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第七章
第三話 紙と墨を刃
しおりを挟む「……高橋さん、ちょっといい?」
鞄に教科書をしまいかけていた惠美が顔を上げる。
歴史教師が、柔らかな笑みを浮かべながらも真剣な眼差しで彼女を見つめていた。
「さっきの発言、とても印象的だったわ。あの視点を文章にまとめてみない?
今度、校内で論文コンクールがあるの。あなたの考えなら、きっといい作品になると思うの。」
惠美は小さく目を瞬かせた。
一瞬の沈黙。
その胸の奥で、遠い記憶の声が響く。
――李守義。
(昔、我は兵法書を手に陣を描き、勝機を探した。
今はこの身、紙と墨を手に、人の理を論ずる。
これもまた、心を懸けた一戦なり。)
惠美は静かに息を吸い、まっすぐに教師を見据えた。
「……ぜひ、挑戦させてください。」
「いいよね。でも、あんまり力まなくていいのよ。
結果なんかより、“自分の言葉で書く”ことを大事にして。」
「……心得ました。」
惠美は丁寧に一礼し、静かに教室を後にした。
机の上に残された教科書のページを指でなぞる。
その指先に、まだチョークの粉がかすかに残っている。
筆を刃とするなら――この新しい戦場でも、私は戦えるだろうか
その夜。
食卓には、いつもと変わらない三人分の味噌汁と焼き魚。
テレビの音が遠くで流れ、箸の触れ合う音だけが部屋に響く。
「……学校で、論文コンクールがあるんです。」
惠美がそう口にした瞬間、誠一の箸がぴたりと止まった。
「論文コンクール?」
彼の目がぱっと明るくなる。
「おお、それはいいじゃないか! 実はな、父さんも若いころ出たことがあるんだよ。」
声が次第に熱を帯びていく。
「賞なんて取れなかったけど……あれが、俺が“書く”ということを意識した最初の瞬間だった。
たとえ誰に読まれなくても、書くことをやめない――そう決めたんだ。」
普段は静かなその眼差しが、少年のように輝いていた。
だが――。
「そんなことして、何の得があるの?」
貴子が箸を置き、冷ややかに言い放った。
「そんな暇があるなら、勉強でもしなさい。
受験はすぐそこなのよ。現実を見なさい。」
ぱたり、と空気が凍る。
味噌汁の湯気さえ止まったかのようだった。
「……そうだな。」
誠一は小さく笑い、目を伏せる。
「母さんの言うとおりだ。現実も大事だよ。」
その笑みが、あまりにも弱々しかった。
惠美の胸の奥が、きゅっと締めつけられる。
消えかけた灯を、もう一度灯したくなった。
惠美は箸を置き、ゆっくりと顔を上げる。
「お父さん。」
呼びかけに、二人の視線が同時に向けられる。
「お父さんの取材、戦後の記録についてでしたよね。
……もしよければ、少し意見を聞かせてください。
論文を書く上で、参考にしたいんです。」
「え……?」
「お、俺に……?」
その声は、どこか震えていた。
「はい。お父さんの考えを聞きたいんです。」
一拍の沈黙。
そして――誠一の顔に、ゆっくりと笑みが戻る。
「ああ、もちろん! 嬉しいよ。
専門的なことは言えないけど……少しでも力になれたら。」
彼は慌てて立ち上がり、書斎の方へ駆けていった。
「確か昔、参考になる本があったはずだ……!」
その背中には、長い年月の重みを脱ぎ捨てたような軽さがあった。
貴子は黙ったまま、湯呑を持ち上げた。
その横顔には、驚きとも、諦めともつかない陰が浮かんでいる。
李守義が、心の奥で静かに呟いた。
(かつて原主の冷たい言葉は、この男の心を幾度となく傷つけた。
だが今宵、たった一言の“頼み”が、その沈黙を破った。
――まるで、孤軍が久方ぶりに聞いた戦鼓の音のようだ。)
湯気がゆらりと立ちのぼり、味噌の香りがやさしく混ざる。
食卓の灯は、今夜だけはほんの少し――やさしかった。
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