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第八章
第一話 特別なデート
しおりを挟む金曜の黄昏。
空は溶けかけた金を流したように染まり、街の輪郭をやわらかく包んでいる。
惠美は、出版社のビルの前に立っていた。
制服のスカートが風に揺れ、白いブラウスが夕陽の光を受けて淡く金色に染まる。
髪が頬にかかり、惠美は指先でそっと払いのけた。
ここに立つのは、初めてだ。
かつての惠美なら、父を迎えに行くなど考えもしなかっただろう。
けれど今の彼女は、胸の奥に小さな灯を抱きながら、静かにその姿を待っている。
(……軍営の門をくぐり、点呼を待ったあの頃。
まさか今、娘の身で父を待つとは。
戦場も街も、人が生きるという点では変わらぬのだな。)
李守義の嘆息が、心の底で静かに響いた。
回転ドアの向こうから、見慣れた人影が現れる。
高橋誠一。
肩にカバンを提げ、眼鏡の奥の瞳には少しの疲れが宿る。
だが惠美の姿を見た瞬間、その疲れが溶けて消えたように、顔がふっと明るくなった。
「惠美!」
彼は思わず駆け寄る。
「ごめん、待たせたね。」
「いえ。」
惠美は小さく首を振った。
誠一の声には、隠しきれない喜びが滲んでいる。
「職場のみんなに言ったんだ。“今日は娘とデートなんだ”って。みんな笑って、『いいなあ~』って羨ましがってたよ。」
(……“デート”か。)
李守義は思わず言葉を失う。
戦場に生きた彼にとって、それは遠い響きだった。
だがこの父親の口から出るその言葉は、不器用ながらも真っ直ぐで――
まるで古びた楽器が奏でる温かい音のように、心に沁みた。
惠美は何も言わず、ただ父の歩幅に合わせる。
二人の影が並び、夕陽の道に長く伸びていった。
市街の中央にある大きな書店。
誠一はまるで子どものように嬉しそうだった。
「この棚は戦後教育の資料でね……」
「この著者は実際に取材したことがあるんだ。すごく面白い人でね……話し出すと止まらなくてさ。」
「――あ、これも。論文の参考になるかもしれない。」
語る声は穏やかだが、そこに宿る熱は隠せなかった。
惠美はその背中を見つめながら、ただ静かに耳を傾ける。
ページをめくる音、紙とインクの匂い、そのすべてが心地よい。
(この人は、紙と墨をもって戦ってきたのだ。
筆を剣に替え、言葉を盾とし、時代を刻む――。
まさに、史を記す士なり。)
惠美はふと気づく。
髪を梳かす指の動きも、授業中の言葉遣いも――
いつの間にか、この世界に馴染んでいる。
李守義ではなく、“高橋惠美”として息をしている。
もちろん、その成長の影には、もう一人の存在がいた。
――彩音。
『ちょ、惠美! スカート! 角度危ないってば!』
『吾、失礼なる所作をしてはおらぬが?』
『そういう問題じゃないの! もうっ!』
思い出すと、頬が緩む。
知らぬ間に、彼女の心にも“少女”の笑みが芽吹いていた。
「……父さん。」
惠美の声に、誠一が振り返る。
その表情にはわずかな緊張と、不安があった。
――また叱られるのではないか。
そんな怯えが、ほんの一瞬だけ瞳の奥に浮かぶ。
「父さんの目で見て、いちばん価値があると思う本を、選んでください。」
時間が、静かに止まった。
誠一の喉がわずかに動く。
彼は息を整え、慎重に棚へ手を伸ばした。
指先が震える。
本を選ぶという小さな動作が、まるで誰かの信頼を抱きしめる行為のように、重く尊く感じられた。
「……これだ。」
彼は一冊の古びた史料集を取り出した。
「少し難しいかもしれないけど、飾りがないんだ。
当時の人たちがどう生き、どう泣いたか――そのまま残ってる。」
惠美は両手で本を受け取る。
紙のざらつきが指に残り、胸の奥に熱が広がった。
父の目に宿る光――それは、長年の疲れの下で消えかけていた炎。
だが今、確かに再び灯った。
その光を見つめながら、惠美はふと悟る。
自分はもう、“他人の身体を借りた旅人”ではない。
この名で、この場所で、
一人の少女として――自分の物語を生きているのだ。
書店の外では、夜の街がゆっくりと息を吹き返す。
灯がひとつ、またひとつと灯り、橙の光が二人の影を包み込む。
(――筆を執りて、今を記す。
これもまた、生の証。
剣を捨てた我が道は、いま“生き抜く”という戦に変わったのだ。)
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