44 / 55
無口な彼女と窓際の席
しおりを挟む
教室の窓際の席。それは主人公の特等席ではなく、単なる学校生活の一角に過ぎなかった。少なくとも高校二年生の篠原真也にとっては。
「篠原、また寝てるのか」
クラス委員長の鋭い声に、私は半ば開いた目を完全に開けた。窓から差し込む日差しが、まぶしくて少し目を細める。
「すみません…今起きました」
自分でも情けない返事をしながら、姿勢を正す。周りからは小さな笑い声が聞こえてきた。もう慣れたけど。
「もう、何回目?授業中に寝るのはやめなさいよ」
朝比奈レイカ、クラスの委員長で優等生。彼女の叱責の声は教室の隅々まで響き渡るほど通っている。
「はい…気をつけます」
私は素直に謝った。反論する気力もない。だって、昨晩も深夜までバイトをしていたから。
――――――――――――――――――――――――
授業が終わり、放課後の準備をしていると、隣の席から小さな声が聞こえてきた。
「…ノート、貸してあげる」
振り向くと、クラスで一番目立たない存在、葉山カスミが私を見ていた。彼女は転校してきて一ヶ月ほど。クラスの誰とも積極的に話さず、授業中もほとんど発言しない。だからこそ、彼女から声をかけられたことに驚いた。
「え?あ、ありがとう…でも、なんで?」
カスミは無表情のまま、きちんと整理されたノートを差し出した。
「寝てたから…」
短い言葉だけを残して、彼女は自分の荷物をカバンに入れ始めた。彼女のノートは驚くほど丁寧で、カラフルなペンで重要なポイントが整理されていた。私が寝ている間の授業内容がすべて完璧に記録されている。
「これ、すごいな…ありがとう、助かる」
礼を言うと、カスミはわずかに顔を赤らめて、小さく頷いただけだった。
――――――――――――――――――――――――
その日から、不思議な関係が始まった。私が授業中に居眠りすると、決まってカスミがノートを貸してくれる。彼女との会話は最小限で、お互いの個人的なことには触れなかったが、徐々に心地よい緊張感が生まれていった。
ある日、いつものように彼女がノートを差し出したとき、私は勇気を出して聞いてみた。
「どうして、いつも手伝ってくれるの?」
カスミは少し驚いたような表情を見せた後、目線を落として答えた。
「篠原くんは…疲れてるから」
その一言で、私は胸が締め付けられるような感覚になった。誰にも気づかれていないと思っていた自分の状況を、この無口な女の子は見透かしていたのだ。
「バイトが忙しいの?」
彼女の質問に、私は素直に答えた。
「うん、父親が病気で…家計を助けないといけなくて」
その瞬間、思いがけず自分の胸の内を打ち明けていた。普段は誰にも話さないことを。
カスミは黙ってうなずき、「大変だね」とだけ言った。しかし、その短い言葉に彼女の温かさを感じた気がした。
放課後、カフェでバイトを始める前に、彼女からのノートをコピーしようと図書室に向かった。静かな図書室で作業をしていると、予想外の人物が現れた。
「へえ、篠原くんが図書室に来るなんて珍しいね」
朝比奈レイカだ。彼女は図書委員でもあるらしい。
「ノートをコピーしてるだけだよ」
私は素っ気なく答えた。クラス委員長には良い印象を持っていない。いつも上から目線で人を評価しているように感じるから。
「それって…葉山さんのノート?」
鋭い指摘に、思わず顔を上げた。
「なんで分かったの?」
レイカは少し不機嫌そうな表情を浮かべた。
「あの子のノートは有名だよ。整理がすごく上手で。でも、なんでそれを持ってるの?」
「貸してくれたんだ」
「へえ…あの子が?珍しいね」
レイカの言葉には、明らかな嫉妬の色が混じっていた。私はそれを無視して作業を続けた。
――――――――――――――――――――――――
