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第九章
第二話 信頼
しおりを挟む夜更け。
玄関の扉が、静かに軋む音を立てて開いた。
高橋貴子は、ヒールを脱ぐと、肩にかけた鞄をそっと床に置いた。
手にした資料袋の角が折れている。
その一つひとつに、一日の疲労が滲んでいた。
「……おかえりなさい。」
リビングの灯りの下、惠美がテーブルに座っていた。
開きっぱなしのノートは、ほとんど空白のまま。
ただ静かに、彼女は母を待っていた。
貴子は一瞬、目を瞬かせる。
「まだ起きてたの? もうこんな時間よ。」
「待ってました。」
その一言は静かだったが、妙に芯の通った響きをもっていた。
貴子は微笑もうとした。
けれど、それは形だけの笑みだった。
「心配しなくていいわ。ただ、ちょっと仕事が立て込んでるだけ。」
「……母さん。」
惠美はまっすぐに顔を上げる。
「仕事で、何かあったの?」
言葉の刃が、空気を裂いたようだった。
貴子の指が止まり、紙袋の擦れる音がひときわ大きく響く。
娘からそんな言葉をかけられるのは、いつ以来だろう
「どうして……そんなことを?」
「最近、帰るのが遅いから。……気になって。」
惠美の声音はやさしく、それでいて揺るがなかった。
貴子は短く息を吸い込み、テーブルの椅子を引いた。
「……実はね、大きな案件を任されてるの。
東亜商事との契約。うちの会社では、今年いちばん重要な取引。
でも、相手は業界でも最大手。もし負けたら――課長になって初めての仕事が全部、無駄になる。」
言葉の終わりに、かすかな震えが混じった。
強気に見せてきた彼女の声が、少しだけ崩れる。
「……でも大丈夫よ。ただ、少し疲れただけ。」
その声には、疲労よりも深い孤独がにじんでいた。
惠美は黙って母を見つめた。
指先が、テーブルの縁をかすかに叩く。
(――かつての戦場では、一度の敗北が国を失わせた。
今の戦場では、一度の失敗が地位を奪う。
だが、“戦う心”だけは、いつの世も変わらぬ。)
胸の奥で、李守義の声が低く響く。
惠美はゆっくりと息を整え、静かに言葉を紡いだ。
「母さんは、もう十分頑張ってる。
でも……頼るなら、ちゃんと選んでほしい。」
貴子のまつ毛が微かに震える。
「……選ぶ?」
「うん。この家を支えてるのは、母さんの努力だよ。
でも、もし誰かに寄りかかるなら……どうか、家族にして。
外の人じゃなくて、ここにいる私と父さんに。」
その言葉は、まっすぐ胸に届いた。
貴子の唇がかすかに震える。
彼女は俯き、そしてようやく、ゆっくりと笑った。
それは作り笑いではない、かすかに滲む本当の笑みだった。
「……ありがとう、惠美。」
その声には、わずかに涙が混じっていた。
灯りが、二人のあいだをやわらかく照らす。
長い間、閉じていた扉が、ほんの少しだけ開いたように感じられた。
惠美の瞳の奥には、静かな光が宿る。
それは少女のものではなく、ひとりの“守る者”の光。
(――この家を、俺が守る。)
李守義の声が、胸の底で誓いのように響いた。
外では、夜風が庭木を揺らし、遠くの街灯がかすかに瞬く。
食卓の上の灯だけが、変わらず温かく、
母と娘――そして二つの魂を、静かに照らしていた。
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