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第九章
第四話 堂々たる守り
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夜の帳が静かに降り、街を覆っていた。
東亜商事のビルの前。
高橋貴子はロビーを出て、夜風を胸いっぱいに吸い込んだ。
腕に掛けたジャケットの重みが、今日一日の疲れをそのまま映している。
ヒールの音が石畳に響き、人気のないエントランスに溶けていった。
その時、ビルの前に停まっていた車の窓が静かに降りた。
「ご苦労、貴子。」
低く、どこか馴れ馴れしい声。
顔を覗かせたのは、大島。
いつものように余裕の笑みを浮かべ、片肘を窓に預けている。
目元には計算された柔らかさ――けれどその笑みは、わずかに濃すぎた。
「送っていくよ。」
声は優しげだが、拒めば空気が重くなるような圧を含んでいた。
貴子は一瞬、ためらった。
唇がわずかに動いた、その時――
「今夜は、結構です。」
その声は、背後から聞こえた。
穏やかで、しかし刃のように鋭かった。
街灯の下。
白いシャツにジャケットを羽織った男が、街灯の光を踏みしめるように近づいてくる。
高橋誠一。
長年、机と原稿の前でしか戦ってこなかった男。
けれど今、その足取りには迷いも弱さもなかった。
眼鏡の奥の瞳は、まっすぐに前を見据えている。
その光は、まるで灯りを反射する刀身のように冷たく強い。
「……誠一?」
誠一は大島の前で立ち止まり、軽く会釈した。
いつもの柔らかい声のまま、だがその響きには明確な意志が宿っている。
「これまで妻を気にかけてくださって、ありがとうございます。
ですが……今夜は、私が迎えに来ました。」
その一言に、空気が張り詰めた。
沈黙の中、車のエンジン音すら遠ざかる。
大島の笑みが、唇の端でわずかに止まる。
目の奥に、一瞬だけ鋭い影が走った。
しかし彼は、すぐに柔らかい笑みを戻す。
「……ああ、そうか。ご主人が迎えに来てたとはね。
やっぱり家族がいちばんだ。」
「――ええ。家族こそが、守るべきすべてです。」
その言葉の重みは、微笑みよりも鋭く、刃のように空気を裂いた。
大島の表情から、完全に笑みが消える。
貴子は、その場の光景を息を呑んで見つめていた。
この男が、これほどまっすぐに立ち向かう姿を、彼女は一度も見たことがなかった。
夜風が髪を揺らす。
貴子はゆっくりと息を整え、微笑んだ。
「……行きましょう、あなた。」
そう言ってから、彼女は大島に向かい、深く一礼した。
その姿には、部下としての礼儀と、ひとりの女性としての決別が同居していた。
短く、けれど確かに――“終わり”を告げる一礼。
誠一は軽く頷き、貴子の隣へ歩み寄る。
彼の手が自然に伸び、風を遮るように彼女の前へ出る。
その仕草に、貴子は胸の奥で、何かがほどけるのを感じた。
ふたりの影が路上に並び、ゆっくりと重なって伸びていく。
背後。
大島の車のライトが灯る。
しかし、エンジンは――かからなかった。
闇の中、握られたハンドルの上で指が軋む。
その横顔には、もう笑みはなかった。
街灯の下、貴子と誠一は並んで歩いていた。
夜風が頬を撫で、ふたりの間を抜けていく。
「……こんなふうに一緒に帰るの、何年ぶりかしら。」
「……これからも。もし、よければ。
たまにでもいい。君を迎えに来たい。」
「ふふ……期待してるわ。」
風が吹く。
街灯がゆらめき、ふたりの影が再びひとつに重なった。
長い夜の果て、ようやく見えた光があった。
誰に見せるでもなく、
それはただ――ふたりだけの、堂々たる“守り”だった。
東亜商事のビルの前。
高橋貴子はロビーを出て、夜風を胸いっぱいに吸い込んだ。
腕に掛けたジャケットの重みが、今日一日の疲れをそのまま映している。
ヒールの音が石畳に響き、人気のないエントランスに溶けていった。
その時、ビルの前に停まっていた車の窓が静かに降りた。
「ご苦労、貴子。」
低く、どこか馴れ馴れしい声。
顔を覗かせたのは、大島。
いつものように余裕の笑みを浮かべ、片肘を窓に預けている。
目元には計算された柔らかさ――けれどその笑みは、わずかに濃すぎた。
「送っていくよ。」
声は優しげだが、拒めば空気が重くなるような圧を含んでいた。
貴子は一瞬、ためらった。
唇がわずかに動いた、その時――
「今夜は、結構です。」
その声は、背後から聞こえた。
穏やかで、しかし刃のように鋭かった。
街灯の下。
白いシャツにジャケットを羽織った男が、街灯の光を踏みしめるように近づいてくる。
高橋誠一。
長年、机と原稿の前でしか戦ってこなかった男。
けれど今、その足取りには迷いも弱さもなかった。
眼鏡の奥の瞳は、まっすぐに前を見据えている。
その光は、まるで灯りを反射する刀身のように冷たく強い。
「……誠一?」
誠一は大島の前で立ち止まり、軽く会釈した。
いつもの柔らかい声のまま、だがその響きには明確な意志が宿っている。
「これまで妻を気にかけてくださって、ありがとうございます。
ですが……今夜は、私が迎えに来ました。」
その一言に、空気が張り詰めた。
沈黙の中、車のエンジン音すら遠ざかる。
大島の笑みが、唇の端でわずかに止まる。
目の奥に、一瞬だけ鋭い影が走った。
しかし彼は、すぐに柔らかい笑みを戻す。
「……ああ、そうか。ご主人が迎えに来てたとはね。
やっぱり家族がいちばんだ。」
「――ええ。家族こそが、守るべきすべてです。」
その言葉の重みは、微笑みよりも鋭く、刃のように空気を裂いた。
大島の表情から、完全に笑みが消える。
貴子は、その場の光景を息を呑んで見つめていた。
この男が、これほどまっすぐに立ち向かう姿を、彼女は一度も見たことがなかった。
夜風が髪を揺らす。
貴子はゆっくりと息を整え、微笑んだ。
「……行きましょう、あなた。」
そう言ってから、彼女は大島に向かい、深く一礼した。
その姿には、部下としての礼儀と、ひとりの女性としての決別が同居していた。
短く、けれど確かに――“終わり”を告げる一礼。
誠一は軽く頷き、貴子の隣へ歩み寄る。
彼の手が自然に伸び、風を遮るように彼女の前へ出る。
その仕草に、貴子は胸の奥で、何かがほどけるのを感じた。
ふたりの影が路上に並び、ゆっくりと重なって伸びていく。
背後。
大島の車のライトが灯る。
しかし、エンジンは――かからなかった。
闇の中、握られたハンドルの上で指が軋む。
その横顔には、もう笑みはなかった。
街灯の下、貴子と誠一は並んで歩いていた。
夜風が頬を撫で、ふたりの間を抜けていく。
「……こんなふうに一緒に帰るの、何年ぶりかしら。」
「……これからも。もし、よければ。
たまにでもいい。君を迎えに来たい。」
「ふふ……期待してるわ。」
風が吹く。
街灯がゆらめき、ふたりの影が再びひとつに重なった。
長い夜の果て、ようやく見えた光があった。
誰に見せるでもなく、
それはただ――ふたりだけの、堂々たる“守り”だった。
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