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言葉。
しおりを挟むブランが永遠に眠ってしまったのは、その三日後のことだった。
冬の終わりに予定より少し早くお父さんが帰ってきて、再会したブランは一度大きく尻尾を振ってから、もう二度と動かなくなってしまった。
リビングでの家族団欒、たくさんのお土産の開封や、旅先の話。楽しい再会の雰囲気を壊さないように、一言も発することなく静かに眠ったブランは、最後の最後までかっこつけだった。
「おやすみ、ブラン……」
ぼくが生まれて初めて交わした挨拶を、最後に彼に贈る。幸せだと思った挨拶は、こんなにも寂しい気持ちにもなるのだと、初めて知った。
悲しく響いたぼくの声に、シャルロットたちはブランが眠ってしまったことに気付いたようだった。
「ブラン……? やだ、ブラン……!」
「ああ……ブランは頑張って、今日まで僕の帰りを待っていてくれたんだな……」
「ええ、あの子……毎日目が覚めると玄関を気にしていたの。あなたが帰って来たら、出迎えたかったんでしょうね……」
穏やかに目を閉じたブランの、そのぬくもりがなくなるまで、家族みんなで彼の思い出話をしながら寄り添った。
そんなに泣かないで、ブランはずっと幸せだよ。
そうみんなに伝えたかったけれど、言葉が胸に詰まって出てこなかった。
その内ブランにはふわふわの白いタオルがかけられて、本当にただ眠っているだけのような気がしたけれど、耳を寄せてももう何の音もしなかった。
それでもブランの言葉は、今でもぼくの中に響いている。
「……ネージュ、ブランはね、おやすみして天国に行ったのよ」
「天国……?」
ぼく達にとってはこの家こそが天国なのに不思議だなと思ったけれど、シャルロットが言うのならそうなのだろう。
ぼんやりと、いつかぼくが天国に行く時には泣かないで欲しいなと、シャルロットの顔を見て思った。
ぼくは、やっぱり彼女の花咲くような笑顔が好きだった。
「シャルロット……泣かないで、ブランは、最後まで幸せだった。今も、幸せなんだよ」
「ふふ、慰めてくれるの? ありがとう、ネージュ」
きっとブランも同じ気持ちだから、ぼくは少しでも彼女を笑顔に出来るようにと、それからの日々を過ごした。
文字の勉強は、頻度を減らした。ぼくにとって必要な言葉は覚えたし、それよりも、家族と思い出を作りたかったのだ。
やがて雪が溶けて暖かくなると、かつてのブランのようにシャルロットの学校の送り迎えをした。
シャルロットの友達らしい子供たちは最初驚いていたけれど、すぐにぼくにも笑いかけてくれるようになった。
嫌な記憶ばかりの外に出るのは怖かったし、家族以外の人と会うのは不安だったけれど、そんなものは杞憂だったとすぐにわかった。
駆けるように丘を下り、あたたかい風を感じながら見上げた空にはブランに似たふわふわの白い雲が浮かんでいて、その雲を背景にしてシャルロットはお日さまみたいに微笑んでいる。
ふたりがこんなにも世界を広げてくれたことに、ぼくは改めて感謝した。
家に帰ると、ポストから新聞を取ってくるとか、洗濯物が濡れる前に雨降りを教えるとか、ぼくにでも出来る簡単な手伝いをするようになった。
ブランの好きだったビスケットの残りをつまみ食いしては、お母さんに呆れたように笑われた。
ブランのようにお父さんの出迎えもした。お父さんの少し寂しそうな顔は次第に笑顔に変わって、頭を撫でてくれる手はずっと優しかった。
時間が経つと、みんなはあまりブランの話をしなくなっていった。
それが少し寂しかったけれど、忘れられているんじゃなく離れ離れになっても当たり前に家族なのだと、彼の想いは変わらず残っているのだと思うようになった。
実際壁の家族写真も、噛み痕のある椅子も、彼の寝床だったスペースも、変わらずそのままだったし、気付けばそこに居るような気もした。
ひとつ違うとするならば、ブランの居る写真の隣に、ぼくが写った家族写真が増えたことだ。
写真の真ん中にはそれぞれ、白い毛玉みたいな犬と、手足だけ白い黒い猫。間違い探しならすぐにわかるに違いない。
「……あら、ネージュ。また写真を見ていたの?」
「うん、ぼくのお気に入り! でも、写真より本物のシャルロットの方が可愛いよ」
「ん? なあに? この猫ちゃんはあなたよ。知らない子じゃないから、そんな風にそわそわしなくていいの。……ふふ、ブランも素敵に撮れてるわね。どうせなら、ふたり一緒に撮れたらよかったな……」
「あはは。あいつ結構かっこつけだから、弱った姿なんて撮られるかって隠れちゃいそう」
「ブランもネージュも、大事な家族だものね」
シャルロットには、ブランの言葉も、ぼくの言葉も通じない。会話はいつも、ぼくの一方通行だ。
それでもこうして写真を見つめる時の想いは、きっと同じだった。
ぼくは、そんな日々の中でこっそりと、家のあちこちに爪で薄く文字を刻んでいた。それは柱の下の方だったり、机の引き出しの裏だったり、探しでもしないとわからない場所だ。
『ネージュ』『ブラン』『シャルロット』『家族』『お父さん』『お母さん』『大好き』『ずっと一緒』『光』『幸せ』『あたたかい』
ぼくの散りばめた言葉たちは、決して届くことはないけれど。大事な家を傷つけないよう薄く薄く書いたから、きっとすぐに劣化して消えてしまうけれど。その想いの欠片たちは、確かにこの家の一部になった。
あの日絵本で見た泡沫に消えた人魚姫も、海に言葉なき想いを残したに違いない。届かなくても、すべてなくなったわけではないのだ。
そうしてぼくは胸の内にあたたかな想いが生まれる度、沫雪のようにそっと、人知れず消える言葉を残し続けた。
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