31 / 37
第九章
第四話 堂々たる守り
しおりを挟む
夜の帳が静かに降り、街を覆っていた。
東亜商事のビルの前。
高橋貴子はロビーを出て、夜風を胸いっぱいに吸い込んだ。
腕に掛けたジャケットの重みが、今日一日の疲れをそのまま映している。
ヒールの音が石畳に響き、人気のないエントランスに溶けていった。
その時、ビルの前に停まっていた車の窓が静かに降りた。
「ご苦労、貴子。」
低く、どこか馴れ馴れしい声。
顔を覗かせたのは、大島。
いつものように余裕の笑みを浮かべ、片肘を窓に預けている。
目元には計算された柔らかさ――けれどその笑みは、わずかに濃すぎた。
「送っていくよ。」
声は優しげだが、拒めば空気が重くなるような圧を含んでいた。
貴子は一瞬、ためらった。
唇がわずかに動いた、その時――
「今夜は、結構です。」
その声は、背後から聞こえた。
穏やかで、しかし刃のように鋭かった。
街灯の下。
白いシャツにジャケットを羽織った男が、街灯の光を踏みしめるように近づいてくる。
高橋誠一。
長年、机と原稿の前でしか戦ってこなかった男。
けれど今、その足取りには迷いも弱さもなかった。
眼鏡の奥の瞳は、まっすぐに前を見据えている。
その光は、まるで灯りを反射する刀身のように冷たく強い。
「……誠一?」
誠一は大島の前で立ち止まり、軽く会釈した。
いつもの柔らかい声のまま、だがその響きには明確な意志が宿っている。
「これまで妻を気にかけてくださって、ありがとうございます。
ですが……今夜は、私が迎えに来ました。」
その一言に、空気が張り詰めた。
沈黙の中、車のエンジン音すら遠ざかる。
大島の笑みが、唇の端でわずかに止まる。
目の奥に、一瞬だけ鋭い影が走った。
しかし彼は、すぐに柔らかい笑みを戻す。
「……ああ、そうか。ご主人が迎えに来てたとはね。
やっぱり家族がいちばんだ。」
「――ええ。家族こそが、守るべきすべてです。」
その言葉の重みは、微笑みよりも鋭く、刃のように空気を裂いた。
大島の表情から、完全に笑みが消える。
貴子は、その場の光景を息を呑んで見つめていた。
この男が、これほどまっすぐに立ち向かう姿を、彼女は一度も見たことがなかった。
夜風が髪を揺らす。
貴子はゆっくりと息を整え、微笑んだ。
「……行きましょう、あなた。」
そう言ってから、彼女は大島に向かい、深く一礼した。
その姿には、部下としての礼儀と、ひとりの女性としての決別が同居していた。
短く、けれど確かに――“終わり”を告げる一礼。
誠一は軽く頷き、貴子の隣へ歩み寄る。
彼の手が自然に伸び、風を遮るように彼女の前へ出る。
その仕草に、貴子は胸の奥で、何かがほどけるのを感じた。
ふたりの影が路上に並び、ゆっくりと重なって伸びていく。
背後。
大島の車のライトが灯る。
しかし、エンジンは――かからなかった。
闇の中、握られたハンドルの上で指が軋む。
その横顔には、もう笑みはなかった。
街灯の下、貴子と誠一は並んで歩いていた。
夜風が頬を撫で、ふたりの間を抜けていく。
「……こんなふうに一緒に帰るの、何年ぶりかしら。」
「……これからも。もし、よければ。
たまにでもいい。君を迎えに来たい。」
「ふふ……期待してるわ。」
風が吹く。
街灯がゆらめき、ふたりの影が再びひとつに重なった。
長い夜の果て、ようやく見えた光があった。
誰に見せるでもなく、
それはただ――ふたりだけの、堂々たる“守り”だった。
東亜商事のビルの前。
高橋貴子はロビーを出て、夜風を胸いっぱいに吸い込んだ。
腕に掛けたジャケットの重みが、今日一日の疲れをそのまま映している。
ヒールの音が石畳に響き、人気のないエントランスに溶けていった。
その時、ビルの前に停まっていた車の窓が静かに降りた。
「ご苦労、貴子。」
低く、どこか馴れ馴れしい声。
顔を覗かせたのは、大島。
いつものように余裕の笑みを浮かべ、片肘を窓に預けている。
目元には計算された柔らかさ――けれどその笑みは、わずかに濃すぎた。
「送っていくよ。」
