなたに出会うのを、何年も待ってたんですから……。待つのは得意なんだ」
「……え……?」
 祐貴の言った意味がわからず、瞳子は問うような瞳を向けた。

 祐貴が漂わせた視線は、どこか苦しげに空を見詰めた。

「俺もね……女を憎んでいた時期があったんです……」

 呟きに、耳を疑った。
 祐貴の口から出たセリフとは思えなかったのである。










 高校時代、祐貴には付き合っていた彼女がいた。
 幼顔で、無邪気な笑顔が可愛い女の子だった。

 将来の事は、何となく考えていた。
 こんなお部屋に住んで、子供は何人くらいで……
 夢を語るその横顔を見詰めながら、彼女もそのつもりなのだろうと思っていた。

 ずっと、一緒にいられると思っていた。



 祐貴が大学に進学し、田舎で就職した彼女とは離れ離れになった。
 それでも祐貴は不安を感じていなかった。
 互いの想いを信じて疑わなかった。
 まとまった休みがあれば会いに戻り、手紙と電話で距離を埋めた。

 遠距離恋愛が始まって半年が過ぎ、彼女の手紙が途切れがちになっても、学生の自分とは違い、きっと仕事が大変なのだろうと気遣った。
 小さな身体で、精一杯頑張っている姿を思い、労わりの手紙を書き綴った。

 しかし――

 同郷の友人に久しぶりに会った時、祐貴が想像すらした事もないような噂話を聞いた。

 彼女が結婚するらしい……。

 無論、祐貴は信じなかった。
 いい加減な噂話に違いないと思いながらも、どうしても嫌な感じに胸が粟立った。
 彼女を休ませてやりたくて控えていた電話だったが、久しぶりに聞いた声はよそよそしくーー
 祐貴はそれが真実であると知らされた。

 相手は、彼女が勤める会社の、社長の息子だと言う。

 あなたの事は好きよ。
 でも、恋愛と結婚は違うってわかったの……。

 電話の声が、他人のもののように思えた。
 彼女は、男の財産に嫁いだのだ。





 祐貴は女を信用しなくなった。
 人を愛するという感情が、ぽっかりと欠落していた。

 恋愛感情の伴わない行為を、自分でも数えていられないほど重ねた。
 憂さを晴らすように、その日その日の女を相手にした。

 本来の自分を見失ったまま、いくつもの季節が移ろい――

 同窓会の案内状が届いて、祐貴は久しぶりに帰郷した。



 会場に現れた祐貴を、同級生たちは驚愕して見詰めた。
 祐貴が、あまりにも変わってしまったからであった。

 元々、綺麗な顔立ちであったが、漂う雰囲気は純粋で朴訥だった祐貴が、遊び慣れたせいか、都会的で危険な色香を放つようになっていた。
 目が合って微笑を向けただけで、足が立たなくなった女がいた。
 お前になら抱かれてもいいと言って、皆の失笑を買った男がいた。
 そんな席に、彼女もいた。



 その日、彼女を抱いた。
 誘ったのは彼女の方だった。

 吐き気がした。
 かつて自分が愛した女は、こんな女だったのか……
 憎しみをぶつけるように抱いた。

 すでに、そこに愛がない事を知った。

 しかし――

 彼女は祐貴に溺れた。



 大学に戻った祐貴に、彼女から連絡が来るようになった。

 今更、何の関わりが欲しいと言うのか……
 祐貴には終わった事なのだ。
 すでに愛はなかった。ただ、裏切られたという思いだけが、しこりのように心に巣食っていた。

 居留守を決め込み、相手にしなかった祐貴だったが――
 ある日、彼女は祐貴のアパートを訪ねて来た。



 何をしに来たのか……と問う。

 会いたかったの……と、彼女は言った。
 あなたの事が、忘れられない……と……。

 その身勝手さに、腹立ちを通り越して、笑いが込み上げる。

 あの時は、ただ、そんな気分だったから抱いてやっただけだ。
 所帯じみた田舎の女に、本気になる訳がないだろう……?
 そう言って、祐貴は声を立てて笑った。

 あなたは変わったわ……
 唇を震わせて、彼女が言った。

 祐貴は鼻で笑った。
 先に変わったのはお前だろう……?



 彼女は蒼ざめて帰って行った。

 これは……復讐だったのか?
 だとすれば、すべてが終わったのだ……。

 後ろ姿を見送りながら、祐貴はそう思った。





 しかし、祐貴の荒んだ生活は変わらなかった。

 逆に、突然感じるようになった虚無感に苛立ち、一層ささくれ立った。
 心のしこりは、腫れ上がって疼いていた。
 内側で悲鳴を上げているのに、祐貴は耳を塞いで、気付かぬ振りをした。



 そんな祐貴を救い出してくれたのが、博之と詩織だった。

 未熟な愛によって傷付いた心は、神聖な愛によって癒されていった。
 ゆっくりと……時間をかけて……





 祐貴は本来の自分を取り戻した。

 本当の恋というものがあるとしたら、手に入れたい……
 薄っぺらなものは、もう、いらない……

 太陽のように、水のように、空気のように……自然体で生きよう。
 いつか……その人に出会ったとき、懐を大きく開いて、さりげなく柔らかに包み込めるように。



 何年もかかって……
 やっと、あなたに出会えた。










 どこか遠くを漂っていた祐貴の視線が、瞳子の所へ戻って来た。
 瞳子は、それをただ見詰め返した。



 この人も苦しんだのだ。
 苦しんで、苦しんで……
 ドロドロとした膿をすべて吐き出し……
 今、自分の前に現れたのだ。

 心の闇から抜け出し、立ち直った者の持つ、強さと優しさ。
 だからこそ、滑り込んで来たのだ……自分の心の隙間に。



 祐貴は瞳子の両手を取った。

「心配性のとーこさん……。余計な事は考えないで。あなたの正直な気持ちを、俺に聞かせて」
「私の……正直な、気持ち……?」
 瞳子が自身を探るように呟くと、祐貴は包み込むように柔らかい表情で頷いた。

 私の気持ち……
 雑多な心配事を、すべて取り除いた裸の心。

 祐貴は急かす素振りもなく、ただ黙って瞳子の手を握ってくれる。

 暖かな、大きな手……。穏やかな眼差し……。
 私は、この手が好き。
 この眼差しも……微笑みも……

「私は……」

 失いたくないと……必要なのだと……
 心が叫んでいた。

 目の前の、この瞳に、嘘はつけないと思った。
 そして、自分自身にも……。

「……私は……」
 瞳子の頬を、ひとすじの涙が伝い落ちた。

「……あなたが好きです……」



 言うなり、力一杯抱き締められた。

「先の事は、これから考えればいい……ふたりで……」
 祐貴の声が、瞳子の胸につかえたものを取り去って行く。
 瞳子は言葉が出なくて、ただ頷いた。

「心配しないで。俺は待てるから……とーこさんが、俺を好きでいてくれる限り……」
 祐貴はそう言って、瞳子を更に強く抱き締める。
 瞳子の涙はとめどなく流れ、祐貴のシャツを濡らしていく。
 きつく拘束される事も心地良いのだと、瞳子は初めて知った。



 これからも、ずっと側にいてくれるのだ。
 逞しい腕も、温かな胸も……
 瞳子は身じろぎして、祐貴の顔を見上げた。
 この優しい眼差しも……
 穏やかな微笑みも……
 ずっと、私の側に……。



 愛しいひとの泣き濡れた瞳が、じっと自分を見詰めている。

 祐貴の胸に、想いが一杯になって、溢れた。

「……キス……してもいい……?」
 思わず、訊いてしまっていた。

 瞳子の頬が真っ赤に染まった。
「そっ、そんな事、訊かないで……。予告なんてされたら、私はきっと……いちいち逃げ出してしまうから……」
 その様子が可愛くて、祐貴はくすっと笑いを漏らした。

 わたわたしている身体をやんわりと捕まえ、細い頤に手を添える。
 ゆっくりと顔を近付けて……

「じゃぁ、訊かない……」

 そっと囁いた唇が、瞳子の柔らかい唇に触れた。



 瞳子は完熟トマトのように、耳まで赤くなってしまった。
 祐貴の視線は愛しげに、自分に注がれている。
 完熟トマトから湯気が出た。

「あっ、あのっ……やっぱり、いきなりも困ってしまうなって……だから、少しだけ予告を……」

 祐貴はくすくす笑った。
「とーこさん、可愛い」

「あの……早瀬くん……聞いてる……? 予告の件ですが……」

 祐貴は――聞いていなかった。
 言われた側からまた、瞳子の唇を盗んだ。

 さっきの触れるだけのものより、少しだけ、長く、深いくちづけ――

 そっと離れると、瞳子はすっかりおとなしくなってしまった。
 ぽおっとした顔で、吐息をつく。

 その耳元で、祐貴が囁いた。
「とーこさん……予告請求の御提案ですが……」

 うっとりと、瞳子が視線を向けると――

 祐貴は悪戯っ子のように、に~っと笑って言った。

「今更遅い」





                              END
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