次の日、教室に入るとカスミの席が空いていた。心配になって周りのクラスメイトに聞くと、風邪で休んでいるらしい。
「葉山さん、休みか…」
私は少し寂しさを感じた。彼女のノートをお借りしたままだったことを思い出し、放課後に彼女の家に届けようと決めた。保健室で住所を教えてもらい、バイトの前に寄ることにした。
カスミの家は学校から歩いて15分ほどの場所にあった。インターホンを押すと、しばらくして弱々しい声で応答があった。
「どちら様ですか…」
「篠原です。クラスメイトの。ノートを返しに来ました」
少し間があって、ドアが開いた。マスクをしたカスミが立っていた。明らかに体調が悪そうだ。
「具合悪そうだね…大丈夫?」
「うん…ありがとう」
彼女はノートを受け取ろうとしたが、その手が震えているのが見えた。
「熱あるの?」
「少し…」
彼女の返事に、私は思わず心配になった。
「家に誰かいる?」
カスミは首を横に振った。
「一人暮らし…だから」
その言葉に驚いた。高校生で一人暮らしとは珍しい。
「じゃあ、薬とか買ってきた方がいいんじゃない?」
彼女は少し迷ったような表情を見せたが、小さく頷いた。
「待っててね、すぐ戻るから」
――――――――――――――――――――――――
近くのドラッグストアで解熱剤とスポーツドリンク、それから簡単に食べられるおかゆを買って戻った。カスミは驚いた表情で私を見つめていた。
「こんなにたくさん…ありがとう」
「当たり前だよ。一人で具合悪いのは辛いでしょ」
私は台所を借りて、温かいおかゆを用意した。父親の看病で身についた技術だ。カスミはベッドに座り、恥ずかしそうに私の行動を見つめていた。
「いつも…一人だから、こんな風に誰かが世話してくれるの久しぶりで…」
その言葉に、私は彼女の孤独を感じた。
「両親は?」
「海外に…仕事で」
短い返事だったが、その背後にある寂しさを感じ取ることができた。
「そっか…なんか、お互い似てるね」
おかゆを彼女に渡しながら言った。
「どういう意味?」
「俺も実質的に一人みたいなもんだから。父親は入院中で、母親は…いないし」
カスミは黙って私の話を聞いていた。その瞳には理解と共感の色が浮かんでいるようだった。
「だから、ノートを貸してくれて本当に助かったんだ。あれがないと、テスト前にパニックになってたと思う」
彼女は小さく微笑んだ。初めて見る彼女の笑顔に、私の心臓が妙な動きをした。
「篠原くんは…頑張り屋さんだね」
「そんなことないよ。授業中、いつも寝てるのに」
「それは…理由があるから。バイトも、お父さんのためにしてるんでしょ?」
彼女の言葉に、胸が熱くなった。普段、自分のことを認めてもらえる経験があまりなかったからだ。
「カスミも頑張ってるよね。いつも完璧なノートを取って、一人暮らしもして」
会話が続くうちに、お互いの距離が縮まっていくのを感じた。
――――――――――――――――――――――――
次の日、カスミは学校に来なかった。心配になって放課後また彼女の家を訪ねると、熱が上がっていた。
「病院に行こう」
私の提案に、彼女は弱々しく抵抗した。
「大丈夫…一人で行ける…」
「無理しないで。俺が付き添うから」
結局、彼女を説得して近くの病院へ連れて行った。診察の結果、インフルエンザの疑いがあり、数日の安静が必要とのことだった。
「ごめんね…迷惑かけて」
帰り道、彼女は申し訳なさそうに言った。
「気にしないで。友達だよ、俺たち」
その言葉に、カスミの目が少し潤んだ気がした。
――――――――――――――――――――――――
数日後、彼女が学校に戻ってきた。いつもの無表情に戻っていたが、私と目が合うと小さく会釈をした。クラスの他の生徒たちは、そんな私たちの変化に気づいていなかったが、一人だけ鋭い視線を送る人物がいた。朝比奈レイカだ。
昼休み、私がカスミの席に近づくと、レイカが割り込んできた。