声は優しげだが、拒めば空気が重くなるような圧を含んでいた。
貴子は一瞬、ためらった。
唇がわずかに動いた、その時――
「今夜は、結構です。」
その声は、背後から聞こえた。
穏やかで、しかし刃のように鋭かった。
街灯の下。
白いシャツにジャケットを羽織った男が、街灯の光を踏みしめるように近づいてくる。
高橋誠一。
長年、机と原稿の前でしか戦ってこなかった男。
けれど今、その足取りには迷いも弱さもなかった。
眼鏡の奥の瞳は、まっすぐに前を見据えている。
その光は、まるで灯りを反射する刀身のように冷たく強い。
「……誠一?」
誠一は大島の前で立ち止まり、軽く会釈した。
いつもの柔らかい声のまま、だがその響きには明確な意志が宿っている。
「これまで妻を気にかけてくださって、ありがとうございます。
ですが……今夜は、私が迎えに来ました。」
その一言に、空気が張り詰めた。
沈黙の中、車のエンジン音すら遠ざかる。
大島の笑みが、唇の端でわずかに止まる。
目の奥に、一瞬だけ鋭い影が走った。
しかし彼は、すぐに柔らかい笑みを戻す。
「……ああ、そうか。ご主人が迎えに来てたとはね。
やっぱり家族がいちばんだ。」
「――ええ。家族こそが、守るべきすべてです。」
その言葉の重みは、微笑みよりも鋭く、刃のように空気を裂いた。
大島の表情から、完全に笑みが消える。
貴子は、その場の光景を息を呑んで見つめていた。
この男が、これほどまっすぐに立ち向かう姿を、彼女は一度も見たことがなかった。
夜風が髪を揺らす。
貴子はゆっくりと息を整え、微笑んだ。
「……行きましょう、あなた。」
そう言ってから、彼女は大島に向かい、深く一礼した。
その姿には、部下としての礼儀と、ひとりの女性としての決別が同居していた。
短く、けれど確かに――“終わり”を告げる一礼。
誠一は軽く頷き、貴子の隣へ歩み寄る。
彼の手が自然に伸び、風を遮るように彼女の前へ出る。
その仕草に、貴子は胸の奥で、何かがほどけるのを感じた。
ふたりの影が路上に並び、ゆっくりと重なって伸びていく。
背後。
大島の車のライトが灯る。
しかし、エンジンは――かからなかった。
闇の中、握られたハンドルの上で指が軋む。
その横顔には、もう笑みはなかった。
街灯の下、貴子と誠一は並んで歩いていた。
夜風が頬を撫で、ふたりの間を抜けていく。
「……こんなふうに一緒に帰るの、何年ぶりかしら。」
「……これからも。もし、よければ。
たまにでもいい。君を迎えに来たい。」
「ふふ……期待してるわ。」
風が吹く。
街灯がゆらめき、ふたりの影が再びひとつに重なった。
長い夜の果て、ようやく見えた光があった。
誰に見せるでもなく、
それはただ――ふたりだけの、堂々たる“守り”だった。
0
あなたにおすすめの小説
【完結】乙女ゲーム開始前に消える病弱モブ令嬢に転生しました
佐倉穂波
恋愛
転生したルイシャは、自分が若くして死んでしまう乙女ゲームのモブ令嬢で事を知る。
確かに、まともに起き上がることすら困難なこの体は、いつ死んでもおかしくない状態だった。
(そんな……死にたくないっ!)
乙女ゲームの記憶が正しければ、あと数年で死んでしまうルイシャは、「生きる」ために努力することにした。
2023.9.3 投稿分の改稿終了。
2023.9.4 表紙を作ってみました。
2023.9.15 完結。
2023.9.23 後日談を投稿しました。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
〘完〙なぜかモブの私がイケメン王子に強引に迫られてます 〜転生したら推しのヒロインが不在でした〜
hanakuro
恋愛
転生してみたら、そこは大好きな漫画の世界だった・・・
OLの梨奈は、事故により突然その生涯閉じる。
しかし次に気付くと、彼女は伯爵令嬢に転生していた。しかも、大好きだった漫画の中のたったのワンシーンに出てくる名もないモブ。
モブならお気楽に推しのヒロインを観察して過ごせると思っていたら、まさかのヒロインがいない!?
