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第十一章
第二話 故宮と北京ダック
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車はゆるやかに走り出し、窓の外を北京の街並みが流れていく。
霧の晴れた朝の光の中、灰色の城壁、赤い瓦屋根、そして高層ビルのガラスが交互に過ぎていった。
古と今がガラス越しに重なり、まるで時代が鏡の中で交錯しているようだった。
「……仕事のほう、大丈夫なの?」
誠一が膝の上のカメラを撫でながら、隣の貴子に声をかける。
その声音には、隠しきれない気遣いがにじんでいた。
貴子は書類を閉じ、小さく笑う。
「大丈夫。会社の人も“せっかくだから家族と行っておいで”って。
観光地とレストランのリストまでくれたの。」
その笑みは、仕事の顔ではなく、家族に向ける穏やかなものだった。
車内に、柔らかい空気が流れる。
――久しぶりの、言葉のいらない静けさ。
午門。
朱塗りの壁と金色の瓦が、太陽に照らされて鈍く光る。
人の波が絶えないのに、不思議とその荘厳さは揺るがなかった。
惠美は青い石畳の上を、ゆっくりと歩く。
指先が、冷たい壁をかすめた。
指に伝わるその感触は、まるで何百年もの時の層。
胸の奥で、李守義の声が静かに響いた。
(ここは、かつて天下の中心。
今はただ、人の流れに埋もれる一角。
永遠を信じた帝王の夢も、今はこの石の下に沈んでいる。。
人の儚さは、こうして刻まれるのだ。)
誠一がシャッターを切る音が、遠くで小さく鳴る。
「想像してたより……広くて、でもどこか寂しいな。」
「どんな栄華も、いつかは歴史の頁になる。」
惠美はまっすぐ正殿を見上げながら言う。
「今、私たちが見ているのは、“生き残った痕跡”なの。」
貴子はその横顔を見つめ、そっと微笑んだ。
「だからこそ、記憶されるのよ。
人は、滅びるものを美しいと思うから。」
三人は並んで歩き出す。
石獅子の横を、朱の門を、色あせた柱の下を。
遠くには、ガラスのビル群が空を切り取るようにそびえていた。
その背後に、古い瓦屋根が寄り添っている。
――過去と現在が、同じ空を分け合っていた。
惠美は胸の奥に小さな鼓動を感じる。
(どれほど時が流れても、人は何かを残そうとする。
それが、命の証なのかもしれない。)
夕暮れ。
街の灯がともり、空が群青に沈む。
「この近くに、美味しい北京ダックの店があるらしいの。」
貴子がバッグを肩に掛け直し、少し楽しげに言った。
店の中は、湯気と香ばしい匂いに満ちていた。
天井の明かりが温かく、油のはじける音が心地よい。
職人の包丁が滑る。
焼き色のついた皮が薄く切り離され、皿の上に積まれていく。
金色の脂が光をはね返した。
「こうやって包むんだっけ……えっと……」
誠一が不器用に餅皮を広げ、きゅうりを落とす。
貴子が苦笑し、そっと直してやる。
「ほら、こうして。ね、できたでしょ?」
惠美は、その光景を黙って見ていた。
知らないうちに、口元がゆるむ。
一口。
パリッとした音がして、香ばしさと甘みが広がる。
熱が喉を下り、胸の奥をあたためていく。
窓の外では、街灯とネオンが交じり合い、
ガラス越しにゆらめく光が、テーブルの上に柔らかい影を落としていた。
そこには、契約も締め切りもない。
ただ、三人で囲むひとつの食卓。
惠美は静かに目を伏せ、心の中で呟いた。
(――きっと、私が守りたかったのは、こういう瞬間なんだ。)
李守義の声は、もう何も語らなかった。
ただ、あたたかな沈黙だけが、三人のあいだに静かに残った。
霧の晴れた朝の光の中、灰色の城壁、赤い瓦屋根、そして高層ビルのガラスが交互に過ぎていった。
古と今がガラス越しに重なり、まるで時代が鏡の中で交錯しているようだった。
「……仕事のほう、大丈夫なの?」
誠一が膝の上のカメラを撫でながら、隣の貴子に声をかける。
その声音には、隠しきれない気遣いがにじんでいた。
貴子は書類を閉じ、小さく笑う。
「大丈夫。会社の人も“せっかくだから家族と行っておいで”って。
観光地とレストランのリストまでくれたの。」
その笑みは、仕事の顔ではなく、家族に向ける穏やかなものだった。
車内に、柔らかい空気が流れる。
――久しぶりの、言葉のいらない静けさ。
午門。
朱塗りの壁と金色の瓦が、太陽に照らされて鈍く光る。
人の波が絶えないのに、不思議とその荘厳さは揺るがなかった。
惠美は青い石畳の上を、ゆっくりと歩く。
指先が、冷たい壁をかすめた。
指に伝わるその感触は、まるで何百年もの時の層。
胸の奥で、李守義の声が静かに響いた。
(ここは、かつて天下の中心。
今はただ、人の流れに埋もれる一角。
永遠を信じた帝王の夢も、今はこの石の下に沈んでいる。。
人の儚さは、こうして刻まれるのだ。)
誠一がシャッターを切る音が、遠くで小さく鳴る。
「想像してたより……広くて、でもどこか寂しいな。」
「どんな栄華も、いつかは歴史の頁になる。」
惠美はまっすぐ正殿を見上げながら言う。
「今、私たちが見ているのは、“生き残った痕跡”なの。」
貴子はその横顔を見つめ、そっと微笑んだ。
「だからこそ、記憶されるのよ。
人は、滅びるものを美しいと思うから。」
三人は並んで歩き出す。
石獅子の横を、朱の門を、色あせた柱の下を。
遠くには、ガラスのビル群が空を切り取るようにそびえていた。
その背後に、古い瓦屋根が寄り添っている。
――過去と現在が、同じ空を分け合っていた。
惠美は胸の奥に小さな鼓動を感じる。
(どれほど時が流れても、人は何かを残そうとする。
それが、命の証なのかもしれない。)
夕暮れ。
街の灯がともり、空が群青に沈む。
「この近くに、美味しい北京ダックの店があるらしいの。」
貴子がバッグを肩に掛け直し、少し楽しげに言った。
店の中は、湯気と香ばしい匂いに満ちていた。
天井の明かりが温かく、油のはじける音が心地よい。
職人の包丁が滑る。
焼き色のついた皮が薄く切り離され、皿の上に積まれていく。
金色の脂が光をはね返した。
「こうやって包むんだっけ……えっと……」
誠一が不器用に餅皮を広げ、きゅうりを落とす。
貴子が苦笑し、そっと直してやる。
「ほら、こうして。ね、できたでしょ?」
惠美は、その光景を黙って見ていた。
知らないうちに、口元がゆるむ。
一口。
パリッとした音がして、香ばしさと甘みが広がる。
熱が喉を下り、胸の奥をあたためていく。
窓の外では、街灯とネオンが交じり合い、
ガラス越しにゆらめく光が、テーブルの上に柔らかい影を落としていた。
そこには、契約も締め切りもない。
ただ、三人で囲むひとつの食卓。
惠美は静かに目を伏せ、心の中で呟いた。
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ただ、あたたかな沈黙だけが、三人のあいだに静かに残った。
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