「篠原くん、ちょっといい?生徒会の件で相談があるんだけど」
唐突な申し出に戸惑いながらも、私はレイカについていった。
「実は、来月の文化祭の企画について意見が欲しくて…」
彼女の言葉は明らかに口実だった。話が進むにつれ、彼女の本当の意図が見えてきた。
「篠原くんって、意外と優しいんだね。葉山さんのこと、看病したって?」
その言葉に、私は驚いた。情報の回るのが早い。
「ただの友達として当然のことをしただけだよ」
「ふーん、友達ね」
レイカの声には皮肉が込められていた。
「あの子、転校してきてから誰とも親しくしてなかったから、みんな驚いてるよ。特に篠原くんみたいな人と…」
「どういう意味?」
思わず声が荒くなった。
「別に悪い意味じゃないよ。ただ、タイプが違うなって。あの子、実は頭いいし、コミュ障でもなくて。ただ自分から距離を置いてるだけなんだよね」
レイカの言葉は、私の知らないカスミの一面を示していた。
「あと、篠原くんのバイトのこと、クラスの皆知ってるよ。お父さんの病気のことも」
「なんで…」
「委員長だから、そういう情報は入ってくるの。別に悪いことじゃないでしょ?むしろ頑張ってるなって、皆思ってるよ」
レイカの言葉は意外だった。彼女のイメージが少し変わる。
「それで、お願いがあるんだけど…葉山さんのこと、もっと皆と仲良くなれるよう手伝ってくれない?あの子、篠原くんのことは信頼してるみたいだし」
予想外の提案に、私は戸惑った。
――――――――――――――――――――――――
教室に戻ると、カスミが一人で窓の外を眺めていた。私は彼女の横に座り、レイカとの会話を伝えた。
「文化祭で、みんなと一緒に何かやってみない?」
カスミは驚いたような表情を見せた後、少し考えて答えた。
「私…人と関わるの、あまり得意じゃなくて」
「でも、俺とは話せてるじゃん」
「篠原くんは…特別だから」
その言葉に、私の心臓が大きく跳ねた。
「特別?」
カスミは顔を赤らめ、言葉を選ぶように話し始めた。
「篠原くんは…私のことを、変な目で見なかった。ただの『静かな子』って。それが…嬉しかった」
彼女の言葉に、何かが胸の奥で温かくなるのを感じた。
「俺も…カスミが最初に声をかけてくれたとき、嬉しかったよ」
二人の間に静かな空気が流れた。
――――――――――――――――――――――――
翌日から、カスミは少しずつクラスの活動に参加し始めた。文化祭の準備では、彼女のアイデアが採用され、クラスメイトたちも彼女の才能に気づき始めた。レイカさえも、カスミを認め始めていた。
そんな変化の中、私たちの関係も深まっていった。授業の合間や放課後、お互いの話を聞き合う時間が増えていった。彼女の家族のこと、私の父親のこと、未来の夢…少しずつお互いを知っていく過程は、新しい扉を開けるような感覚だった。
文化祭前日の放課後、最後の準備をしていると、カスミが私を呼び止めた。
「篠原くん、ちょっといい?」
彼女の表情は真剣で、少し緊張していた。
「どうしたの?」
「屋上に…行ってもいい?」
――――――――――――――――――――――――
夕暮れ時の屋上は誰もおらず、二人きりの空間だった。カスミは手すりに寄りかかり、言葉を探すように空を見上げていた。
「私ね、転校する前はね、全然違う人だったの」
突然の告白に、私は黙って聞き入った。
「前の学校では、人気者だったの。でも、それが苦しくて…みんなの期待に応えなきゃいけなくて、本当の自分を出せなくて」
彼女の言葉には、今まで見せなかった感情が込められていた。
「だから、転校して決めたの。もう無理して明るく振る舞わない。自分らしくいようって」
「そうだったんだ…」
「でも、そうしたら今度は『無口な子』っていうレッテルを貼られて…結局、どこに行っても『何か』にならなきゃいけないのかなって思ってた」
カスミは私の方を向いた。彼女の目には涙が浮かんでいた。
「でも、篠原くんは違った。何も求めなかった。ただそのまま受け入れてくれた」
彼女の言葉に、私は胸が締め付けられる思いだった。
「俺こそ…カスミに救われたよ。ノートを貸してくれたり、俺の事情を理解してくれたり」
お互いの視線が絡み合い、言葉にならない何かが通じ合っていた。
「私ね、篠原くんのこと…」
カスミが言いかけたとき、突然ドアが開く音がした。振り向くと、そこにはレイカが立っていた。
「あ、ごめん…邪魔した?」
明らかに意図的なタイミングだった。レイカは少し焦った表情を隠しきれていない。
「朝比奈さん…どうしたの?」
カスミが冷静に尋ねた。
「明日の最終確認があるんだけど…二人とも来てほしくて」
私たちは仕方なく屋上を後にした。階段を降りる途中、レイカが小声で私に言った。
「篠原くん、私も…話したいことがあるの。文化祭の後で」
彼女の表情は真剣で、いつもの高圧的な態度はなかった。状況が複雑になっていくのを感じた。
――――――――――――――――――――――――
文化祭当日。私たちのクラスの出し物は大成功を収めた。カスミのアイデアが功を奏し、多くの来場者から好評を得た。彼女自身も、徐々に周りのクラスメイトと打ち解け始めていた。
閉会後の片付けをしていると、カスミが近づいてきた。
「篠原くん、昨日の続き…話せる?」
その瞬間、またもレイカが割り込んできた。
「篠原くん、約束してた話、いい?」
二人の女の子の視線が私に集中した。選択を迫られている状況に、私は戸惑った。しかし、この時来た結論は意外なものだった。
「二人とも…俺が話したいことがある」
予想外の言葉に、二人は驚いた表情を見せた。
「俺、自分のことばかり考えてた。父親のこと、バイト、成績…でも、二人のおかげで変われた気がする」
私は二人の顔を見つめながら続けた。
「だから、俺も自分の気持ちに正直になりたい」
そして、私はカスミの方を向いた。
「カスミ、俺…君のことが好きだ」
教室が静まり返った。カスミの顔が真っ赤になり、レイカは唇を噛んだ。
「でも、レイカのことも大切だ。クラスのみんなのこともそう」
私は深呼吸して、自分の本当の気持ちを言葉にした。
「だから、これからもみんなと一緒にいたい。特に、カスミとは…もっと深く知り合いたい」
カスミの目に涙が浮かんだ。彼女はゆっくりと頷いた。
「私も…篠原くんのことが好き」
シンプルな告白だったが、その言葉の重みは計り知れなかった。レイカは少し寂しそうな表情を浮かべたが、すぐに笑顔に変えた。
「もう、何このタイミング。私の出る幕ないじゃん」
彼女は強がりながらも、二人を祝福するような笑顔を見せた。
「でも、二人とも忘れないでね。私たちはクラスメイトだから、これからもよろしくね」
レイカの言葉に、三人の間に新しい絆が生まれたことを感じた。
――――――――――――――――――――――――
夕方、片付けが終わった後、カスミと二人で校門を出た。秋の空気が二人の周りを包み、静かな時間が流れていた。
「これからどうする?」
私の質問に、カスミは少し考えてから答えた。
「一緒に…帰る?」
シンプルだけど、その言葉には大きな意味があった。これからの二人の道程を示すような。
「うん、一緒に帰ろう」
手を繋ぐことはなかったけれど、二人の間の距離は、もう以前のようではなかった。窓際の席から始まった私たちの物語は、これからも続いていく。まだ見ぬ未来へと。
「篠原、また寝てるのか」
クラス委員長の鋭い声に、私は半ば開いた目を完全に開けた。窓から差し込む日差しが、まぶしくて少し目を細める。
「すみません…今起きました」
自分でも情けない返事をしながら、姿勢を正す。周りからは小さな笑い声が聞こえてきた。もう慣れたけど。