そして、推し不在に落胆する彼女に王子からまさかの強引なアプローチが・・
王子!その愛情はヒロインに向けてっ!
私、モブですから!
果たしてヒロインは、どこに行ったのか!?
そしてリーナは、王子の強引なアプローチから逃れることはできるのか!?
イケメン王子に翻弄される伯爵令嬢の恋模様が始まる。
転生者はチートな悪役令嬢になりました〜私を死なせた貴方を許しません〜
みおな
恋愛
私が転生したのは、乙女ゲームの世界でした。何ですか?このライトノベル的な展開は。
しかも、転生先の悪役令嬢は公爵家の婚約者に冤罪をかけられて、処刑されてるじゃないですか。
冗談は顔だけにして下さい。元々、好きでもなかった婚約者に、何で殺されなきゃならないんですか!
わかりました。私が転生したのは、この悪役令嬢を「救う」ためなんですね?
それなら、ついでに公爵家との婚約も回避しましょう。おまけで貴方にも仕返しさせていただきますね?
つまらなかった乙女ゲームに転生しちゃったので、サクッと終わらすことにしました
蒼羽咲
ファンタジー
つまらなかった乙女ゲームに転生⁈
絵に惚れ込み、一目惚れキャラのためにハードまで買ったが内容が超つまらなかった残念な乙女ゲームに転生してしまった。
絵は超好みだ。内容はご都合主義の聖女なお花畑主人公。攻略イケメンも顔は良いがちょろい対象ばかり。てこたぁ逆にめちゃくちゃ住み心地のいい場所になるのでは⁈と気づき、テンションが一気に上がる!!
聖女など面倒な事はする気はない!サクッと攻略終わらせてぐーたら生活をGETするぞ!
ご都合主義ならチョロい!と、野望を胸に動き出す!!
+++++
・重複投稿・土曜配信 (たま~に水曜…不定期更新)
もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?
冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。
オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。
だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。
その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・
「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」
「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」
【完結】ひとつだけ、ご褒美いただけますか?――没落令嬢、氷の王子にお願いしたら溺愛されました。
猫屋敷 むぎ
恋愛
没落伯爵家の娘の私、ノエル・カスティーユにとっては少し眩しすぎる学院の舞踏会で――
私の願いは一瞬にして踏みにじられました。
母が苦労して買ってくれた唯一の白いドレスは赤ワインに染められ、
婚約者ジルベールは私を見下ろしてこう言ったのです。
「君は、僕に恥をかかせたいのかい?」
まさか――あの優しい彼が?
そんなはずはない。そう信じていた私に、現実は冷たく突きつけられました。
子爵令嬢カトリーヌの冷笑と取り巻きの嘲笑。
でも、私には、味方など誰もいませんでした。
ただ一人、“氷の王子”カスパル殿下だけが。
白いハンカチを差し出し――その瞬間、止まっていた時間が静かに動き出したのです。
「……ひとつだけ、ご褒美いただけますか?」
やがて、勇気を振り絞って願った、小さな言葉。
それは、水底に沈んでいた私の人生をすくい上げ、
冷たい王子の心をそっと溶かしていく――最初の奇跡でした。
没落令嬢ノエルと、孤独な氷の王子カスパル。
これは、そんなじれじれなふたりが“本当の幸せを掴むまで”のお話です。
※全10話+番外編・約2.5万字の短編。一気読みもどうぞ
※わんこが繋ぐ恋物語です
※因果応報ざまぁ。最後は甘く、後味スッキリ
冤罪で辺境に幽閉された第4王子
satomi
ファンタジー
主人公・アンドリュート=ラルラは冤罪で辺境に幽閉されることになったわけだが…。
「辺境に幽閉とは、辺境で生きている人間を何だと思っているんだ!辺境は不要な人間を送る場所じゃない!」と、辺境伯は怒っているし当然のことだろう。元から辺境で暮している方々は決して不要な方ではないし、‘辺境に幽閉’というのはなんとも辺境に暮らしている方々にしてみれば、喧嘩売ってんの?となる。
辺境伯の娘さんと婚約という話だから辺境伯の主人公へのあたりも結構なものだけど、娘さんは美人だから万事OK。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる