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出会い。
しおりを挟むぼくは、捨て子だった。
物心ついた頃には親は居なくて、住み処は昼間も光が差すことのない薄暗い路地裏。
ぬくもりや食べ物を求めて表通りに一歩踏み出せば、行き交う人々に嫌な顔をされる。
怒鳴るような、吐き捨てるような彼等の言葉はあまりよくわからなかったけれど、ぼくに居場所なんてないと理解するのに、そう時間はかからなかった。
日に日に冷えていく石畳に突っ伏して、このまま暗闇に溶けて消えてしまいたいと思った。
誰の目にも留まらぬまま、せめて嫌な思いをさせないように静かに果てたいと思った。
そんな時、ぼくは彼女に出会ったんだ。
「まあ、大変……大丈夫? 生きてる!?」
「……え」
「動いた……良かったぁ」
至近距離から響く、小さく震える少女の声。ぼくが重たい目蓋を開けると、そこには今まで向けられてきたような冷たい視線ではなく、安心したような柔らかな笑顔があった。
その笑顔を見た瞬間、道端に咲いていた真ん丸な可愛い花のような、前に見かけた空に架かる七色の橋のような、見ているだけで胸の中が温まるような感覚が広がる。
思わず呆然としていると、その表情はすぐに曇ってしまい、彼女はぼくの汚れた全身を見て眉を寄せる。
「こんなに痩せて、可哀想に……ごはんをくれる親は……家族は居ないの?」
「……」
彼女に何かを問われているのはわかったけれど、ぼくは答えるだけの言葉を持たない。それでも彼女は察したように頷いて、その後ろに影のように立っていた大きな男を振り向く。
「……ねえお父さん、この子、連れて帰ってもいい?」
「えっ!? いや、うーん……母さんになんて言われるか……それにうちにはブランが居るだろう、外の子を連れていったらどんな反応をするかわからないし……」
「お願い。放っておけないの……このままにしておいたら、明日の雪で死んじゃうわ!」
「……そう、だな。わかったよロティ、一緒に母さんを説得しよう」
「本当? ありがとう!」
彼女の長い髪がこの間見た夜空を落ちる光の線のようだなとか、こんなに誰かに近付いて避けられないのは初めてだなとか、ぼんやり考えている間に二人の間で何か話が纏まったようで、彼女はぼくに手を差し出す。
「さあ、うちに帰りましょう。今日からわたしがあなたの家族よ」
「……!」
真っ白な指先は直接見上げた太陽のように眩しくて、初めて触れたぬくもりは日当たりのいい芝生よりも柔く、温かかった。
*******
ひだまりのように温かな少女『シャルロット』に拾われたぼくは、薄暗い路地裏を抜け出し、町外れまでの道程を初めて辿る。
明日には雪が降るという空は、空気が冷たくて、星がキラキラと輝いて、とても広く澄んで見えた。
町外れの丘の上にある赤い屋根の白い木の家が、彼女の住まいらしい。
ようやく着いた家の扉を開け出迎えてくれたのは、シャルロットに似た金色の髪をしたエプロン姿の女の人と、その後ろからびりびりと響く大きな声。
「!?」
「あっ、こら、だめよブラン。そんなに吠えちゃ」
驚き光に慣れない目で家の中を見ると、空の雲みたいに白くてふわふわの大きな犬が居て、余所者のぼくを見て盛大に吠えているようだった。
思わず逃げ出したくなったけれど、彼女の温かな手がそれを許さない。
「おかえりなさい……まあまあ! どうしたのその子!?」
「いや、実はロティが連れ帰るって聞かなくて……」
「ひとりぼっちで、こんな寒い外に居たのよ。このままじゃ死んじゃうわ」
シャルロットとお父さんの必死の説得の甲斐もあり、ぼくはお母さんに追い出されることなく、そのままルミエール家に迎えられることになった。
お母さんは最初ぼくを見て驚いたような顔をしていたけれど、すぐにぼくを安心させるように微笑んで、お風呂というものを用意してくれた。
お父さんに温かなお湯といい匂いのする泡で身体を洗って貰って、真っ白だった泡がすぐに茶色くなって床の穴に流れて消えた。
シャルロットはそんなぼくの濡れた身体をふわふわのタオルで優しく拭ってくれる。
「ふふ、綺麗になってよかった」
「……?」
いつも目が合うだけで汚いと罵られていたぼくは、初めてのことに戸惑う。ぼくは今、このまっすぐに向けられる彼女の瞳にどう映っているのだろう。
その柔らかな表情に、初めて向けられた『綺麗』という言葉が好ましい意味のものだというのは理解できた。
「ロティ、ちょっとこっち手伝って」
「はぁい。……あなたはここで待っていてね」
シャルロットとお母さんは、ご飯の支度をしているらしい。彼女たちの手元には、美味しそうな匂いのする食糧がある。
路地裏暮らしでは貴重な新鮮な食糧。奪いに行きたくなるのを必死に堪えて、ぼくは辺りを見渡した。
お父さんは、ぼくをお風呂に入れて汚れてしまった服を着替えに行っている。この家は二階建てらしく、濡れた服を脱ぎながら彼が階段を登るのが見えた。
ブランと呼ばれていた大きな白い犬は、家族に受け入れられているのならとぼくに向かって吠えるのをやめ、早々に暖炉近くの温かそうな寝床に戻っていた。
彼はどうやらもう随分なお年寄りらしい。動きは緩慢で、こちらの様子を伺う瞳の真ん中は、空の丸い光みたいに白っぽく見える。
それでも威嚇するのをやめた今も、こうして然り気無くぼくを見張って番犬の役目を果たしているのだから、凄いものだ。
「……」
結局ぼくは何も出来ないまま、おとなしく部屋の隅に座り込み、赤々と燃える暖炉を見つめた。
眩しいくらい明るくて、あたたかい。ぼくは、いつまでこの家に居ることが出来るのだろうか。
これはシャルロットのほんの気まぐれで、明日にはまた路地裏に捨てられるのかもしれない。
これは夢で、目が覚めてしまえばここはあの暗くて冷たい掃き溜めなのかもしれない。
いろいろな考えが浮かんで、もうその場から動くことも出来なかった。
少しでも動けば、目の前のすべてが消えてしまう気がした。
「本物のぼくは、もうとっくにあの路地裏で冷たくなってて、これは最後に見てる夢なのかも……」
どれが本当でもおかしくない。だから、いろいろ考えても無駄ならせめて、今日の幸福を噛み締めておこうと思った。
雨風を凌げる家、汚れを落とし綺麗にして貰えた身体、向けられる笑顔に、優しく差しのべられた温かな手のひら。
そんな風にぽかぽかと温まった感覚の余韻に浸っていると、じきに美味しい匂いがしてきてお腹が鳴った。
その地響きのような音に、みんなの視線が集まるのを感じる。
「……!」
「今の、お腹の音……?」
「あらまあ、お腹が空いてたのね。ふふ、今ごはんが出来るから、そんな隅っこじゃなくて、こっちにいらっしゃい」
そして、シャルロットは飢えたぼくに初めて食べる美味しいものをたくさんくれた。
温められたミルクに、何種類かの食べ物。砂にまみれていないご飯は初めてだった。
好き嫌いなんかあるはずもなく、噎せ込むのも気にせずに、ぼくは目の前のすべてを口に詰め込む。
「ん……、むぐ……げほっ」
「あらやだ、そんなに急がなくても大丈夫よ」
「おかわりもあるからね」
「はは、こんなに食欲があるなら安心だな」
食べ溢して床を汚しても、せっかく綺麗にしてくれた顔をミルクまみれにしても、この家の人達は叱りもしないし、何ならぼくの一挙一動を見守り、笑顔を向けてくれる。
ブランもお年寄り用の柔らかそうなご飯を食べながら、ぼくにやれやれといった視線を向けてくる。
ルミエール家の人たちは、とても優しかった。駅前に居る人たちが、にこにことした顔で幸福に満ちた『天国』について繰り返し話しているのを何度か聞いたことがある。
ぼくはここが天国と呼ばれる場所なのだと、信じて疑わなかった。
「あら……雪、降ってきちゃった。今夜も冷えるわね……」
その日の夜は、とても冷え込んだ。窓の外から見る夜空からは、白くて冷たい冬の証が舞い落ちる。
あのまま路地裏に居れば、ぼくはこの白を布団として永遠の眠りに落ちていたかもしれない。
「まだあなたのベッドを用意していないから、今夜は特別。一緒に寝ましょう?」
優しく手招くシャルロットが、白いふかふかのベッドにぼくを寝かせる。固い地面とは大分違う感触に戸惑ったけれど、彼女の匂いのする布団は心地よかった。
初めて誰かと過ごす夜を迎え、初めて誰かの傍が落ち着くのだと知った。
「おやすみなさい、良い夢を」
「……おやすみなさい」
響きを真似して繰り返すと、彼女は微笑んでくれた。初めて誰かと交わした挨拶は、奇跡のような一日の終わり、静かな夜に溶けて消えていった。
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