「もう、何回目?授業中に寝るのはやめなさいよ」
朝比奈レイカ、クラスの委員長で優等生。彼女の叱責の声は教室の隅々まで響き渡るほど通っている。
「はい…気をつけます」
私は素直に謝った。反論する気力もない。だって、昨晩も深夜までバイトをしていたから。
――――――――――――――――――――――――
授業が終わり、放課後の準備をしていると、隣の席から小さな声が聞こえてきた。
「…ノート、貸してあげる」
振り向くと、クラスで一番目立たない存在、葉山カスミが私を見ていた。彼女は転校してきて一ヶ月ほど。クラスの誰とも積極的に話さず、授業中もほとんど発言しない。だからこそ、彼女から声をかけられたことに驚いた。
「え?あ、ありがとう…でも、なんで?」
カスミは無表情のまま、きちんと整理されたノートを差し出した。
「寝てたから…」
短い言葉だけを残して、彼女は自分の荷物をカバンに入れ始めた。彼女のノートは驚くほど丁寧で、カラフルなペンで重要なポイントが整理されていた。私が寝ている間の授業内容がすべて完璧に記録されている。
「これ、すごいな…ありがとう、助かる」
礼を言うと、カスミはわずかに顔を赤らめて、小さく頷いただけだった。
――――――――――――――――――――――――
その日から、不思議な関係が始まった。私が授業中に居眠りすると、決まってカスミがノートを貸してくれる。彼女との会話は最小限で、お互いの個人的なことには触れなかったが、徐々に心地よい緊張感が生まれていった。
ある日、いつものように彼女がノートを差し出したとき、私は勇気を出して聞いてみた。
「どうして、いつも手伝ってくれるの?」
カスミは少し驚いたような表情を見せた後、目線を落として答えた。
「篠原くんは…疲れてるから」
その一言で、私は胸が締め付けられるような感覚になった。誰にも気づかれていないと思っていた自分の状況を、この無口な女の子は見透かしていたのだ。
「バイトが忙しいの?」
彼女の質問に、私は素直に答えた。
「うん、父親が病気で…家計を助けないといけなくて」
その瞬間、思いがけず自分の胸の内を打ち明けていた。普段は誰にも話さないことを。
カスミは黙ってうなずき、「大変だね」とだけ言った。しかし、その短い言葉に彼女の温かさを感じた気がした。
放課後、カフェでバイトを始める前に、彼女からのノートをコピーしようと図書室に向かった。静かな図書室で作業をしていると、予想外の人物が現れた。
「へえ、篠原くんが図書室に来るなんて珍しいね」
朝比奈レイカだ。彼女は図書委員でもあるらしい。
「ノートをコピーしてるだけだよ」
私は素っ気なく答えた。クラス委員長には良い印象を持っていない。いつも上から目線で人を評価しているように感じるから。
「それって…葉山さんのノート?」
鋭い指摘に、思わず顔を上げた。
「なんで分かったの?」
レイカは少し不機嫌そうな表情を浮かべた。
「あの子のノートは有名だよ。整理がすごく上手で。でも、なんでそれを持ってるの?」
「貸してくれたんだ」
「へえ…あの子が?珍しいね」
レイカの言葉には、明らかな嫉妬の色が混じっていた。私はそれを無視して作業を続けた。
――――――――――――――――――――――――
次の日、教室に入るとカスミの席が空いていた。心配になって周りのクラスメイトに聞くと、風邪で休んでいるらしい。
「葉山さん、休みか…」
私は少し寂しさを感じた。彼女のノートをお借りしたままだったことを思い出し、放課後に彼女の家に届けようと決めた。保健室で住所を教えてもらい、バイトの前に寄ることにした。
カスミの家は学校から歩いて15分ほどの場所にあった。インターホンを押すと、しばらくして弱々しい声で応答があった。
「どちら様ですか…」
