わたしのくまのぬいぐるみ。

雪月海桜

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わたしのくまのぬいぐるみ。

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 ある日、庭の隅っこで放置されていた雑草だらけの花壇から、一匹の『くまのぬいぐるみ』が生えてきた。
 そんな状況説明をしたところで、大半の人は反応に困るだろう。実際、わたしにも訳が分からない。
 しかも、そのくまのぬいぐるみはまるで花のように土から上半身を生やしたまま、ほつれて綿の飛び出しそうな手を揺らして流暢に喋り出したのだ。

「こんにちは、メイちゃん! ちょっとお庭を借りてるよ、よろしくね!」
「……、は?」

 わたしは思わず、その土まみれのくまを凝視する。喋れて、手も動かせて、瞬きもする、どう見てもぼろのぬいぐるみ。誰かの悪戯にしては、手が掛かりすぎだ。
 わざわざ普通の、どこにでも居るような女子高生のわたしをつかまえて、こんなことをするメリットはまったくない。
 しかし、件のくまのぬいぐるみは、わたしの混乱などお構い無しに、そのまんまるの頭と首に付けられたストライプ柄のリボンを揺らしながら、子供番組のお兄さんお姉さんのような明るい声音で、のんきに自己紹介を始める。

「ボクの名前はくまのくーちゃん、よろしくね!」
「……、驚くほど安直なネーミング」
「えー、酷いなぁ、結構気に入ってるんだよ?」

 ぬいぐるみの声は録音等ではなく、会話も成立するようだった。その仕組みを解明するべく、わたしがくまの頭を鷲掴みにして土から引っこ抜こうとすると、くまは大慌てで、綿の詰まった柔らかな手で抵抗した。

「わーっ! まってまって、掘るにはまだ早いよ!」
「どういう意味?」
「うーんとね、まだ足があれだから……、収穫するなら一ヶ月後くらいかな!」
「……足があれ、とは。……というか、花っぽいって思ったのに、野菜か何かなの……?」

 そうして、謎と疑問しか残らない出会いから、わたしとくまのくーちゃんの奇妙な一ヶ月が始まった。


*******


「今日は良い天気だねー」
「……いや、どう見ても土砂降りだけど?」

 ある日、くまのぬいぐるみは花壇から生えたまま、為す術もなくずぶ濡れになっていた。それでも土から出そうとすると拒むので、よっぽど花壇の中が好きらしい。
 こんな未知の物体、見て見ぬふりをするのが一番なのだろうけれど、あろうことかこのくまは、わたしの家の方を向いて生えているのだ。気が付くと窓ガラス越しに真ん丸の瞳と目が合うので、気になって仕方なかった。
 しばらく考えてわたしが傘を差し向けてやると、点三つで構成されたような単純な顔のぬいぐるみなのに、分かりやすくにっこりと微笑む。

「わあ、ありがとう! ふふ、メイちゃんは相変わらず赤い傘が好きだねぇ」
「……相変わらず? たまたまだよ」
「そう? ボクも赤好きだよ、可愛いよねぇ。首のリボンの色なんだー」
「えっ、それ、赤なの? 汚れて最早茶色に近いけど……」
「ありゃー……」

 傘のことだけではなく、くまのぬいぐるみは時々、わたしのことを昔から知っているかのように話した。

「あ、今日のごはんはね、梅干しだったよ。メイちゃん、梅干しキライだったよね? わざわざおにぎりから出してお米だけ食べたり……」
「え、なんで知って……って、待って、くま梅干し食べるの!?」
「うん、はちみつ梅おいしいよー」
「……はちみつ漬けってところは辛うじてくまっぽい……」

 話せば話す程、このくまの存在は謎に満ちていて、訳が分からなかった。これが果たしてぬいぐるみと呼んで良い物体なのかすらも、最早分からなくなってくる。

「いやそもそも、ぬいぐるみなのにご飯食べてるの……?」
「デザートのプリンもおいしかったー」
「デザートまで満喫してる!?」
「はちみつプリンがすきー」
「ちょっとお高いやつじゃん……」

 ちゃっかりリクエストまでしてくるこのくまの生態を、よく観察してみる必要がありそうだ。
 それからわたしは毎日庭の隅っこのくまのぬいぐるみの元へ行き、その日の出来事を聞いたり、土から露出している部分のチェックをすることにした。

「んーと、今日はねー、足が痛かったよ」
「足……? 土の中なのに?」
「うん、歩く練習してるんだけどね、やっぱり痛いんだー」
「土の中で練習してるの!?」
「うん、メイちゃんなら泣いちゃうねぇ……」
「痛みは確かに苦手だけど……歩行訓練ってそんなに過酷なの……?」

 どうやらくまのぬいぐるみは、土の中で足を酷使しているらしい。見た目はくまだが、水中で必死にもがく白鳥と同類なんだろうか。

「あ、明日はね、お父さんが会いに来るんだって」
「お父さん居るの!?」
「うん? いるよー?」
「その、ちなみにお父さんって、どんなの……?」
「えーとね、おっきくて、やさしくて、来る度に美味しいものをたくさんくれるんだけど……」
「だけど?」
「……最近ちょっとだけ、髪の毛がさみしい……」
「……、そっかぁ」

 思わずくま父の生態よりも、頭髪事情が気になってしまった。
 そもそもくまのぬいぐるみは全身柔らかな毛に覆われているのに、頭部の毛は別枠なのだろうか。
 そんな好奇心から、翌日は眠っている時間以外ずっとくまの傍に居たけれど、その日は結局、くまの父親らしき物体は現れなかった。
 またある日は、くまの生えている花壇の荒れ具合が気になり、どうせならと庭全体の草むしりをすることにした。
 花壇もそうだが、庭自体も近年ほとんど手を入れていない。長年放置されていた雑草は相当しぶとく、その作業は難航した。

「ボクもお片付けしようかなぁ」
「あんたの手で草抜けるの?」
「……んー、無理かもー」

 そもそも指もなく丸いだけの手。しかも土から出られずに、精一杯腕を伸ばしても半径十五センチ程度のくまには、到底無理だった。
 代わりにわたしが引っこ抜いたタンポポをくっつけるように持たせてやると、上手く綿と綿で挟むように摘まみ、まるで応援のポンポンのようにゆらゆらと揺らしていた。
 ちょっと可愛いとか思ってしまったのは内緒だ。

「ねえねえメイちゃん」
「なあに?」
「お庭が綺麗になったら、そろそろ帰れるねぇ」
「……? 帰るって言うか、庭もわたしの家だしね?」

 結局庭の草取りだけで一日が終わってしまい、肝心の花壇は明日に持ち越しとなった。結局くまに持たせたタンポポは、最後の方には萎びていた。


*******


 翌日、ようやくメインの花壇の草取りを開始して、わたしは手持ち無沙汰な様子のくまのぬいぐるみへと尋ねる。

「ねえ、どうせなら、綺麗になった花壇に花を植えようと思うんだけど」
「おお、いいねぇ……きっと綺麗なお花が咲くよ!」
「……それで、さ。あんたは、何の花が好き?」
「ボク? ここはメイちゃんのお庭だから、メイちゃんのすきなのでいいんだよ?」
「そうだけど、あんたの家でもあるでしょ。……家って言うか、何だろ、生えてるし、いっそ花壇が親……?」
「親……確かに……。ボク、今お母さんと繋がってる……!? 生命の神秘……!」
「花壇もぬいぐるみも生命カテゴリーでいいのかな……」

 わたしのツッコミなどお構いなしに、くまはハッとして、やけに納得した様子だった。土に触れ感動の再会のような真似事をしている。
 わたしはもう、このマイペースかつ突飛なくまの生態や思考パターンについて、理解するのは諦めた。
 くまのぬいぐるみと時間を共にして分かったことは、やけにわたしについて詳しいことと、わたしに危害を加える様子はないということ。
 それから、何だかんだわたしもくまと居る時間は安心して、まるで幼い頃の友達と遊ぶように、変に気を使ったりせず楽しいということだけだった。

「んー、なら、赤いお花が好きかなぁ。メイちゃんは?」
「花……わたしは、……桜? なんか、つい最近、桜を見てた気がする……」
「……春だからねぇ。でも、花壇に桜は植えられないね……」
「そう、だよね……」

 庭に当然桜はない。ついでに言えば、コンクリートもなく土と砂利と草の自然な庭だ。
 けれどやけに、舞い散る桜の淡い薄紅色と、コンクリートの灰色が、目に焼き付いているような気がした。何処で見たんだったか。

「……あれ、何これ?」

 考え込みながら草むしりをしている途中、不意に雑草の隙間から、何か光る物が見えた。
 手を伸ばし拾い上げると、それは土にまみれた大きなビー玉だった。

「あー、メイちゃんの宝物だねぇ!」
「? これが?」

 無色透明の、五百玉くらいの大きさのビー玉。土汚れを落とし光に翳すように見上げると、硝子の中にキラキラと輝く青空を閉じ込めたようだった。
 この小さな宝物のような光景に、見覚えがある。

「……もしかして、わたしが小さい頃好きだったビー玉?」
「せいかーい!」

 思い出すと、やけに懐かしく感じた。確か小さい頃とても大切にしていて、花壇の花や青空、あらゆるものを映しては覗いて回っていた。これさえあれば、美しい世界はわたしの手の中だったのだから。
 そんなに大切にしていたのに、ある日うっかり転がして失くしてしまい、探しても見つからず大泣きしたことを思い出す。まさかそれが、こんな所に埋まっていたなんて。
 此処も探したはずなのにと不思議に思いつつ作業を進めると、その後も次々と土の中から見覚えのある物が出てきた。
 昔好きだった使いかけの香りつき消しゴム、小さい頃繰り返し読んでぼろぼろの絵本、誕生日に買って貰ったキラキラの玩具のネックレス。
 それらは記憶の端に追いやられたような、見るまで思い出せなかった物ばかりだった。
 成長するにつれ失くしていった、それでもかつて、宝物として大切にしていた物達。

「わたし、こんなにこの花壇で失くし物してた……?」 

 流石に引っ掛かりを覚え呟くと、発掘作業を眺めるだけだったくまのぬいぐるみは、ふと思い出したように声を上げる。

「あっ、ねえメイちゃん」
「ん?」
「あのね、今日でボクが生えてきて一ヶ月なんだよ」
「えっ、もうそんなに経つ!?」
「経つー!」

 突然の話題変換に戸惑うのも一瞬で、結局一ヶ月毎日くまと過ごして来たから、このマイペースさにもいい加減慣れてきた。……が、やっぱり花壇から生えているくまのぬいぐるみなんて謎の物体が何者なのかは、結局分からなかった。

「ってことは、もう引っこ抜ける……?」
「いいよー」

 あっさりとしたくまからの許可に、わたしは土に汚れた軍手を脱いであの日と同じようにその丸い頭を鷲掴む。
 一ヶ月越しに謎が解けるかもしれないのだ、わたしのテンションはこれまでにないくらい高まった。

「……ねえメイちゃん? もっとこう、他の掴み方、ない?」
「腕でもいいけど、掴んで引っ張ったらもげそうじゃない? ぼろいし」
「……、このままでいこう!」
「よし。せーの……!」

 わたしは、そのまま勢いよく土からくまを引き抜いた。ぬいぐるみのサイズから予想していた以上の重みと手応えに動揺しつつ、一気に引き上げたくまの足には、何故かわたしが部活で使っているシューズの紐が巻き付くように括られていた。

「えっ」
「わあ!?」

 思わず、くまを投げ捨てるように土の上に落とす。くまは顔面を土に埋もれさせ悲鳴を上げるけれど構っていられない。
 よく見ると、くまの居た穴の中には、画面のひび割れたスマートフォンや汚れたスクールバッグが埋まっていた。あれらはすべて、わたしの物だ。
 慌てて掘り起こしたスマホを確認すると、そこには最後に撮った写真が表示されていた。

「……、桜?」
「メイちゃん、桜に夢中で車に気付かなかったんだねぇ」
「え……?」

 ずるずると汚れたシューズを引きずり歩く土まみれのくまの姿を見て、ぎょっとすると同時に締め付けられるように頭が痛んだ。
 先程引き抜く際に頭を鷲掴みにされたことで僅かに歪な形状になったくまは、土に汚れた顔でわたしをじっと見上げる。そのつぶらな瞳を見詰めていると、何故だか動けなくなった。
 足に括りつけられたシューズがあらぬ方向に放り出されて、それを引き摺りながら近付いてくる。
 先程投げ飛ばされたくまの動きと、歪な今の姿が、とあるイメージと重なった。

 車に轢かれ、頭をぶつけ、地面に転がされ、土にまみれながら折れた足を引きずる、わたし。
 そんな光景を鮮明にイメージしてしまったわたしは、思わず自身の姿を確認した。

「あ……わたし……?」
「……花壇が綺麗になって、思い出した?」
「どういう、こと……?」
「花壇は、記憶を埋めるところだからねぇ」
「記憶を……」

 再び頭が、ずきんと痛む。
 そうだ、わたしは、あの日下校途中、車に跳ねられたのだ。それなのに気が付くと、無傷でこの庭に居た。
 車に轢かれた後の記憶が、全くない。それどころか、今までそのことすら忘れていた。
 最後に視界の端に見上げた桜と、身体を投げ出されたコンクリート。くまのリボンのような赤と茶色の間の色をした液体が視界を覆い、意識を手放した。
 けれどあるはずの全身の激しい痛みも、今は感じない。あの事故は、いつのことなのだろう。

「もしかして、……わたし、死んだの……?」

 そうだ、そもそもこの空間はおかしかった。
 見た目は紛れもなく、わたしの家と庭。けれどこの一ヶ月間、家の敷地の外には出られなかったし、出ようとも思わなかった。
 両親の居ない家に違和感も覚えず、日課だった走り込みだって一度もしなかった。部活の大会が近いのに、学校にだって行かなかった。

「……っ!」

 わたしは、咄嗟に家の門へと向かう。嫌な予感を払拭したかった。けれど庭から続く門まで辿り着けず、外界から見えない壁で断絶されたように、庭から一歩も出ることが出来なかった。

「やだ、なんで……!」
「大丈夫。死んでないよ? ボクがメイちゃんを死なせるもんか」
「え……」

 重たいであろうシューズを引きずりながら必死に追い掛けてきたくまのぬいぐるみは、そっとわたしの手を握る。
 指がないから、握るというよりも手を押し付けてくる。それはいつまでも触れていたいくらい柔らかくて、無機物のはずなのに、少しだけ温かく感じた。
 こんな謎の空間で、正体不明のこのくまが正直一番怪しいのに、不思議と怖いとは感じなかった。

「前に言ったでしょ? 花壇が綺麗になったら、帰れるよって。ボクも花壇から出られたしね」
「え……?」
「あのねメイちゃん。向こうは痛いも苦しいもあるけど、本当はずっと、一緒にここに居たいけど……」

 そう言って、くまはわたしの身体をとんと押した。それは見た目からは想像出来ない強い力で、わたしはよろけて、押し戻され花壇へと尻餅を付く。
 そしてそのまま、くまの埋まっていた穴へ落っこちた。

「メイちゃんなら、きっと大丈夫。昔の『大切』も、忘れてなかったもん。形が変わっても、辛くても、大切は大切って、ちゃんと思えるもんね」
「え、う……わあ!?」

 わたしの混乱や驚きを他所に、昔好きだった絵本の少女みたいに、抗う術もなく穴の中へと深く深く落ちていく。

「メイちゃん、赤いお花、約束だよー」

 わたしは手を振りながら遠ざかるくまを、やがて何も見えなくなるまで、呆然と見上げ続けるしか出来なかった。


*******


「芽依? 大丈夫? 急にぼんやりして……何処か痛む? 看護師さん呼ぶ?」
「……、……え?」

 穴を落ち続け、暗闇に突然光が差したかと思うと、そこは見知らぬ白い部屋のベッドの上だった。
 そして、心配そうにわたしを覗き込む両親の姿。つい先程まで、くまのぬいぐるみと庭に居たはずなのに。

「……お父さんお母さん、ここ、どこ? わたし、なんで……」
「! 芽依!?」
「わたし達がわかるの!?」
「……?」

 何を当たり前のことを。しかし神に感謝しながら泣く両親を見て、わたしはそれ以上何も言えなかった。
 そしてしばらくして、ようやく先に落ち着いた父から、衝撃の事実を聞かされる。

「芽依、おまえは一ヶ月ずっと記憶喪失だったんだ。覚えてないか?」
「記憶喪失!? ……え、覚えて、ない」

 記憶喪失。漫画やドラマで良く聞く単語だ。それを実際体験することになるとは、夢にも思わなかった。
 記憶喪失なんて一口に言っても色んな種類があって、すぐに記憶を取り戻したり、ずっと忘れたままだったり、朧気に思い出したりもあるけれど。
 今回のわたしのように、元の記憶が戻るとその拍子に記憶喪失期間の記憶が抜け落ちることもあるそうだ。
 懇切丁寧に説明されたけれど、にわかには信じがたい。だってわたしには、意識や記憶が途切れた感覚もないのだ。

「……わたし、一ヶ月間ずっとこの病院に居たの?」
「ええ、頭を打っていたし、足も骨折しているのよ。……命に別状がなくて良かったけど、記憶もなかったし……」
「骨折……そっか。じゃあ、これからも入院しながらリハビリとか……?」
「あ、今日が退院予定日よ」
「……。入院を自覚した瞬間退院とか、新手のRTAかな……?」

 陸上部でいつも速さを追い求めていたとはいえ、流石にこれは想定外だった。くまに穴に落とされてから、驚きの連続に頭がついていかない。

「今お父さんと一緒に荷造りしていたら……芽依ってば、事故の時履いていたシューズを持って急にぼーっとするから、びっくりしちゃった」
「……、このシューズ、くまが足につけてたやつ」
「くま?」
「ううん、何でもない」

 結局頭の整理が追い付かぬ内に荷造りをして、退院手続きを済ませ、お大事にの言葉をもらって父親の車に乗り込む。
 折ってから一ヶ月経ったとはいえ、足は固定されていても痛みを伴った。その痛みが、容赦なく現実を突きつける。
 帰りの車の中で両親から聞かされたのは、部活帰りに桜並木を歩いていたわたしの方に、乗用車が突っ込んで来たこと。まあ、此処までは何と無く覚えている。
 そして、単に打ち所が悪かったのか、大好きな先輩が卒業してからわたしが部長を引き継いで初めての試合前に足を怪我したショックからか、目を覚ますとわたしは記憶喪失になっていたこと。
 けれど記憶喪失中もどうやら普通に生活して、早々に始まったリハビリも真面目に行っていたということ。

「芽依、記憶喪失中も小さい頃のことだけは覚えてたのよ。だから、最近の記憶だけ飛んじゃったんじゃないか、とか、ある程度安心はしてたんだけど……でも、人が変わったみたいでね……」
「人が変わった……って、何、暴れたりとかしたの?」
「いいえ、その逆。何て言うか……少しのんびりさんだったわ。間延びした話し方とか……」
「え……」
「ダイエットだとか気にせずデザートのプリンも美味しそうに食べるんだもの、お父さんったら、お見舞いに来る度にお菓子買ってきてたのよ」

 のんびりした、間延びした話し方の、プリンが好きな子を、わたしは知っている。

「リハビリだって、相当辛そうなのに部活の時みたいな泣き言も言わずに『メイちゃんの身体のために頑張らないと』なんて、他人事みたいに言うし……」
「……そう、なんだ」
「でも、ちゃんと痛いのも我慢して一生懸命リハビリ頑張って、とっても偉かったわ」

 記憶には全くない。それでも、そんなことを言いそうな子には、やはり一匹だけ、心当たりがあった。
 先程まで居た、けれど一ヶ月ぶりの我が家に戻る道すがら、車窓から覗く沈み行く赤い夕日。
 その色は何だか、あの子のリボンの色を思い出させた。


*******


 事故から三ヶ月。季節の巡りは目まぐるしく、あっという間に夏も終わろうとして居た。
 退院してからもリハビリは続き、あれだけ熱を注いでいた部活も、結局試合に出ることも叶わずそのまま引退した。先輩から引き継いだ部長としての覚悟も、決意も、何一つ果たされることはなかった。
 散々泣きもしたし、しばらくは何もする意欲が湧かなかった。大好きだった陸上を、仲間を、嫌いになりそうになった。何一つ成し遂げられない自分のことも、たくさん責めた。

 高校三年の、これまでの集大成とも言える、最後の全力を出し切る時間。始まる前に終わってしまった、わたしの青春のすべて。
 事故後、本当はすぐに諦めるべきだったのに。いつかを夢見て、練習を見学して、その場に居る理由が欲しくて、部長の肩書きを中々手放せなかったけれど。仲間に悔しさも希望も全部託して、自ら踏ん切りをつけた。
 そして部活もなくなり、唐突に失われた、わたしの大切だった日々。

 世界を閉じ込めた宝物のビー玉を失くしたあの頃のような、泣き喚きたくなるような不安と喪失感。
 それでも、悲観して自棄を起こさなかったのは、大切なものをどんな形になっても大切でいられたのは、のんびり屋のあの子との一ヶ月があったからだろう。
 あの子が、わたしのことを「死なせるもんか」と守ろうとしてくれたのだから、それを無下には出来なかった。

 痛みが苦手なわたしの代わりに、辛かったであろう事故後のリハビリだって頑張ってくれたのだから、それに報いなくてはと、わたしも頑張れた。


*******


 初めて迎える、部活の練習のない夏休み。高校を卒業したら就職と決めていたから、受験勉強もない。
 これといって新たな目標も意欲もなく、かといって何もせず家に引き籠るのは身体に良くないからと、しばらくしてわたしは、家の片付けや庭の草むしりに精を出した。
 庭に関しては、正直二度目である。足はまだ少しだけ痛むけれど、手際も格段に良くなっていた。

「ねえお母さん、アルバム見せて!」
「……? いいけど、何するの?」

 わたしが幼い頃には、この庭はもっと綺麗に保たれていた記憶がある。亡き祖母の趣味がガーデニングだったそうだ。ならばそれをレイアウトの参考にしようと、家の中でアルバムを確認している時だった。
 たくさんの写真の中に、やけに見覚えのある、点三つで描けるような単純な作りの顔を見付けたのだ。

「これって……」
「あら懐かしい……おばあちゃんに貰ったくまさんね! 芽依ってば、小さい頃は毎日抱き締めて連れ回してたのよ」
「! この子、今は何処にあるの?」
「ええと、確か転んだ拍子に何処かに飛ばしちゃって、失くしちゃったのよね。……そうだ、あの時の芽依、怪我した痛みよりも『くーちゃんが居ない』ってわんわん泣いてたわ……」
「……、そっか」

 その終わりを、覚えていない。
 でも、わたしはこの子を知っている。
 触れるとほんのり温かい、柔らかな毛並みと、黒くて真ん丸のつぶらな瞳。首には鮮やかな、あの子の好きな赤いリボン。

「……あの花壇は、わたしの記憶の宝箱、だったのかな」

 土にまみれたビー玉や消しゴム、絵本やネックレス。その他たくさんの昔の宝物達。
 その中に埋もれたあの子はきっと、目を向けることもなくなり雑草の生えた、古く忘れ去られた記憶の庭の隅っこで、それでもあの頃から変わらずわたしを見守ってくれていたのだ。

 日常生活に戻っても、過去の大切な物を思い出しても、相変わらず、あの一ヶ月の病院での記憶はない。
 あの子がわたしの身体に入り込んで、事故直後のわたしの痛みや絶望を引き受けて、心と身体を守ってくれていたのか。
 それとも、深層心理の中で勝手に作り上げていた、幼い頃の友達であるくまのぬいぐるみの人格が、事故をきっかけに表に出てきたのか。
 はっきりしたことはわからない。何しろ、あのくまの生態は、最後まで謎だったのだ。

 だけど、あの子はわたしの一部なんかじゃなくて、別の確立した存在なのだと思う。
 だってあの子は、わたしとは似ても似つかないのだ。食べ物の好みも、性格も、何もかも。
 今でも目を閉じれば、すぐにでも会える気がする。柔らかくて、のんびりさんで、おおらかで、温かくて、優しい、わたしのくまのぬいぐるみ。

「……ありがとう、くーちゃん」

 久しぶりに呟く名前は、やけに口に馴染む。わたしは改めて綺麗にした庭の花壇へと向き直り、約束の花の種の袋を開けた。あの日のビー玉のように、転がしてしまわぬよう慎重に。
 失くす悲しみじゃなく、出会える喜びを。忘れる寂しさじゃなくて、進める強さを。自らの手で、ひとつひとつ埋めていく。
 幼いわたしは色んなものを失くして、悲しみながら大きくなって忘れていった。
 これから大人になるわたしは、抱えきれず取り零したすべてを忘れないように、大切に心にしまっていきたい。
 苦手だった痛みだって、悲しみの涙だって、きっといつかの糧となると、あの子が教えてくれたから。

「……また、会おうね。わたしの宝物」

 いつかまた、ひょこり花壇に咲いたあの子が、のんびりと赤い花弁リボンを揺らしながら、大きくなっていくわたしを見守ってくれると信じて。

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