「篠原です。クラスメイトの。ノートを返しに来ました」
少し間があって、ドアが開いた。マスクをしたカスミが立っていた。明らかに体調が悪そうだ。
「具合悪そうだね…大丈夫?」
「うん…ありがとう」
彼女はノートを受け取ろうとしたが、その手が震えているのが見えた。
「熱あるの?」
「少し…」
彼女の返事に、私は思わず心配になった。
「家に誰かいる?」
カスミは首を横に振った。
「一人暮らし…だから」
その言葉に驚いた。高校生で一人暮らしとは珍しい。
「じゃあ、薬とか買ってきた方がいいんじゃない?」
彼女は少し迷ったような表情を見せたが、小さく頷いた。
「待っててね、すぐ戻るから」
――――――――――――――――――――――――
近くのドラッグストアで解熱剤とスポーツドリンク、それから簡単に食べられるおかゆを買って戻った。カスミは驚いた表情で私を見つめていた。
「こんなにたくさん…ありがとう」
「当たり前だよ。一人で具合悪いのは辛いでしょ」
私は台所を借りて、温かいおかゆを用意した。父親の看病で身についた技術だ。カスミはベッドに座り、恥ずかしそうに私の行動を見つめていた。
「いつも…一人だから、こんな風に誰かが世話してくれるの久しぶりで…」
その言葉に、私は彼女の孤独を感じた。
「両親は?」
「海外に…仕事で」
短い返事だったが、その背後にある寂しさを感じ取ることができた。
「そっか…なんか、お互い似てるね」
おかゆを彼女に渡しながら言った。
「どういう意味?」
「俺も実質的に一人みたいなもんだから。父親は入院中で、母親は…いないし」
カスミは黙って私の話を聞いていた。その瞳には理解と共感の色が浮かんでいるようだった。
「だから、ノートを貸してくれて本当に助かったんだ。あれがないと、テスト前にパニックになってたと思う」
彼女は小さく微笑んだ。初めて見る彼女の笑顔に、私の心臓が妙な動きをした。
「篠原くんは…頑張り屋さんだね」
「そんなことないよ。授業中、いつも寝てるのに」
「それは…理由があるから。バイトも、お父さんのためにしてるんでしょ?」
彼女の言葉に、胸が熱くなった。普段、自分のことを認めてもらえる経験があまりなかったからだ。
「カスミも頑張ってるよね。いつも完璧なノートを取って、一人暮らしもして」
会話が続くうちに、お互いの距離が縮まっていくのを感じた。
――――――――――――――――――――――――
次の日、カスミは学校に来なかった。心配になって放課後また彼女の家を訪ねると、熱が上がっていた。
「病院に行こう」
私の提案に、彼女は弱々しく抵抗した。
「大丈夫…一人で行ける…」
「無理しないで。俺が付き添うから」
結局、彼女を説得して近くの病院へ連れて行った。診察の結果、インフルエンザの疑いがあり、数日の安静が必要とのことだった。
「ごめんね…迷惑かけて」
帰り道、彼女は申し訳なさそうに言った。
「気にしないで。友達だよ、俺たち」
その言葉に、カスミの目が少し潤んだ気がした。
――――――――――――――――――――――――
数日後、彼女が学校に戻ってきた。いつもの無表情に戻っていたが、私と目が合うと小さく会釈をした。クラスの他の生徒たちは、そんな私たちの変化に気づいていなかったが、一人だけ鋭い視線を送る人物がいた。朝比奈レイカだ。
昼休み、私がカスミの席に近づくと、レイカが割り込んできた。
「篠原くん、ちょっといい?生徒会の件で相談があるんだけど」
唐突な申し出に戸惑いながらも、私はレイカについていった。
「実は、来月の文化祭の企画について意見が欲しくて…」
彼女の言葉は明らかに口実だった。話が進むにつれ、彼女の本当の意図が見えてきた。
「篠原くんって、意外と優しいんだね。葉山さんのこと、看病したって?」
その言葉に、私は驚いた。情報の回るのが早い。
「ただの友達として当然のことをしただけだよ」
「ふーん、友達ね」
レイカの声には皮肉が込められていた。
「あの子、転校してきてから誰とも親しくしてなかったから、みんな驚いてるよ。特に篠原くんみたいな人と…」
「どういう意味?」
思わず声が荒くなった。
「別に悪い意味じゃないよ。ただ、タイプが違うなって。あの子、実は頭いいし、コミュ障でもなくて。ただ自分から距離を置いてるだけなんだよね」
レイカの言葉は、私の知らないカスミの一面を示していた。
「あと、篠原くんのバイトのこと、クラスの皆知ってるよ。お父さんの病気のことも」
「なんで…」
「委員長だから、そういう情報は入ってくるの。別に悪いことじゃないでしょ?むしろ頑張ってるなって、皆思ってるよ」
レイカの言葉は意外だった。彼女のイメージが少し変わる。
「それで、お願いがあるんだけど…葉山さんのこと、もっと皆と仲良くなれるよう手伝ってくれない?あの子、篠原くんのことは信頼してるみたいだし」
予想外の提案に、私は戸惑った。
――――――――――――――――――――――――
教室に戻ると、カスミが一人で窓の外を眺めていた。私は彼女の横に座り、レイカとの会話を伝えた。
「文化祭で、みんなと一緒に何かやってみない?」
カスミは驚いたような表情を見せた後、少し考えて答えた。
「私…人と関わるの、あまり得意じゃなくて」
「でも、俺とは話せてるじゃん」
「篠原くんは…特別だから」
その言葉に、私の心臓が大きく跳ねた。
「特別?」
カスミは顔を赤らめ、言葉を選ぶように話し始めた。
「篠原くんは…私のことを、変な目で見なかった。ただの『静かな子』って。それが…嬉しかった」
彼女の言葉に、何かが胸の奥で温かくなるのを感じた。
「俺も…カスミが最初に声をかけてくれたとき、嬉しかったよ」
二人の間に静かな空気が流れた。
――――――――――――――――――――――――
翌日から、カスミは少しずつクラスの活動に参加し始めた。文化祭の準備では、彼女のアイデアが採用され、クラスメイトたちも彼女の才能に気づき始めた。レイカさえも、カスミを認め始めていた。
そんな変化の中、私たちの関係も深まっていった。授業の合間や放課後、お互いの話を聞き合う時間が増えていった。彼女の家族のこと、私の父親のこと、未来の夢…少しずつお互いを知っていく過程は、新しい扉を開けるような感覚だった。
文化祭前日の放課後、最後の準備をしていると、カスミが私を呼び止めた。
「篠原くん、ちょっといい?」
彼女の表情は真剣で、少し緊張していた。
「どうしたの?」
「屋上に…行ってもいい?」
――――――――――――――――――――――――
夕暮れ時の屋上は誰もおらず、二人きりの空間だった。カスミは手すりに寄りかかり、言葉を探すように空を見上げていた。
「私ね、転校する前はね、全然違う人だったの」
突然の告白に、私は黙って聞き入った。
「前の学校では、人気者だったの。でも、それが苦しくて…みんなの期待に応えなきゃいけなくて、本当の自分を出せなくて」
彼女の言葉には、今まで見せなかった感情が込められていた。
「だから、転校して決めたの。もう無理して明るく振る舞わない。自分らしくいようって」
「そうだったんだ…」
「でも、そうしたら今度は『無口な子』っていうレッテルを貼られて…結局、どこに行っても『何か』にならなきゃいけないのかなって思ってた」
カスミは私の方を向いた。彼女の目には涙が浮かんでいた。
「でも、篠原くんは違った。何も求めなかった。ただそのまま受け入れてくれた」
彼女の言葉に、私は胸が締め付けられる思いだった。
「俺こそ…カスミに救われたよ。ノートを貸してくれたり、俺の事情を理解してくれたり」
お互いの視線が絡み合い、言葉にならない何かが通じ合っていた。
「私ね、篠原くんのこと…」
カスミが言いかけたとき、突然ドアが開く音がした。振り向くと、そこにはレイカが立っていた。
「あ、ごめん…邪魔した?」
明らかに意図的なタイミングだった。レイカは少し焦った表情を隠しきれていない。
「朝比奈さん…どうしたの?」
カスミが冷静に尋ねた。
「明日の最終確認があるんだけど…二人とも来てほしくて」
私たちは仕方なく屋上を後にした。階段を降りる途中、レイカが小声で私に言った。
「篠原くん、私も…話したいことがあるの。文化祭の後で」
彼女の表情は真剣で、いつもの高圧的な態度はなかった。状況が複雑になっていくのを感じた。
――――――――――――――――――――――――
文化祭当日。私たちのクラスの出し物は大成功を収めた。カスミのアイデアが功を奏し、多くの来場者から好評を得た。彼女自身も、徐々に周りのクラスメイトと打ち解け始めていた。
閉会後の片付けをしていると、カスミが近づいてきた。
「篠原くん、昨日の続き…話せる?」
その瞬間、またもレイカが割り込んできた。
「篠原くん、約束してた話、いい?」
二人の女の子の視線が私に集中した。選択を迫られている状況に、私は戸惑った。しかし、この時来た結論は意外なものだった。
「二人とも…俺が話したいことがある」
予想外の言葉に、二人は驚いた表情を見せた。
「俺、自分のことばかり考えてた。父親のこと、バイト、成績…でも、二人のおかげで変われた気がする」
私は二人の顔を見つめながら続けた。
「だから、俺も自分の気持ちに正直になりたい」
そして、私はカスミの方を向いた。
「カスミ、俺…君のことが好きだ」
教室が静まり返った。カスミの顔が真っ赤になり、レイカは唇を噛んだ。
「でも、レイカのことも大切だ。クラスのみんなのこともそう」
私は深呼吸して、自分の本当の気持ちを言葉にした。
「だから、これからもみんなと一緒にいたい。特に、カスミとは…もっと深く知り合いたい」
カスミの目に涙が浮かんだ。彼女はゆっくりと頷いた。
「私も…篠原くんのことが好き」
シンプルな告白だったが、その言葉の重みは計り知れなかった。レイカは少し寂しそうな表情を浮かべたが、すぐに笑顔に変えた。
「もう、何このタイミング。私の出る幕ないじゃん」
彼女は強がりながらも、二人を祝福するような笑顔を見せた。
「でも、二人とも忘れないでね。私たちはクラスメイトだから、これからもよろしくね」
レイカの言葉に、三人の間に新しい絆が生まれたことを感じた。
――――――――――――――――――――――――
夕方、片付けが終わった後、カスミと二人で校門を出た。秋の空気が二人の周りを包み、静かな時間が流れていた。
「これからどうする?」
私の質問に、カスミは少し考えてから答えた。
「一緒に…帰る?」
シンプルだけど、その言葉には大きな意味があった。これからの二人の道程を示すような。
「うん、一緒に帰ろう」
手を繋ぐことはなかったけれど、二人の間の距離は、もう以前のようではなかった。窓際の席から始まった私たちの物語は、これからも続いていく。まだ見ぬ未来へと。
0
あなたにおすすめの小説
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
誰でもイイけど、お前は無いわw
猫枕
恋愛
ラウラ25歳。真面目に勉強や仕事に取り組んでいたら、いつの間にか嫁き遅れになっていた。
同い年の幼馴染みランディーとは昔から犬猿の仲なのだが、ランディーの母に拝み倒されて見合いをすることに。
見合いの場でランディーは予想通りの失礼な発言を連発した挙げ句、
「結婚相手に夢なんて持ってないけど、いくら誰でも良いったってオマエは無いわww」
と言われてしまう。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる